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参加:Chinatown Walking Tours - Telok Ayer Heritage Trail

シンガポール、URA(都市機構のような) の無料ツアーに参加、2時間くらいTelok Ayerを歩きながらショップハウスや寺院など史跡について説明してくれる。10月25~27日は一帯がカーフリーデイで駐車してる車がおらず写真撮るいい機会でもあった。他も色々あり誰でも(旅行者でも)参加可能です。https://www.eventbrite.sg/o/urban-redevelopment-authority-7497466443

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以下内容:華人のなかでも福建移民が最初に移民したためシンガポールでは最もメジャーな方言集団になっている。植民地時代、宗主国と中国移民がシンガポールを含めた海峡植民地でスパイスを作っていた。Ann Siang HillでもChia Ann Siangという華人がプランテーション業を営んでいた。

ショップハウスは以前は採光と雨水を集めるための中庭があるものが多かったが、今ではほとんどがそうでなくなってしまった。ショップハウスはもともと後ろ同士が向かい合うようになっておりその間に小道(バックレーン)があった。その小道を利用して農民が堆肥を集めた。最初は天秤棒で2つ運ぶのがやっとであったが荷台に載せるなど次第に効率化されていった。また標準化されたバケツが使われるようになり、回収するものにより空のバケツと交換された。

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この小道はその後各ショップハウスが潰してそれぞれの敷地にしてしまった。 五脚基(ショップハウスの軒下部分)は植民地政府が作らせ、そこでは主に華人が故郷へ手紙を送る際の代筆業や床屋、靴磨き、結婚式や葬式までも行われた。そのため、軒下は常に利用されており通ることができないことも多く植民地政府は軒下の利用を禁止したがそれに反対した中華系移民が暴動を起こし再び使えるようになった。

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ショップハウスには建てる際のルールがあり、それは同じ幅とすることで 、見るとわかるが皆等間隔で建てられている。ショップハウス同士の壁の厚さも30cm程度あり、これも火事の際の延焼を防ぐために定められた。ショップハウスには二階建てのものや一階あたりの窓が2つしかないものも初期には見られた。その後ファサードにより西洋の影響が見られるようになる。また故郷である中国の影響も受けたものになっている。

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Telok AyerはBay Waterの意味、公園に魚のランタンを持ったオブジェがあるが、これは魚の中国語の発音(=余、abundant)のためである。インドからの移民には お金の扱いに秀でた者も多くおり、銀行も十分に整備されていないなか、彼らは金貸し業で多くの海峡華人のスモールビジネスを支えた。

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福建寺院である天福宮は方言グループに関わらず華人を受け入れて来た。華人のなかでも福建系が最もメジャーなため、福建語がリンガフランカとして機能した。病院の名前にもなっているTan Tock Sengは野菜を売る商人として財をなし福建寺院にも多大な貢献をした。先のChia Ann Siangもまた多くの貢献をした。 天福宮の入り口の壁には蝙蝠があしらわれており、 これは蝠の発音が富と同音であることによる。天福宮には観音(=God of mercy)も 祀られている。時代は変わり、華人同士助け合う必要が以前より薄れたため会館(=Clan Association )は主に伝統文化の継承が主な活動となっている。

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Telok Ayer St. にある Al- Abrar Mosque、多いのはインドムスリムだが、 CBD(ビジネス街)のため多国籍企業の外国人も多く利用している。

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