K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30…

K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30年以上関わり、日本に新野菜を広めた野菜博士の一代記を綴ります。

最近の記事

やっちゃば一代記 思い出(3)

大木健二の洋菜ものがたり  ビーツ 個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。 戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない サルシフィー、パースニップ、ルタバガ、トッピーナンポ、ビーツの五種類を特に選び、自前の情報誌を送って、得意先の二百五十軒に消費拡大を訴えていました。この五種類は進駐軍上陸よりずっと前の明治時代から栽培されている洋菜ですが、戦後は需要がなくなり、生産は先細り状態ですね。私の運動もなかなか実を結びませんでしたが、それでもビーツだ

    • やっちゃば一代記 思い出(2)

      大木健二の洋菜ものがたり  洋菜事始め 日本原産の野菜はウド、セリ、フキ、ミツバ、ワサビ、アサツキ、アシタバ ジュンサイ、ハマボウフウなどにとどまり、現存する野菜の大半は外国種です。外国産が渡来した時期は、1に奈良・平安時代以前。2に室町時代から江戸時代初期。3に幕末以降明治初年と3期とされていますね。 まず中国大陸からミョウガ、ショウガ、ナス、キュウリ、サトイモ、ネギ、ダイコンが渡来。南蛮船によって新大陸原産の野菜が搬入。さらにカボチャ サツマイモ、トウガラシ、パセリ、エン

      • やっちゃば一代記 思い出(1)

        大木健二の洋菜ものがたり  野菜生産の変革期 終戦直後の進駐軍上陸は、日本の野菜つくりにも一大変革をもたらしました納入先の座間基地で、たまたま女性将校の食事に出されたレタスからミミズが這い出し、机を叩いて怒った将校から「出入り禁止」の最後通牒をもらったことがあります。当時の日本は有機栽培が普通で、畑に虫はつきものでした。運悪く、獲り入れ前に降った雨を避けようとしたミミズがレタスの中に逃げ込んだらしいのです。必死になって虫のついていない”洗浄野菜”はないものかと、千葉県をはじめ

        • やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモに抱いた夢 マコモの国内栽培。大木がマコモに抱いた夢である。マコモが中華料理で頻繁に使われるようになると、役所も重い腰を上げた。農林省(現農水省)がマコモの栽培を推奨したのである。大木もこれに便乗、静岡県での試験栽培に加わった。マコモを植えたのは浜松付近の鰻の養殖地。温暖な気候、豊富な水と栽培条件はよさそうに見えた実際、マコモの生育は素晴らしかった。  大木は初の国産マコモの出荷を心待ちした。ところが、箱を開けて目を剥いた。『これは

        やっちゃば一代記 思い出(3)

          やっちゃば一代記 実録(48)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  台湾からマコモを 次のマコモの課題は青みの部分のない白みだけの上海産に代わるものをどうして手に入れるかである。そして、台湾産を手にしたとき、上海産とはすっぱり見切りをつけることができた。台湾産は青みと白みのバランスが見事で、値段も手ごろだった。早速、数十キロ分を輸入、納め先の評判も上々だった。大木の胸にわだかまっていたものの一つはすっーと消えていった。 だが、もう一つの方は依然としてつっかえていた。 【マコモ】は国内でも栽培されていた。場

          やっちゃば一代記 実録(48)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(47)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  問題また問題が・・ 「なんだい、大木さんとこは黴の生えた【マコモ】を売りつけるのかい! どうしてくれるんだ。!」 取引先の中華料理人が血相を変えて怒鳴りつけた。 【マコモ】の表面に黒黴のような斑点が浮き出ていたのだ。 何とも因果な野菜だと大木は臍をかんだ。思い出深い、愛着のある野菜なのに、それはことごとく大木を裏切るような気がしてきた。 斑点のない【マコモ】を探しまくった。そして、どうせなら国内で作った方が早いとまで思うのだった。  黒い

          やっちゃば一代記 実録(47)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(46)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモの輸入 オリンピックできれいに舗装された国道二四六号線、通称青山通りを渋谷に向かって、赤坂見附を過ぎたちょっと先が豊川稲荷である。大木は豊川稲荷の近くという上海に本店を置く中国商社のドアを叩いた。 十数年ぶりとはいえ、大木の北京語は錆びついてはいなかった。 話は早かった。上海から【マコモ】を買い付ける商談はすぐにまとまった。この【マコモ】が大木の初めて手掛けた輸入野菜となるが、当時一介の市場業者が野菜輸入に手を染めるのはリスクが大き

          やっちゃば一代記 実録(46)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(45)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  採用試験 領事館警察の採用試験は難関だった。受験者は旧制高校上がりのエリートばかりで、高等小学校止まりの大木はさすがにひるんだ。しかし、試験は作文中心で、『日本語で勝負するんだったら勝ち目はある!』と、市場の仕事に費やしてきた以上の時間を作文の練習に注ぎ込んだ。それでなんとか合格したが、こんどは学歴コンプレックスに悩まされた。学卒の同輩から表立って蔑視されることはなかったものの、大木は時折背中に冷たい視線を感じていた。 上海への赴任前の国

          やっちゃば一代記 実録(45)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(44)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモ 大木が輸入野菜に手を染めたのはオリンピックの頃だ。 最初に思いついたのが中国料理に使う【マコモ】である。 戦時中、赴任していた上海周辺の沼地に密生していて、食卓にもよく上った野菜である。現地ではあまりにあふれていて、中国人の給仕が「市場で買ってきました。」と言っては、しょっちゅう食べさせられたが、それが実は沼から引き抜いてきた【マコモ】で「買ってきました。」と言っては代金をくすねていたのである。大木は知らぬふりで食べ続けた。が、多

          やっちゃば一代記 実録(44)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(43)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記 オリンピックを境に日本は経済大国へとまっしぐらに突っ走ることになるが、大木もそうした時代の風を背景に、オリンピック選手村への野菜納入に 強い意欲を見せた。選手村の住人は九十三の国と地域五千五百人余り。料理の賄いは帝国ホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニなど有力ホテルで、大木の店は小野正吉氏の肝いりで野菜指定納入業者に推薦された。 なにより見知らぬ野菜に目を凝らした。このとき大木はトレビッツ、エシャレット、ズッキーニなど後年、手掛ける

          やっちゃば一代記 実録(43)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(42)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  小野総料理長 当時、小野氏が入れ込んでいた野菜のひとつが【ビーツ】だった。 婚礼の宴会に出すサラダにビーツを添えて縁起の良い紅色を演出していたのだ。サラダ用のビーツの処理は一度茹でて甘塩に漬けておくのだが、サラダにするタイミングを間違うとビーツの紅色がほかの野菜に移ってしまうのだ大木はそのサラダの彩りに魅せられ、愛用のカメラを持って厨房に侵入したことがある。それを見つけた小野氏は注意こそしたが、目は細めていた。  オークラの小野総料理長は

          やっちゃば一代記 実録(42)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(41)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  虎ノ門にホテルオークラの開業 昭和三十七年、五月二十日、虎ノ門にホテルオークラが開業した。小野料理長の食材仕込みの眼は厳しかった。ある日、小野氏は精肉業者が持ってきたひれ肉をしばらく見てから、突然、一抱えもある肉のかたまりを担ぎ上げ、床に放り投げた! 「こんな肉は二度と持ってくるな!」 厨房全体が凍り付くほどの凄みがあった。業者はオロオロしながら散らばった肉をかき集めていた。  大木も小野氏には何度も叱咤された。 「トマトの色が回っていな

          やっちゃば一代記 実録(41)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(40)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  小野正吉(おのまさきち)氏 大木は日比谷のレストラン アラスカで腕を揮い、米国に武者修行に行っていた【小野正吉】氏が帰国、新築されるホテルオークラの総料理長に就任するという話を聞きつけた。  オリンピック開催を控えた東京は新幹線敷設、首都高速道路、地下鉄の延長など地上も地下も突貫工事の槌音が響き渡っていた朝鮮動乱はいわば神がかりの景気浮揚だったが、このオリンピックは戦後処理の集大成であり、また世界に向けた日本の国威発揚の絶好の機会でもあっ

          やっちゃば一代記 実録(40)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(39)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  大手スーパー  昭和三十年代に入ると、ダイエー、イトーヨーカドーなど大手スーパーが次々と創業し、小売業界はスーパー全盛時代へと突き進んでいくが、こと食料品については紀ノ国屋、麻布のナショナルスーパー、明治屋の三店が品質 品揃えの面で他業者と一線を画していた。当時は『この三店になければ日本のどこにもない!』とまで言われた。大木はこの三つの米国型スーパーとの取引にこだわった。こだわることで新たな野菜と出会うことができ、また野菜への想い入れを深

          やっちゃば一代記 実録(39)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(38)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  スーパーマーケット サンフランシスコ講和条約以降、小売業界ではスーパーマーケットが登場。大量販売、セルフ方式へと大きく転換しつつあった。日本で初のスーパーマーケットは昭和二十八年港区青山に出店した米軍御用達の【紀ノ国屋】である。大木はそこに新時代の匂いを嗅ぎ取ると、米軍の伝手を頼って、いち早く紀ノ国屋に検分に行ったものだ。紀ノ国屋の斬新なディスプレーや豊富な商品群は圧倒的だった。クレソンなどは寝かせて売るのが普通なのに、ここでは直立の状態

          やっちゃば一代記 実録(38)大木健二伝

          やっちゃば一代記 実録(37)大木健二伝

          やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  敗戦後の日本 敗戦と戦勝国の占領で日本の社会と生活はガラリと変わった。主権在民となった国民は天皇中心の国家主義をあっさり捨て、欧米の合理主義を掲げて経済主導の個人主義へと傾斜していった。が、そんな風潮に馴染めない者も少なからずいた。戦前、洋食レストランを手広く経営していた【宝亭】は、時代の波に流されまいと、戦後も戦前の様式のままで営業を堅持しようとした、だが、進駐軍に店舗を接収されるや無惨にも米兵に店内の座敷を土足で蹂躙されて以来、店主は

          やっちゃば一代記 実録(37)大木健二伝