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何者でもない私を生きる。実験

何者かになろうとして30歳まで生きてきた私は、何者かになるのを諦めた。
何者でもない自分を生きはじめて1年と半年ほどの月日が経とうとしている。

生まれてから気づけばずっと、この与えられた社会に適応しようともがいてきた。猫をかぶって馴染んでる振りもした。けど一度きりの人生に嘘がつけなくなって、社会不適合者である自分の居場所を求めて旅するようになった。定職にはつかずアウトサイダーな道をひた走りつつ、それでも社会に通用する人になりたいと願っていた。その心理には社会的な評価を過剰に気にする自分がいた。社会的とは、親や学校、会社などの他者から与えられる評価だ。社会から認められる人にならなければ自分には価値がないとすら強く思い込んでいた。でもその一方で、承認欲求を満たそうとすればするほど生きづらくなって苦しかった。いつも誰かと自分を比較しては劣等感がつきまとい、何者かになることをモチベーションしてがんばる躁状態のあとには、必ず辛い鬱が待っていた。そんな何者かになろうとする生き方では幸せになれない。そう悟って、躁鬱のループから抜け出そうと、30歳を過ぎてから何者かになろうとするのはやめた。

何者でもない自分の正体が分からない

長年追い求めつづけた何者かになるのを諦めてからは、何をモチベーションにして生きればいいか分からなくなった。自分という人間を形どってきたアイデンティティーと見せかけの自信は崩れ去り、自分を動かすOSが崩壊した。自分を信じられなくなり、何もかも分からなくなった。何か新しいことを思いついても、また何者かになろうとしてるんじゃないかと我を疑った。他者からの承認を求める生き方に限界を感じながらも、それ以外の生き方を知らず、これから先どう生きたいのかも分からず絶望した。慣れ親しんだ生き方をやめたいもののなかなか抜け出せず、また絶望を味わうのではないかと思うと不安で新しい一歩を踏みだすのが怖くてたまらなくなった。

不安に怯えてぼんやりと過去と未来を彷徨いながら、いまを生きれず悶々と辛い日々が続いた。ムダに不安を抱き続けても、何ひとつ改善などされない。自らの苦境を受け入れることを拒み、状況を改善することを拒み、瓦礫の中から大事なものを掘り起こすのを拒み、そうして怒りと苦しみの中で人生を破滅へと追いやっている。自らの運命を再構築しようともせず、苦難と取っ組み合いを続け、鬱病という苦しみの淵に立っていた。

人生ではじめて心療内科に出向いて、医師から躁鬱病だと診断された。内心ホッとするのと幸い、薬を飲まないと日常生活に支障がきたすほど症状が悪いわけではなく、医師からも薬を飲まずとも「生き方を見直すことで症状が改善される」はずだと教えてもらった。

新しい生きる実験がはじまる

もう過去は振り返らない。後悔したところでなにも変わらない。未来を不安に思ったところで今行動を起こさなければ何も変われない。自分はなにがあっても学び、この不安から解放された人生をこれからは歩みたい。「苦悩しつづける人生」から「希望に満ちた人生」へと生まれ変わる。そのプロセスを、生きる実験と称して言葉にしたためて共有することでともに歩みを進めるきっかけになれれば嬉しい。

Live different. 生き方を変え、人生を変えることはきっとできる。そう信じて生きる実験に励もう。