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やっちゃば一代記 思い出(14)

大木健二の洋菜ものがたり
 にせものの横行にプッツン
バターレタス
 バターレタスを市場に登場させるまで三年かかりました。
並外れてデリケートな野菜で、収穫のタイミングと輸送が大変難しかったからです。昭和五十七年、八年だったでしょうか、米国、イタリア、フランスの三国からそれぞれ種を取り寄せ、静岡県浜松で露地栽培に着手しました。
この時は出来が良すぎるほどでした。ところが、いざ収穫という段階ですべて薹(とう)が立っていました。つぎからハウス栽培に切り替えてやっとそれらしきものを三百五十株収穫。そのうち二十株を選抜して交配させ、日本のマーケットに合う栽培種をつくりました。混血種とはいってもF1(一代交配種)ではありません。れっきとした原種です。収穫のタイミングと方法が分かってきたし、輸送上の問題も生産者が荷傷みの防止にビニール製の袴(包装資材)を考案してくれたことで解決。袴に食べ方をプリントしたことも功を奏し、人気が出てきました。ところが、ある事態をきっかけに、浜松の生産者がぷっつり栽培をやめてしまったのです。といのも、人気に目を付けた長野県が「バターレタスもどき」をどんどん出荷、ただのリーフレタスを「バターレタス」の名前で登場させたからです。バターレタスは商標登録されていたわけではありませんが、こうした人気に便乗したやり方は道義的に許されないと思いました。憤りを感じていたわたしは昭和六十三年十一月、農水省で行われた「新作物の導入・開発・普及に関する技術問題検討会」という会合で講演した際、新野菜の問題に汗水たらしてきた生産者の努力を無にする行為だと、声を大にして訴えたのです。三百人ほどの聴衆の中に長野県関係者もいたはずですが、反論は一切ありませんでした。ただ困ったことには、その後も浜松の生産者にバターレタスを栽培する気配がありませんでした。
よほど腹に据えかねていたのでしょう。原種は残っているはず、どうなっていることやら。

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