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恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 天使編』6

天使編6 14章 ミカエル

ジャン=クロードの組織に取り込まれてから、あっという間に日々が過ぎた。

最初のうちは、用を言いつかって外出する度(必ずアンドロイドの護衛兵に囲まれているので、脱走はできない)、麗香さんの部下に捕獲されないかとひやひやしたが、やがて、そんな心配をすっかり忘れてしまったくらい、忙しい。

《ラピス》など、聞いたことのない小規模組織だったが(宝石のラピスラズリから取ったらしい)、急速に拡大しているのは確かだ。

新規採用者の面接、小惑星工場や拠点ビルの買収、他組織との業務提携など、ジャン=クロードは精力的に飛び回っている。

彼自身に急ぐ素振りはないのに、いつの間にか、業務が進行しているのが不思議なところだ。もしかして、いや、もしかしなくても、ものすごく優秀な男?

「ミカエル、外出の供をしろ」

「ミカエル、会議用の資料を整理しておけ」

「ミカエル、ユンに付いて買収予定の土地を見てこい」

「ミカエル、アフマドから銃器の扱いを習っておけ」

ジャン=クロードの命令を受けて走り回っているうちに、違法都市の季節は春の盛りを過ぎ、まばゆい初夏に向かう。

セイラがぼくに、夏用の涼しいスーツを用意してくれた。毎日の食事も、個室の掃除や寝具の入れ替えなども、全てセイラが采配してくれる。彼女に任せておけば、生活面では何の心配もない。

金髪に染めた髪の根元からは、すぐに元の茶色が見えてしまうので、ぼくはいつしか染め直しをやめてしまった。周囲の誰も、ぼくの髪の色など気にしないようだし。

ぼくは首席秘書のユンの助手として、組織内の業務連絡や、各部署からの報告の取りまとめ、幹部会議の準備などを任されていた。会議用の資料を揃えたり、他組織の情報を集めたりもする。

組織の引っ越しも経験した。最初に暮らしていた雑居ビルの数階分では手狭になったので、《ラピス》は別のビルを丸ごと買い取り、改装した上で、そちらに移ったのだ。

辺境の中心都市である《アヴァロン》市街のことであるから、中古ビルとはいえ、かなりの値段なのだが、ジャン=クロードには、何かいい資金源があるらしい。積極的に、他組織の事業を買い取ったり、輸送船団や、それを守る護衛艦隊を強化したりしている。

「ユン、新人を十人ばかり採用するぞ。広く募集をかけておけ。それから、工場の監督と艦隊指揮官に向いている者を、何名かずつ選抜する。候補者リストを作れ」

「アフマド、艦隊の戦闘訓練を監督しろ。新入りどもの能力を見るから、敵味方に分けて模擬戦闘をさせろ」

「ミカエル、《アストラ》の内情について調べておくんだ。あそこの小惑星工場を手に入れたい。できれば、人材も一緒に引っぱりたい。幹部連中の反目が利用できないか、当たりをつけておけ」

「セイラ、来週末にホテルで接待パーティをやる。これが招待客のリストだ。ユンと相談して、ホテル側と打ち合わせをしておけ」

安手のホストのようなジャン=クロードの外見は、ただの韜晦だということがわかってきた。飄々と振る舞っていて、実は相当な切れ者だ。

空威張りはしない。

無駄な命令は出さない。

視野が広く、事態を先まで読んでいる。

ぼくやセイラのようなバイオロイドにも、大きな仕事をぽんぽん投げてくる。もちろん、彼自身がきちんと経過を追い、最終チェックをしているが。

(仕事をさせて部下を育てる、という方針なんだな)

ユンやアフマドの指導がいいので、初めての仕事でも何とかなる。新規に集められた人間の部下たちも、それぞれに有能である。ぼくが彼らに何か指示することになっても、

(バイオロイドのくせに、生意気な)

という態度は見せない。それどころか、中核スタッフの一人と見てくれ、礼儀正しく接してくれる。

辺境では、希有なことだ。人間とバイオロイドが、肩を並べて働けるなんて。

そもそも、この《ラピス》には、たまたま拾われたぼくとセイラ以外、バイオロイドがいない。

普通、男の構成員は、それぞれ好みのバイオロイド美女を『息抜き用』に抱えているものだが、ジャン=クロードからは厳命が出ていた。

『生涯にわたって、その女に責任が持てない限り、バイオロイドの所有は禁じる』

というのだ。普通、バイオロイドは長くても五年で処分し、新しいバイオロイドを買い入れる仕組みだから、これは例外的に厳しい規則だった。

人間の男女でも、長く連れ添うのは難しいのに、奴隷であるバイオロイドの生涯に責任を持つなんて、辺境の男にできるはずがない。

それで、みんなバイオロイドの個人所有はあきらめ、必要な時に外部の娼館を利用する、という形になっている。あるいは、他組織にいる人間の女性を口説いて、デートに持ち込むか。

組織内にはユンとセイラの他にも、何人か女性が増えたが、男たちが彼女たちを口説くことは『奨励されていない』。

たとえ自分にその気があっても、彼女たちから口説かれるのを待て。口説かれなければあきらめろ、というのがジャン=クロードの基本方針。

ジャン=クロード自身も、愛玩用の女は抱えていない。彼が外で女を買って息抜きしているのかどうか、そこまでは知らないが……

もちろん、娼館の存在自体、市民社会から見れば許せないことだ。しかし、辺境では、当たり前の娯楽として存在している。その利用まで部下たちに禁じることは、さすがにジャン=クロードも、無理だと思うのだろう。

彼の身の回りの世話は、セイラがいそいそ行っているだけだ。もちろんセイラは、彼に何の手出しもされていない。

それは、傍から見ていてわかる。セイラは安心しきっていて、身の心配をしていない。ジャン=クロードに対して、純粋な思慕を保っている。それはもう、リリーさんを想うぼくに遜色ないくらい。

「ジャン=クロードさま、明日の夕食は何がよろしいですか?」

「そうだな、最近、餃子を食べてないかな」

「この前は、水餃子でしたね。今度は、焼き餃子にしましょうか?」

「ああ、それがいいな」

「わかりました。では、特製のタレを用意しておきます。お腹を空かせて帰ってきて下さいね!!」

そんな遣り取りは、傍で見ているだけでも微笑ましい。セイラのためだけでも、ジャン=クロードに長生きしてほしい、と思ってしまう。

《ラピス》に加わった女性の技術者や警備要員も、バイオロイドの小姓を持つことはなく、気晴らしには、それぞれ適当な人間の男を利用しているようだ。辺境において、数少ない人間の女性の場合、男はよりどりみどりであるから、問題は生じない。振った男が、ストーカーに転じない限り。

(もしかしたら、ぼくは……とてつもなく優良な組織に拾われた?)

違法組織が優良だと言うのは変だが、ここなら、市民社会のまっとうな企業に近いと言えるかもしれない。ぼくもセイラも、人間並みの報酬を貰っているし、週に一度は休みもあるのだ!!

ぼくは自分が所属していた組織しか知らないから、あれが普通なのだと思っていた。だが、この《ラピス》の規律正しさ、志の高さと比較すれば、《ルーガル》は、まさしく三流だったのだとわかる。ぼくらが脱出できたのも、組織が隙だらけだったからこそ。

すると、もっと大規模な老舗の組織ならば、もっと厳しいのか?

だからこそ、長く繁栄を続けていられるのか?

それとも、規模が大きいから、自堕落でも生き延びていられるだけか?

(ああ、リリーさんの意見が聞きたい)

焼けつくように、そう思った。

(リリーさんから何も学ばないうち、こんな遠くに来てしまった。麗香さんは、ぼくが死んだと説明しているはずだ)

中央のニュースでは〝リリス〟の活躍がわかるが、こちらから連絡を取ることはできない。

(お願いですから、どうかご無事で。いつか会える時まで、ぼくを忘れないで)

と祈るだけ。もしや、他の男がリリーさんに惚れ込んでまとわりついていないか、リリーさんがその男にほだされていないか、うっかり想像してしまうと、一人で転がって唸ってしまう。

その一方、ぼくに投げられる仕事は増え、内容も高度になっていく。他組織の販路に割り込む計画、新人の採用面接、その後の配属決定。そんなことまでぼくにやらせていいのか、という業務命令が、ぼんぼん飛んでくる。

毎日、あまりに忙しくて、脱出の隙を探すどころか、リリーさんのことを思って、めそめそする暇もあまりない。

朝は目覚ましで飛び起き、セイラの用意してくれた食事を、ユンやアフマドと一緒に摂る。昼間は調べ物や打ち合わせに飛び回り、時には、ジャン=クロードの外出のお供をする。

彼は外では、ぼくを次席秘書だと紹介した。おかげで出会う人々は、ぼくのことを、

『子供の肉体に脳移植した、人間の中年男』

と思うらしい。辺境では、肉体の乗り換えは珍しくないからだ。趣味で男から女へ、女から男へ乗り換える者もいる。中年男が子供の姿を選ぶくらい、驚くことではないのだろう。

そうして、ある朝、朝食のテーブルに熟れた西瓜と、艶やかな葡萄を見た時、ぼくは愕然とした。

(もう、半年過ぎてしまった!!)

こうしている間にも、ぼくの脳内では、悪性腫瘍が広がりつつあるはず。でも、それに伴う不調は何もない。

そもそも、ジャン=クロードに拾われた時に、全身の精密検査をされたが、特に異常はないという判定だった。

もしかして、麗香さんに与えられていた薬の効果だろうか。それならば、もうしばらくは心配ないのか。

それに、もし不調を感じたら、ジャン=クロードに言えば、適切な治療を受けさせてくれるという気がした。それくらいの手間や費用を惜しむボスではない、と今ではわかる。違法組織なのだから、市民社会の法律に縛られる必要もないのだし。

(逃げるより、ずっとここにいた方が、いいのかもしれない……)

ぼくの給料は今や、ユンやアフマドに次ぐ水準になっているのだ。こんな公正な違法組織、きっと他にはない。下手に逃げて、リリーさんに連絡をつける前に、麗香さんに発見されたら、その方がよほど恐ろしい。

だけど、リリーさんの役に立つのでなかったら、ぼくがこの世に生きている意味は!?

「ミカエルさま、アイスコーヒーのお代わりはいかがですか?」

カールした黒髪をポニーテールにしたセイラは、夏用のエプロンドレスでにこにこして言う。

「あ、ありがとう。いや、もういいよ」

新入りのぼくが、彼女の階級を追い越してしまった時から、セイラはぼくを『さま』付きで呼ぶようになった。

『呼び捨てでいいよ』

と何度も言ったのに、

『規律というものがありますから』

と、そこだけは頑固に言い張る。

『じゃあ、兄さまというのは?』

『それはだめ。だって、年齢的には、ほとんど変わらないんですもの』

こちらは、いささか居心地が悪いのだが、セイラは階級の開きを何とも思わない様子で、楽しげに自分の仕事をこなしていた。

季節に相応しい食事の支度、日用品の補充、掃除や洗濯の采配。アンドロイド侍女が何体も、セイラの指図で無駄なく動いている。基地内部はぴかぴかで、あちこちに花まで飾られている。その中で暮らす人員も、勤務時間外には気を許した私語を交わす。

「アフマド、ビアガーデンに付き合ってよね」

涼しげな浅葱色のスーツ姿のユンが、同じテーブルの警備隊長に言う。

「ああ、いつでも」

私的な外出には、屈強な大男のアフマドを連れていけば安心なのだ。彼は必要以外、あまりしゃべらない男であるが、その分、ユンが快活にしゃべっている。

「セイラ、週末は買い物に行きましょうね。服を買ってあげる。去年の服は、もう小さいでしょう?」

「はい、ありがとうございます、ユン姉さま。でも、貯金がありますから、自分で買えます」

「それは、他のことに使いなさい。わたしが買いたいんだから、買わせてよね」

「あ、それでは……お言葉に甘えます」

「そうそう。子供は素直が一番。ミカエルみたいに、ひねこびてるのはよくないわ」

「ひねこび……? 何です? ぼく、ひねくれているつもりはありませんが?」

「ほうらね。そこが、ひねこびてるっていうの」

「わかりません!!」

「いいわよ、何でも。とにかく、ボスはあなたがお気に入りなんだから」

……そうなのだろうか?

ユンも忙しく働いているが、ベテラン秘書なので、時間を調整して遊びに出る余裕はあるようだ。しかも、セイラを連れて。

普通、人間はバイオロイドと友達付き合いしたりしないものだが、ユンはセイラを妹のように可愛がっていた。服の選び方を指南したり、読むべき本や、見るべき映画を教えたり。

そもそも、バイオロイドが『貯金している』とか、『私服を持っている』というのが、普通ではない。

ぼくにも他組織の内情が見えてきたので、ここは例外的な組織なのだということが、納得できるようになった。

やはり普通は、バイオロイドを奴隷として扱っている。彼らが経験を積んで知恵をつけないよう、五年で始末している。ジャン=クロードの方針が、異例中の異例なのだ。

(もしかしたら……)

麗香さんが、この《ラピス》に目を付けている、ということはないだろうか。そのうちジャン=クロードを、自分の部下として、組織ごと手に入れるつもりなのかも……彼に注目したのが先で、彼を試すつもりで、ぼくを拾わせたとか……?

いや、考え過ぎだ。ぼくはあの時、犬に食い殺されて、不思議はなかった。あるいは、力尽きて、湖で溺れていたかもしれないのだから。

そのジャン=クロードは、朝食後、愛用のサングラスをかけ、袖まくりした淡いベージュのスーツ姿でやって来て、ぼくだけを連れ出した。アフマドとユンは、別の仕事に回るという。普通なら、ぼくの他に、彼らのどちらかが付くのだが。

ジャン=クロードの移動オフィスである武装トレーラーの中で、初めて説明された。

「これから、戦闘艦隊で出航する。一つ、始末をつけなければならない組織があるんでな」

「はあ、そうですか」

そういう敵対組織があるとは、初耳だったが、ぼくは特に驚かなかった。ぼくに見えているのは、組織全体の業務の一部にすぎない。艦隊戦と言われても、ぼくはただ、ジャン=クロードに付いていくだけのこと。

「では、艦隊指揮は、あなたがなさるんですね」

「いいや。主要艦にだけ人間の艦長を置いてあるが、それは細かい部分の指揮をさせるためだ。全体の指揮官は、おまえがやれ」

しばらく、言われた言葉が飲み込めない。

ぼくに、何をやれって!? 戦闘艦隊の……指揮!?

絶対、何か聞き間違えたに違いない。だが、ジャン=クロードは、当然のように言う。

「ミカエル、おまえに一艦隊預けると言ったんだ。攻略戦を任せる」

「え、だって……」

そんなことは、リリーさんのような、戦いのプロがすることではないか。ぼくは銃の区別も、ミサイルの種類もよく知らないのだ。戦闘シミュレーションだけは……そういえば、麗香さんにやらされたが、それも、ほんのお試し程度。

「敵の主基地を陥落させて、組織全体を制圧するんだ。俺は横で見ている。おまえが失敗したら後を引き継ぐが、その時は、俺もたぶんあの世行きだろう。頼むから、うまくやってくれよ」

どうやら、冗談ではないらしい。

だが、それは、これまで命じられてきた事務仕事や調査仕事とは、まるっきり異質のものだ。ジャン=クロードは、頭がどうかしたのではないか。

「無茶を言わないで下さい」

彼を刺激しないよう、なるべく静かに反論した。

「それは、あなたかアフマド隊長のすることです。でなければ、タオでもギャラディでもテムジンでもいいですから、軍隊経験者の誰かに命じて下さい。ぼくは射撃練習すら、数えるほどしか、したことないんですよ?」

それでも、ジャン=クロードは態度を変えない。

「アフマドには、俺の留守を任せてある。他の幹部たちには、何も知らせていない。視察旅行と言ってあるだけだ。この仕事は基本的に、俺とおまえだけで片付けなきゃならん」

「秘密の作戦? なぜ、秘密なんですか」

「相手は《ルーガル》だからだ。《ラピス》のための仕事じゃない。おまえ個人の戦いだ」

衝撃だった。その名前は、もうほとんど忘れていたのに。

ウリエルとガブリエル。そしてラファエル。

リリーさんに会うより昔の、かすんだ記憶。

「勝てばもう、おまえは二度と刺客に追われることはない。そう聞いたら、やる気が出てきただろう」

ぼくはしばらく固まったまま、テーブルの向こう側の伊達男を眺めてしまう。

ということは……ということは……

「もしかして、ぼくが誰だか、あなたには、最初からわかっていたんですか……?」

すると、呆れたように笑われた。

「おいおい、俺が偶然におまえを拾ったと、まだ思っていたのか? たまたま偶然、ミカエルという名前を選んだとでも?」

世界がぐるりと回転した。それでは……何もかもが違ってくる。

(麗香さんが……?)

ようやく納得できた。《ラピス》の活動資金の出所も。急激な拡大ぶりも。ジャン=クロードは最初から、あの人の部下だったのだ。

そのはずだ。麗香さんがぼくを殺すつもりなら、他人任せにしたりせず、迅速に間違いなく殺したはず。ぼくを追い立て、うまくジャン=クロードに拾わせるために、あんな小細工を。

(獅子は、我が子を、千尋の谷に突き落とす……)

顔から火が出る。ぼくは、何という馬鹿だ。リリーさんが信頼して、ぼくを預けた人が、ぼくを中途半端に放り出すはず、ないではないか。

ぼくに、自力で戦う覚悟を決めさせるためだ。

そんなこともわからず、うじうじ恨みを抱いていたなんて……!!

「俺は、ある人物から命じられたんだよ。おまえを現場で鍛えろとな」

あの仕事もこの仕事も、全て、ぼくに実務を学ばせるため。

いや、それにしても、ぼくの目の前で犬に噛み殺された少年は……実は殺されたのではなく、ちゃんと治療してもらい、助けてもらったのか? それとも、道具として使い捨てられた?

リリーさんなら、バイオロイドを使い捨てにしたりしない。戦闘の中でやむなく殺すことはあっても、助けられる時には助ける。

だが、麗香さんは?

ぼくにはまだ、あの人の本質がわからない。

いや、わかっている……本当はわかっている。何の禁忌も持たない人だと。

だからこそ、一度は判断した。彼女はぼくを捨てたのだと。

でも、ぼくはまだ期待されているのか。これが、最終試練ということなのか。

「その報酬として、組織を強化するための資金を与えられた。こちらにとっては、有利な取引だ。文句はない。数日前にまた、最高幹部会に呼び出されて、命じられた。そろそろ、最終試練にしろってな」

え。

ちょっと待ってほしい。いま、最高幹部会と言ったのか? それは、〝連合〟を束ねる最高幹部会のこと?

「それから、これを預かってる」

ジャン=クロードはスーツの内ポケットから何か出すと、テーブルに放った。百合の香りがする、淡いピンクの薔薇模様の封筒。

ぼくは恐々それを取り上げ、中身の便箋を広げた。間違いない。リリーさんの直筆だ。リリーさんの性格そのまま、飾り気のない大胆な文字。

――ミカエル、この手紙を姉さまに託します。他組織での修行は大変だろうけど、頑張ってね。姉さまは、あなたに期待しているの。あなたなら、あたしに相応しい男になれるって。

あたしは毎日指輪を見て、あなたのことを想っているわ。あなたもどうか、あたしを忘れないで……

色々な女性に会うだろうから、ちょっとなら浮気してもいいけど、本気になっちゃだめよ。元気であたしの元に戻ってきてくれないと、泣くからね。愛を込めて、リリーより……

そして、オレンジがかったピンクの口紅のキスマーク。

(ああ、リリーさん。リリーさん)

ぼくは手紙を大事に抱え、そっと胸に押し当てた。麗香さんの思惑がどうであろうと、リリーさんの愛情だけは信じられる。

待っていて下さい。何があっても、貴女の元に戻ります。最終試練にも、合格してみせます。

(だけど……)

なぜ、最高幹部会がここに出てくる? それは、〝リリス〟を抹殺しようとしている敵の総本山ではないか。何かまだ、ぼくが理解していない事情がある!?

だとしたら、用心して言葉を選ばないと。

麗香さんは、外部には自分の存在を隠していると言っていた。都市の代表として対外的に知られているのは、一族の第二世代であるマダム・ヴェーラと、彼女が率いる現役世代だけだと。

「ジャン=クロード、教えて下さい。あなたを呼び出した人物は……最高幹部会の誰なんですか?」

ジャン=クロードはサングラスをかけたままなので、目の表情が読めない。だが、何かを探っている気がした。彼もまた、ぼくの背景を知りたがっている?

「デュークだよ。《黄龍》の大幹部だ」

え。

「最初、いきなり呼び出しが来た時には、こっちもびっくりした。その時点ではまだ〝連合〟に加盟もしていない、弱小組織だったからな。異端すぎて、潰されるのかと思った。よっぽど、夜逃げしようかと思ったくらいだ」

と自嘲の態度で言う。

そうか。ジャン=クロードでさえも、怖い思いをしたのか。

「おまえのことを託された時点で、〝連合〟に加盟した。バイオロイドを殺さない方針も、特例として認められた。他言無用ということでな。しかし、デュークがおまえとどういう知り合いなのかは、まだ教えてもらっていない」

よりによって、そんな大物の名を騙るとは、麗香さんも大胆な。十二名の最高幹部の中でも、重鎮と言われる男ではないか。

だが、詐欺は大掛かりな方が、バレないとも言う。最高幹部会のお膝元で、超大物の名前を使ったからこそ、ジャン=クロードを騙せたのかもしれない。

「俺は、その手紙の中身を見ていない。だから、おまえがなぜデュークに守られているのか、わからない」

それはそうだ。デュークの名を騙った、詐欺なのだから。

ジャン=クロードが麗香さんの期待に応えられたら、その時にようやく、正体を明かすのかもしれない。あるいは何も教えず、偽名で彼をこき使うだけかもしれない。

「もちろん、俺なりに調べはした。おまえは中央の植民惑星で、暗殺事件に巻き込まれて死んだことになっている、逃亡バイオロイドだろ。〝リリス〟がおまえを引き取って、辺境に連れてきたんだな?」

さすが、ちゃんと突き止めている。

「それがどうして、俺に預けられることになったのか。ミカエル、そろそろ、腹を割って話さないか? おまえもいい加減、俺を信用していい頃だろう?」

ぼくは戸惑った。かなり困った。ジャン=クロードを、どこまで信用していいだろう?

個人的には、彼を好きだ。聡明で、筋が通っている。もはや、尊敬していると言ってもいい。

ユンもアフマドも、気持ちのいい人たちだ。セイラもいい子だ。

しかし、なおかつ〝連合〟に所属する違法組織。

どう話したら、麗香さんにもリリーさんにも、災いを及ぼさずに済むのか。

「ぼくにもまだ……よくわからないことがあります。だから、何を話していいのか……よくないのか……決められません。もう少し、時間を下さい。とりあえず、《ルーガル》の攻略に集中しませんか? それが無事に済まないと、先はないのですから」

ジャン=クロードはしばし考えてから、上着の内ポケットに手を入れた。こちらに差し出したものは、薄い小箱だ。

「戦闘で吹き飛ぶかもしれないからな。これは返しておこう。ずっと、俺が預かっていた」

中にあったのは、金の台に大粒のサファイアがはまった指輪である。間違いない、ぼくの婚約指輪だ!!

ひしと握りしめ、唇に押し当てて、それから左手の薬指に戻した。ああ、なんて懐かしい。再び、これを指にはめられるなんて。

これがある限り、リリーさんとのつながりが切れていない、いずれはリリーさんの元へ戻れる、という希望が湧いてくる。

ふと見ると、ジャン=クロードが、ぼくをまじまじ見つめていた。不思議なものでも見るかのように。

***

それでも正直なところ、最終試練が戦闘指揮とは、

(いくら何でも、無茶だろう)

と感じていた。ぼくは戦闘のことなど、何も知らない。精々、古典の軍記物や、古今の軍人の回想録を読んだことがある程度。

ジャン=クロードが作戦を立ててくれたのだから、勝算はあるのだろうと思ったが、

(絶対、作戦通りになんかいかない)

とも思っていた。きっと何か、予期せぬ出来事があり、予想外の打撃を被るに違いないと。

だが、実際に行った戦闘は圧勝だった。呆れるほど、計算通りだった。

なぜかといえば、艦隊の能力が桁違いだったからだ。三流組織である《ルーガル》には、三流の艦隊しかなかったのである。

艦隊の統合管理システムも、個々の艦艇そのものの戦闘能力も、こちらの方がはるかに上だった。麗香さんは何もかも心得ていて、こちらが勝てるだけの支度をしてくれたのだ。

さすがは、リリーさんの師匠。

まずは、遠隔地で《ルーガル》の輸送艦隊を襲い、細工を施して、トロイの木馬に仕立てた。こちらの機械兵部隊を内部に詰めて、《ルーガル》の下級基地の一つに送り込んだのだ。

 そこを占拠してから、上級基地に通信して、破壊プログラムを送り込んだ。それで基地の防衛システムが混乱しているうちに、こちらの主力艦隊で奇襲をかけた。

小型船を送り込んでの特攻、爆破。

機械兵部隊による侵入、占拠。

最初の奇襲から戦闘完了まで、三日しかかからなかった。《ルーガル》の主基地と下級基地、防衛艦隊の残りは全て接収できた。抵抗する者を射殺する必要すら、なかった。戦闘の帰趨が見えた段階で、ほとんどの者は降伏したからだ。

上級幹部たちすら、新たな支配者(ぼくはもちろん姿を見せず、アンドロイド兵士を代理として、主基地に入らせただけだ)に忠誠を誓った。その証拠に、組織のボス、ガイウスの首を差し出してきた。ぼくがいた頃は、姿も拝めなかった雲の上の存在だったのに。

もちろん、だからといって、降伏した者たちの忠誠など信じはしない。最初から、自分の利益しか頭にない者たちなのだ。幹部たちの監視は、厳しく行うつもりである。

下級職員やバイオロイドたちは、誰が主人だろうと生活に変化はないのだから、問題は起こさないだろう。

大変なのは、組織の立て直しだった。つまり、千人近い人間とバイオロイドの運命を、ぼくが決めなくてはならないわけだ。

そもそも、麗香さんが望んでいることは、何なのだろう。

いや、これが試験なら、正解を出すというよりも、何が正解かをぼくが決めてみせる……そういうことが大事なのでは?

人間もバイオロイドも全員殺し、基地を廃墟にして引き上げるのか。あるいは、幹部級の者だけ洗脳して、残りの人員は《ラピス》に組み入れるのか。

だが、これまで三流組織で、だらだら暮らしてきた連中が、規律の厳しい《ラピス》に適応できるとは思えない。ことに男たちは、専用の侍女の所有を禁じられたら、不平たらたらになるだろう。

何よりジャン=クロードが、引き取りを拒絶した。

「俺の組織には、俺が選んだ者しか入れない。腐ったオレンジを箱に入れると、他のオレンジまで腐るからな」

ごもっとも。

それでは、リリーさんが使うためのダミー組織として、構築し直しておこうと思った。リリーさんが私有艦隊の補給基地として利用したり、情報収集や工作の拠点として使えるように、下準備しておくのだ。

ただ、ぼくがダミー組織を作っても、その管理を、ヴァイオレットさんが引き受けてくれるとは限らない。自分自身で長く管理できるかどうかも、まだわからない。

麗香さんがぼくに失格を宣告し、リリーさんに知られないよう、処分する可能性だってある。この《ラピス》をどうしたら、麗香さんは合格点をくれるのか?

(どうするのがいいんだろう……)

ぼくは考えあぐねたまま、警備モニターを通して基地内の様子を見ていき、居住区に閉じ込められた、三百人以上のバイオロイドたちの会話を聞いてみた。

「ぼくたち、やっぱり殺されるのかな」

「同じことよ。どうせ、あと半年で五年なんだもの」

「ぼくは、あと二年ある」

「けど、上の人間が交替しても、わたしたちには関係ないでしょう? 最後の日まで、これまで通りに働かされるだけのことよ」

「とにかく、仕事に戻りたいよ。早く何か、命令してくれればいいのに」

「わたし、今のうちに、見たかった映画を見ておくわ!!」

事務員や警備員、下級技術者として培養された汎用のバイオロイドたちは、最初から先に希望を持っていないから、新たに絶望することもない。基地の混乱が終熄して、通常の職務に戻れれば、それでいいと思っている。五年の枠を越えて、何かを考えることができないのだ。

だが、ぼくと同じ知能強化型のバイオロイドも、八名いた。ぼくのいた頃より数は大幅に少ないが、それは、反逆の可能性と、便利さを秤にかけた妥協の結果なのだろう。

彼らは一室に寄り集まって、もう少し高度な会話をしている。

「乗っ取りの手際がいい。技術レベルが違う。ずいぶん上の組織に吸収されるようだね」

「それなら、待遇改善を訴えられるかもしれない」

「ぼくらが疲れきっているよりも、元気でいる方が能率がいいと、わかってもらえればね」

「人間が、そんな合理的判断をするものですか」

「彼らには、ぼくたちの半分以下の知能しかないからね」

「でも、抜け目はないわ。悪知恵だけは働く連中よ」

「どう考えても、反抗は不可能なシステムだからね」

「この会話も、全て聞かれているはずだ」

「何でも聞けばいいさ。どうせ、ぼくたちの気持ちなど、どうでもいいと思っている連中だ」

彼らの中にふつふつと、人間に対する怒りと軽蔑がたぎっているのがわかる。同時に、捨て鉢なあきらめの気分もわかる。

これまでは、ぼくのいた頃よりも厳しく監視され、行動を制限されてきたようだが(もちろん、ぼくたちが脱走した事件のためだ!)、本来は、普通人より遥かに優秀なのだ。

しばらく経つうち、ぼくの中に、ある考えが浮かんできた。最初は霧のようにもやもやもしていたが、やがて、夏空の入道雲のように、きっかりした輪郭になってくる。

――彼らの自治、という形にできないだろうか。

たとえば、ダミーの人形をぼくの代理人に仕立て、遠隔で大まかな指令を与える、というのはどうだろう。

組織運営の細部は、知能強化バイオロイドたちの合議に任せればいい。実務能力はあるはずだ。彼らが、組織を乗っ取った者の正体を……ぼくの存在を知る必要はない。

あれこれ考え、計算した。

たぶん、できる。ジャン=クロードが、後見役を引き受けてくれさえしたら。

即座に却下されるのではと思いつつ、恐る恐る、相談してみた。すると、彼はぼくの計画の弱点をあれこれつついてみせたが、それは、ぼくに考えを深めさせるためだったらしい。最後には、頷いてくれた。

「系列の下部組織という形でなら、面倒を見よう。ただし、迷惑になるようなら、切り捨てる」

ほっとした。

「はい、それで結構です」

指揮艦内には、人間そっくりの有機体アンドロイドが、何体か用意されていた。心を持たない人形だが、捕まえて検査しない限り、本物の人間かどうかはわからない。

ぼくは、その人形の一体にラファエルという名前を与え、ぼくの身代わりとして使うことにした。

ラファエルは三十歳前後に見える、ハンサムな男性の姿をしている。上質なスーツを着せ、目元を隠すサングラスをかけさせ、ゆったり身動きさせれば、何とか『違法組織の幹部』に見えなくもない。

ただ、そのためには、しばらく練習が必要だった。ぼくの意識でその人形を動かすために、特殊なカプセルに入り、神経接続をしなければならない。

最初は、そのカプセルに入るのも怖かった。どうしても、棺桶を連想してしまうからだ。閉じ込められて、それきりになってしまうのではないか、という空想を止められなかった。

だが、これは、誰かに強制されて行うことではない。ジャン=クロードに相談はしたが、あくまでも、自分の考えで決めたこと。

麗香さんに課された試験に、合格するためだ。

***

専用ヘルメットを通した接続は痛くなかったし、最初に少し眩暈を感じたほかは、不都合もなかった。

暗いトンネルの中に入るようなもので、前方が明るくなったと思ったら、もう、人形の眼から世界を見ているのだった。

ぼく自身は、カプセルで横になったまま。頭の中で、動作や発声をイメージするのだ。

右手を上げようと思えば、人形の右手が上がる。人形の手が何かに触れれば、触れた感じがわかる。しゃべろうとすれば、人形がしゃべる。

最初はジャン=クロードが監督してくれて、短い時間から慣らしていった。二十分過ごしていったん休憩、怖さが薄れたら、次は一時間というように。

実際の自分と体格の違う人形を操ることには、いくらか戸惑った。手足の長さが違うと、テーブルの上のカップを取るのでも、椅子に座るのでも、段差を上がるのでも、握手の手を差し出すのでも、いくらかのズレが生じる。

ズレることに、自分がショックを受ける。まごつく。苛立つ。

だが、違法組織では、こうやって代役を立てることは珍しいことではなく、練習用のプログラムというものも用意されている。

それに従って動作を繰り返せば、スポーツに上達するように、遠隔操縦に慣れていく。

二日かけた練習で、一応は、差し障りなく、代理の人形を動かせるようになった。本番でへまをやって、人形だと悟られても構わない……誰が人形の向こうにいるか、知られなければ、それでいいのだ。

それから、ラファエルに護衛兵を付けて、基地内に送り込んだ。そして、知能強化型バイオロイドたちと、一室で話をした。

「わたしはラファエル。《ラピス》という組織の幹部の一人だ」

と名乗る。

「我々は、ある種の実験を考えている。きみたちバイオロイドに、どこまで権限を持たせることができるかという、組織経営上の実験だ。そのために、この組織を、きみたちの自主運営に任せたい」

彼らはもちろん、驚いた。

「我々バイオロイドに、組織を運営しろというのですか!?」

「それは、きみたちが知能強化型だからだ。できないはずがない。きみたち自身、人間より賢いと思っているのだろう?」

なるべく狡猾そうに、ラファエルの顔に笑みを浮かべてみせる。どうか、狙い通りの効果が出るように。

「きみたちが、そこらの人間よりも役に立つのなら、それを証明してくれたまえ。そうすれば、働きに相応しい生活ができる」

彼らは互いに顔を見合わせ、それから、ラファエルに対して質問を繰り出してきた。離れた艦内にいるぼく本体は、通信回線を通してそれに答えていく。

違法組織は、存在を続けるために、利益を上げなくてはならない。

だが、大きな利益でなくていいのだ。特に、今回の場合は。

これまでの事業のうち、悪辣なものは畳んでいい。自分たちが、まともだと思うビジネスだけを続ければいい。食料や雑貨の生産などだ。

武器製造もまあ、多少ならいい。研究活動も、人体実験を行わない範囲ならいいだろう。

かつて、研究基地の一つを壊滅させて脱出した先輩バイオロイドがいたことを、後から培養された彼らは知らない。それを話せば簡単だったかもしれないが、リリーさんの安全のために、それは隠し通すことに決めている。

「もし、きみたちの知恵で、この組織を維持していけるのならば、今後は《ラピス》が後ろ盾になる」

と説明した。将来、自分たちで手に負えない事態が起きたら、助けを呼んで構わない。できる範囲の援助はする、と。

「それは、《ルーガル》が《ラピス》の下部組織になるということですね?」

「経営そのものは、別建てだ。利益が出るようになれば、上納金は納めてもらう。系列という形だと思えばいい」

それから、脳腫瘍のことも話した。この基地の管理データから、ぼくの時代以降、知能強化型バイオロイドの体質は改善されていないと確認している。

「きみたちは、脳腫瘍の発生しやすい体質であることがわかっている。これは、知能強化の副産物だ。五年を過ぎたあたりから、発症の恐れが高まるというデータがある。その治療法を、自分たちで考えてほしい」

その成果は、《ラピス》が何らかの商売に使う予定だとも話した。

「つまり、我々は、独立採算でやっていく? 自分たちの治療も、自分たちでして構わない?」

「そういうことだ。最初の数年は、《ラピス》の重荷にならない程度の組織であればいい。我々は、長期的な安定を期待している」

彼らは、互いに顔を見合わせた。それで、自分たちの命は助かる。治療法さえ発見できれば、何十年でも、何百年でも生きられる。

「これまで、きみたちを使ってきた人間たちの処遇は、きみたちに任せよう」

とも約束した。これには、一様に驚きの表情が浮かぶ。

「ぼくたちが、人間より上に立つのですか!?」

「人間に命令していい、ということですか!?」

「もちろんだ。それが、正当な能力主義だろう?」

彼らには、人間より優秀だという自負はあった。しかし、反逆は不可能だという、絶望の方が強かった。

こうやって機会を与えられれば、枠を破れるはず。

ラファエルの姿を通して、ぼくは挑発的な言い方をした。

「きみたちはこれまで、基地の人間たち軽蔑していただろう? その人間たちに反逆されないように、うまくやってみたらどうだ」

彼らはむろん、何かの罠ではないかと疑った。だが、先に罠が待っているとしても、いま提示された条件は、破格のものだと納得した。

断れば、これまで通りの奴隷暮らしが続くだけ。失敗しても、元の奴隷に戻るだけ。それなら、承諾して何の損があるだろうか。

「ぼくらが人間たちを監視し、ことによったら、洗脳しても、処刑してもいいというのですか?」

「きみたちが話し合い、その方がいいと判断したら、そうして構わない。こちらの望みは、組織が継続的に運営されることだ」

そうして数日間、ラファエルの姿を使って彼らと話し、細部を詰めていった。ぼくだって、ジャン=クロードの下で、やっと組織運営を学んだばかりの駆け出しなのに。ぼろが出ないよう、もう、ここらで切り上げたい。

「わたしは忙しい。他に仕事が山ほどあるので、そろそろ出立する」

疲労困憊の日々を過ごして、ようやく、宣言できた。

「この組織をきみたちに任せておけるなら、《ラピス》にとって、十分な成果なのだ」

我ながら、ジャン=クロードの態度に似てきた気がする。ぼくは知らないうち、多くを彼から学んできたらしい。

八名の知能強化型バイオロイドは、自分たちの合議で組織を運営することを覚悟した。彼らが普通のバイオロイドたちに指令を出し、その下に人間たちを置く。

辺境の歴史の中でも、稀有な逆転劇だ。

悪知恵の豊富な人間たちが反逆しないよう、彼らには厳重な制限を課す。出入りできる場所、アクセスできる情報。

人間たちのある者は洗脳し、ある者は、体内に猛毒のカプセルを埋めることになるだろう。それは仕方ない。これまで、彼らが他人にしてきたことなのだから。

当面は、ぼくが定期的に通信して、相談相手になる。ぼく自身は、ジャン=クロードに知恵を借りる。

このやり方でよかったのかどうか、自信はないが、判定は麗香さんがすればいい。ぼくが失格ならば、あとはもう、ぼくが彼らにしてやれることは、何もないのだ。

***

「何とか片付いたな」

《アヴァロン》への帰り道、ジャン=クロードは艦内ラウンジでぼくと向き合い、対等な立場で話してくれた。

「速習コースだったが、組織の業務もあらかたわかっただろうし、艦隊戦も占領も経験した。基礎段階は卒業だろう」

「あなたのおかげです。ありがとう。あなたは優秀な教師ですね」

と言ったら、金髪のハンサムは苦笑いする。

「実は俺も、本格的な艦隊戦は初めてだった」

「ええっ!!」

さすがに驚いた。常に冷静で的確な助言をしてくれたから、てっきり、戦闘についてもベテランだとばかり。

「当たり前だろ。これまで弱小組織だったんだから、大規模な戦闘なんて経験しているわけがない。元が軍人ならともかく、俺は司法局出身だからな。犯罪捜査や要人警護ならわかるが、軍事作戦については、ほとんど素人だよ」

そうか。切れ者のジャン=クロードでも、この世界ではまだ、ほんの新参者なのだ。

いや、新参だからこそ、麗香さんがうまく利用できた。この人物を発見したことが、麗香さんの偉大さだ。

「ぼくのために、苦労をかけて……」

「おまえのためじゃない。俺自身にとって、都合のいい話だった。気前のいい出資を受けられたからな。拡大を急いだのは、おまえに経験を積ませるためだ。後はしばらく堅実にやって、基盤を固めることにする」

彼が組織拡大に浮かれていなくて、よかった。セイラのためにも、慎重に行動して、長く生き延びてほしい。

「《ラピス》が大きくなれて、よかったです。あなたは違法組織のボスとは思えないくらい、まともな人ですから」

麗香さんは日頃から、辺境中の新興組織や、単独行動のはぐれ者を調べ上げ、有望な人材をリストアップしているのに違いない。そうやって、味方にできる組織を育ててきたのだろう。一族の資産は、《ティルス》と姉妹都市だけではないのだ。

「それはありがとうよ」

とジャン=クロードは苦笑した。子供に誉められるなんて、と思ったのだろう。

でも、ぼくを生意気だと怒ったりはしない。リリーさんとタイプは違うが、やはり豪傑なのだ。豪傑に見えない分だけ、手強い人かもしれない。

「組織内でバイオロイドを使わないというのは、あなたの最初からの主義だったのですか?」

すると、彼は珍しく多弁になった。

「下働きをバイオロイドにさせて、五年で殺すというシステムは、元々おかしいんだ。いくら安い奴隷だからといっても、やっと一人前になった頃に殺すなんて、経済的に馬鹿げてる。普通人だって、企業に入って五年では、やっとお荷物でなくなったという程度だ。人間より優秀にできているバイオロイドとはいえ、教育も権限も与えないのでは、せっかくの優秀さをドブに捨てているようなものだ。使うのなら永続的に使う、そうでなければ最初から入れない、という方が道理に適っている。だいたい、男にバイオロイド美女を与えると、元々腐った連中がますます腐る。女に尽くされることが当たり前になると、男は際限なく馬鹿になっていくんだ」

内心で感嘆した。

(まともだ……辺境では異常なくらい、まともだ)

この人はやはり、何か明確な目的があって、市民社会を飛び出してきたのだろう。

司法局にいたということは、最初は市民社会を守るつもりでいたのに、そのうち、それだけでは済まない現実にぶつかった、ということではないか。

本人が過去を語らない以上、ぼくから詮索することはできないが。

少なくとも、麗香さんの見る目は確かだ、と納得できた。

「バイオロイドを五年で処分するのは、長く生かすと知恵がついて、人間に反抗するからでしょう?」

「その常識がおかしい。人道的な扱いをすれば、そもそも反逆する理由などないんだから」

「それは、あなたのような、まともなボスの下でなら、正当な扱いができるでしょうけれど……自分に自信のない人間だったら、優秀なバイオロイドは怖くて仕方ないんじゃありませんか? だから、追い越されないうちに殺すんでしょう?」

ジャン=クロードは苦笑した。

「だろうな。おまえみたいに、飼い主を噛み殺す犬もいる」

皮肉を言われても、もはや何でもない。おかげで、リリーさんに会えたのだ。

「あなたが、セイラの保護者でよかった。どうか、これからも、セイラを守ってやって下さい」

と言ったら、何か妙な間が空いた。何だろう。

「……もしかして、セイラが大きくなるのを待っているんですか?」

セイラはぼくと同じく、十二、三歳くらいの肉体年齢だ。もう数年待って、成熟してから、側女にするつもりなのかも。

でも、それならますますいい。ジャン=クロードなら、末永くセイラを大事にしてくれるだろう。

「ま、それはそれとして……」

照れたのか、彼は話題をそらす。

「《アヴァロン》に戻ったら、おまえを連れて、最高幹部会に出頭することになっている。それでな、ミカエル……」

「はい」

「俺は、前から妙だと思っていたことがあるんだが……」

「はい?」

「最高幹部会は、本当に〝リリス〟を殺したいのか? だとしたら、あまりにも不手際続きじゃないか?」

はっとした。いきなり、核心を突かれた気がする。

確かにリリーさんとヴァイオレットさんは、これまで何十回も暗殺者に狙われ、ぎりぎりで命を拾ってきた。だが、それにしても『運が良すぎる』という感じは、ぼくも持っていた。

吊り橋の上で狙撃された時だって、第二撃は来なかったのだ。

「一度や二度なら、刺客から逃れてもいいだろう。三度、四度なら、幸運と思うこともできる。しかし、〝リリス〟が懸賞金リストの最上位にランクされてから、もう何年になる? これほどまでに暗殺をかわし続けていることを、ただの運と実力に還元していいのか?」

もっともだ。

「いくら強化体だって、隙はあるだろう。というか、隙だらけだ。ろくな変装もなしで街を歩き回って、目立つ真似はする、男はひっかける。あれで生き延びているなんて、奇跡に近い」

「あなたの言いたいことは、よくわかります……でも……」

「解答は一つだろう。最高幹部会は〝リリス〟を殺したくないんだ。それどころか、積極的に守ろうとしているんじゃないか。そう考えれば、筋が通る。暗殺が失敗続きなのは、失敗するように仕組まれているからだ」

世間の常識とは、百八十度異なる解釈。

だが、よくわかる。ぼくもつい、同意してしまいそうになる。

「でも、リリーさんは本気で戦っていますよ。あの人の夢や理想は、本物です」

それは、実際に接したぼくの確信だ。しかしジャン=クロードは、第三者の平静さで言う。

「本人の意図は、関係ないんだ。結果として〝リリス〟は、最高幹部会に利用されている。おそらく、わかりやすい英雄が存在することが、〝連合〟の利益になるんだろう」

わかりやすい英雄。

「一般市民は安心して、悪との戦いを、英雄に丸投げするからな。大多数の市民は何も考えず、現状維持に満足する。だから、事態は何も変わらない」

そういうことか。人に説明されると、よくわかる。たまに小悪党が退治されたくらいでは、〝連合〟の支配体制は、びくともしない。

確かに、一般市民の無関心が、単なる卑劣、単なる愚かさであることは、ぼくも感じていたことだ。

辺境生まれの強化体のハンターが戦ってくれるなら、自分たち一般人が手を出す必要はないという、あからさまな責任放棄。

リリーさんたった一人で、世界の悪を全て糾すことなど、できないのに。

「それがわかっていて、ハンター役を務めているなら、〝リリス〟はただの女優にすぎない。スーパーヒロインごっこだ。わかっていないなら、大間抜けだろう」

これには思わず、かっとした。リリーさんはただ、純粋なだけだ。恵まれた生まれと育ちを、かえって負い目に感じ、自分の力は人のために使わなくてはと思っている。

「それじゃ、どうしろって言うんです!! リリーさんは精一杯、できることをしていますよ!! それを利用する方が、悪辣なんです!! ここでリリーさんを非難して、何の益があるんです!!」

彼は閉口したようで、ぼくをなだめる仕草をした。

「落ち着け。俺はただ、デュークや最高幹部会の真意を知りたいだけだ。なぜまた、手間暇かけて〝リリス〟の想い人を保護するのか。俺に教育させるのか」

彼の見たデュークは、偽者だ。だが、それを言うわけにはいかない。知らせてもいいことなら、麗香さんがそう計らうだろう。ぼくはただ、麗香さんを信じて従うだけだから。

***

《アヴァロン》第一の繁華街に、センタービルという名の巨大な要塞がある。緑で覆われた、岩山のようなビル。

都市の真の中枢ではないにしても(それはおそらく、部外者には見えない場所に隠されているはずだ)、中枢に見せかけている場所だ。

ぼくとジャン=クロードは、センタービル上層の特別階へ通じる、専用エレベーターに乗っていた。

彼は珍しく、正装のダークスーツ姿だ。ぼくはいつもの、紺のブレザーというお小姓スタイル。白いシャツブラウスの襟元に、ターコイズブルーの細いリボンを結んでいるのがアクセント。

護衛兵の同伴は許可されず、地下駐車場に入れた車で待たせてあるから、ぼくたち二人きりだ。

前に呼び出された時は、ジャン=クロードが一人で出頭したという。麗香さんはどんな手品で、この場所を利用できるのか。

目的の階に到着すると、オフホワイトのスーツを着た、秘書スタイルの黒髪の美女が待ち受けていた。

「ようこそミカエルさま、ジャン=クロードさま。こちらへどうぞ」

ぼくたちは奥へ案内され、ちょっとした緑の庭園を通り抜けて、豪華なサロンに出た。ギリシア神殿のような太い列柱は、警備兵が隠れるためだと聞いたことがある。常に、客から見えない側にいるのだと。

白とクリームと金色の華やかな内装、優美な曲線を持つ家具、あちこちにこぼれるほど生けられた薔薇や百合、牡丹やガーベラ。

そこでは十数人の人々が、幾つかに分かれて談笑していた。穏やかでいながら自信に溢れ、一目で支配階級の集まりとわかる。

男たちは、趣味のいい紺やグレイのスーツ姿。女性は二人しかいないが、どちらも個性的な美女だ。エメラルド色のドレススーツを着た長身の金髪美女と、白いワンピースドレスを着た、妖艶なプラチナブロンドの美女。

最高幹部会で二人しかいない女性メンバー、リュクスとメリュジーヌか?

いや、これが本物の最高幹部会のはずはない。だって、麗香さんの率いる一族は長年、最高幹部会とは距離を置いてきたのだから。

麗香さんの部下……いや、彼らはもしかしたら、ぼくが演じたラファエルのような、遠隔操作の人形なのかもしれない。麗香さんなら、一人で十二体を操ることも可能なのでは。

「やあ、ジャン=クロード。報告は見た。ご苦労だったな」

恰幅のいい金髪の男が、カクテルのグラスを持ったままやってきた。濃紺のスーツの胸に、白いポケットチーフが差してある。大企業の経営者か、大物議員と言っても違和感のない貫禄だ。

「十分な資金を受けられましたので」

とジャン=クロードが静かに頭を下げた。いつものサングラスは、既に外してポケットに差してある。

「その資金の使い方が適切だった。きみはさすがに、そこらのチンピラとは違う。我々の期待に、よく応えてくれた」

この男が、辺境で知らない者のないデュークなのか。とても……偽者とは思えない。本物の威厳と落ち着きがある。

もしも、本当に本物なのだとしたら……?

ここは本当に、〝連合〟の最深部……?

「《ルーガル》の処理も、上手く済ませたな。知能強化型バイオロイドの合議に任せたというのは、試みとして面白い。これがうまくいくようなら、他でも使えるかもしれない」

本気で言っているのか? この人たちは、それほど柔軟なのか? だからこそ……長く権力を保ってこられた?

もしかしたら……もしかしたら……ぼくは事態を、この世界を、片方からだけしか見ていなかった!? 支配される側からしか。

「それは、ミカエルの仕事です」

「きみの指導があればこそだ。よくやってくれた。では、控え室にいたまえ。後でまた、次の指示を出す」

愕然とした。多くの若手の中から選ばれて、特別に引き立てられたジャン=クロードさえ、こんなに簡単に追い払われるのだ。

あまりにも、冷酷な格差。

ジャン=クロードはちらとぼくを見て、『頑張れ』とも『気の毒に』ともつかない苦笑を送ってきた後、くるりと背中を向け、案内役の美女と共に控え室に消えていった。

このサロンとの間を隔てる、大きな扉が閉ざされてしまうと、よくわかる。ジャン=クロードなど、ほんの使い走りに過ぎないことが。彼はおそらく、百年経っても、〝連合〟の中で、中級幹部の座に昇るのが精々だろう。

なぜならば、ここにいる大物たちは老衰死せず、現役から引退しないからだ。階層の移動は、その下のレベルでしか起こらない。

「さて、ミカエル」

デュークはぼくの前にのっそりと立ち、灰青色の目で見据えてきて、穏やかに言う。

「色々と疑問もあるだろうが、とりあえず、今日はきみのお披露目だ。皆に挨拶したまえ」

「お披露目?」

「そうとも。辺境のプリンスのデビューだよ」

プリンス? ぼくが? それは、何の皮肉なのだ?

戸惑っているうち、サロンにいた全員が三々五々、ぼくの前にやってきた。天から舞い降りた白鳥のように、優雅に上品に。

「やあ、よろしく、ミカエル。ぼくはナルシスだ」

「わたしはメリュジーヌ」

「リュクスよ」

「ぼくは疾風」

「ハリールだ」

「エオンと呼んでくれ」

「きみもこれから大変だが、せっかく〝あの方〟に選ばれたのだから、しっかりな」

「生きられなかった仲間の分も、長生きしたまえ」

「何かあったら、連絡してきて構わない。できる手助けをしよう」

「まあ、たぶん、きみが我々の助けを求めることはないと思うが」

全員がぼくに握手を求めたり、肩を叩いたりして、親しげに名乗っていった。これが何かの芝居なのだとは、もはや思えない。

この人たちは……本当に、六大組織を代表する十二名の最高権力者たちなのか。

改めて考えてみれば、このセンタービル内で身分詐称など、とてもできないだろう。厳重な警備システムが、建物内の隅々まで見張っているはず。誰でも入れる下層階ならともかく、ここは中層より上なのだから。

それならば……それならば……

最後に、一人の人物が椅子から立った。十三人目であり、しかも女性。高い背もたれのおかげで、それまで、ぼくからは見えなかったのだ。

彼女は深い竜胆色のワンピース姿で、首に二連の真珠の首飾りをかけ、長い黒髪を背に垂らしていた。耳にはお揃いの真珠のイヤリングを下げて、にっこりと言う。

「お疲れさま、ミカエル」

驚いたというよりも、とどめを刺されたという感じだ。

「麗香さん……」

既にもう、心の半分では理解していたことだ。ただし、リリーさんは知らない。自分が敬愛する最長老が、悪の帝国の真の支配者だなんて。

「では、大姉上。我々は会議に入りますので、ミカエルをお渡しします」

大姉上? 麗香さんは彼らに、敬愛されているということか。

「ええ、受け取ったわ。ありがとう」

他のメンバーもそれぞれ麗香さんに挨拶してから、隣接する会議室に移動していく。この人は明らかに、あの十二人から、師匠のように仰ぎ見られている。

辺境で最高齢の存在というのは、こういうことだったのだ。六大組織も、その最高幹部たちも、長い年月のうちに、麗香さんが育てた作品であるのだろう。

そして、麗香さん自身は世間から身を隠し、選ばれた者の前にだけ、こうして姿を現す。

まるで、天の恩寵のように。

サロンに二人きりで取り残されると、ぼくはやり場のない怒りを抱いたまま、黒髪の美女に向き合った。

「……つまりは貴女が、辺境の本当の支配者なんですね。最高幹部会なんて、ただの風よけ、お飾りに過ぎないんだ」

この人は長い戦いの中で、次々に敵を葬り、自分を進化させ、忠実な部下を育て、ついにこの地位に就いたのだ。

人類文明の陰の支配者。

それなら、この世界には、正義もなければ慈悲もない。

市民社会はもう、違法組織のための人材育成所に過ぎないのだから。

「それが気に入らない?」

優しげな黒い瞳でにっこりされた。何を言っても無駄なのはわかるが、それでも言いたい。

「だって、貴女はリリーさんを騙している……リリーさんは、貴女が自分の敵だとは知らないんだ」

子供の頃のまま、無邪気に信頼して、尊敬して。

「敵なのかしら?」

麗香さんは、わずかに首をかしげてみせる。

「あの子は、わたしの最高傑作の一人よ。これからもまだ、活躍してもらうわ。みんなが憧れる、正義の味方としてね」

ああ、何てことだ。

リリーさんは、だから、あそこまで真っ直ぐに成長できた。リリーさんを歪めてしまうような苦労は、あらかじめ、排除されていたのだ。

だが、だからといって、ぼくがリリーさんを嫌いになることはできない。今のリリーさんが、ぼくの理想であることには変わりがない。

「それは、貴女の支配体制を存続させるために、でしょう。市民たちを安心させて、現状維持させたいんだ。リリーさんは本気で、弱い者のために戦っているのに」

「本気だから、いいのよ。そうでなければ、市民の信頼を得られないわ」

そうだ。リリーさんが本気であることが、必要なんだ。

器用な芝居なんか、できる人じゃない。

真実を知ってしまったら、きっと麗香さんに反旗を翻すだろう。勝てやしないのに。

だめだ、そんなことにさせてはいけない。ぼくが、リリーさんを守らなくては。

だが、どうやって。

「一般人には、希望が必要なの。いつか、正義が勝つという希望がね」

麗香さんは穏やかに言う。

「そうすれば、真面目に働いて、家庭を作って、きちんと子育てするでしょう。わたしには、そういう子供たちが必要なの。新たな人材が得られなければ、どんな組織も腐ってしまうのだから」

何という魔女だ、この人は。

バイオロイドが大量に培養され、使い捨てられるのも、辺境が無法地帯のままなのも、この人が、そういう仕組みを望んでいるからだ。

不老処置や超越化や新たな生命の創造という試みのために、辺境は『何でもありの無法地帯』でなければならないのだ。

ありとあらゆる実験のできる、自由な世界。

バイオロイドは人体実験の素材にすぎないから、彼らに人権など認めていられない。

たぶん、それが本来の目的なのだろう。進化のための実験材料。人間たちが彼らを性的な奴隷として使っているのは、ほんのおまけの使用法にすぎない。

その一方で、中央星域の市民社会は、時代遅れの法律や道徳に囚われ、進歩を止められている。善良な市民たちは、何世紀にもわたって、違法組織に捧げるための子供を育てているのだ。

成長して、市民社会の束縛を断ち切れる者こそが、麗香さんの望む人材。たとえばジャン=クロードのような。

そうして、一握りの野心家だけが辺境に出ていく。そこで苛酷な生存競争を勝ち抜いたら、不老不死という褒美を得て、更に自らを進化させていく。

市民社会には、凡庸な者が取り残される。だから、軍も司法局も無力なままなのだ。

『中央と辺境』という区分自体、市民たちに錯覚を与えるためのまやかしだとわかった。おかげで彼らは、中央に住む自分たちこそ、人類社会の本流であると思い込んでいる。本当は、囲い込まれた家畜にすぎないのに。

そして、ジャン=クロードのように有能な者も、結局は、権力ピラミッドの上層部に利用されるだけ。

それでこそ、麗香さんに都合のいい世界。

自分一人がいつまでも権力を握り、好きな人体実験を続けられる。そして最先端の技術は、まず自分のために使う。他人に分け与えるのは、ほんのおこぼれのみ。

この瞬間、ぼくは一人だけ、隔絶した宇宙に放り出されていた。もはや、リリーさんには助けを求められない。真実を知ってしまったら、リリーさんは即座に殺されるか、洗脳されるかだ。

あの人は、こんな真実を認めたりしない。できる限り、戦おうとする。

でも、それは無理なのだ。彼女を戦士として育てたのが、この世の支配者なのだから。

麗香さんが用済みとみなせば、リリーさんなど、その日のうちに始末されてしまう。

それだけはさせられない。それだけは。

この世界に希望があるとしたら、それはやはり、リリーさんしかいない。そして、ぼく自身も生きていなければ、リリーさんの役に立てない。

「理解してくれたようね? では、自分の役割もわかったかしら?」

「ぼくの役……?」

すっと手を伸ばされ、びくっと固まってしまった。けれど、彼女の手はぼくの肩をそっと押しただけだ。

「会議を見学しましょう。そうすれば、様子が掴めるわ」

会議室の大テーブルには、十二名の男女が着席していた。議長を務めるデュークが、議題を説明している。

新たに系列に加えた新興組織について。幾つかの研究組織からの報告について。最先端技術を満載した、新鋭艦隊の建造について。市民社会の最高議会内部の、力関係の変動について。マスコミに流す、細工済みの情報について。

彼らは、自分たちが駒にしている政治家や財界人を使って、市民社会の潮流を左右することができる。

ぼくと麗香さんは、防音の透明隔壁の後ろから見学した。会議室の音声は聞こえるようになっているが、こちらの音声は外に洩れない。

だから、麗香さんに質問しながら、会議を聞くことができた。麗香さんは、何でもよく知っている。おそらく、膨大な情報を整理するシステムがあるのだろう。彼女の意志は、最高幹部会を通して下部組織に伝わり、中央の市民社会にも、大きな影響を与えてきたらしい。

〝連合〟の駒になることを拒否した者は、政治家であれ、科学者であれ、ジャーナリストであれ、殺された。あるいは、密かに洗脳された。市民社会で尊敬されるあの人物も、この人物も、実は、麗香さんの思惑に添って動いている。

グリフィンの懸賞金リストに載せられている要人たちは、わかりやすい熱血漢や、誠実な人格者であるけれど、彼らの存在は〝連合〟の脅威にならない。だから生かされている。市民の希望の依り代として。

たまに暗殺者が成功しても、別に構わない。代わりの大物は、すぐに育つ。

取り換えが効かない大スターは、〝リリス〟くらいのものだという。しかし、それすらも、もはや信用できない。

麗香さんは密かに、次のスターを用意しているのかもしれないだろう。市民社会の希望の星になるような、清新な人材を。

途中でアンドロイド侍女が、お茶とサンドイッチを運んできた。蜂蜜を添えたハーブティだ。喉が渇いていたので、有り難い。

食欲などないと思ったが、飲み物を口にしたら、食べ物も欲しくなった。リリーさんならきっと、

『食べられる時に食べなさい』

と言うだろう。だから、サンドイッチも食べた。しかし、隣の麗香さんは、お茶を飲んだだけだ。

ひょっとして、この麗香さんは、どこかに隠れている〝本物〟の動かす人形なのか? ぼくが《ルーガル》で、後輩バイオロイドたちの前に、人形を出したように。

本物の麗香さんは、この姿とはまったく違う姿なのかも……あるいは、既に人間の形をしていないのかも。

……待てよ。

それでは、もしや……都市伝説だと思っていたが……この世界は、既に超越体に支配されているという話……

もし、誰かが超越化に成功しているとしたら、それは、この人なのではないか!?

***

会議は、二時間あまり続いただろうか。終わりの方で、我慢できなくなったぼくは、隣の女性に尋ねた。

「貴女はぼくに、何をさせたいんです?」

これが超越体の操る人形だろうが何だろうが、ぼくは、この人を相手に訴えるしかない。

「懸賞金制度は結局、〝リリス〟の活躍を引き立てるためにあるんでしょう? ぼくに、それを承知で、リリーさんの補佐をしろと言うんですか? つまり、ぼくにリリーさんを騙せと言うんですね?」

向こうは、軽く微笑むだけだ。

「よくできました。あなたがお利口だと、わたしは助かるわ」

ぼくのことなんか、キャンキャン吠える子犬程度にしか見ていないくせに。

「ぼくは、貴女がリリーさんの敵になるなら、憎めます」

精一杯の強がりで言ったが、可愛いことでも聞いたかのような顔をされただけ。

「構わないわ。あなたに愛されようとは、思っていません。ほら、あそこにも、わたしを憎む者がいるわよ」

驚いて会議室を見たら、ジャン=クロードがいるのとは別の控え室に通じる扉が開いて、一人の男が連行されてきたところだった。

「引きずるな!! 自分で歩くと言ってるだろうが!!」

浅黒い肌をした、精悍な長身の男だった。着古した革のジャケットに、色褪せたズボン。

頑丈そうな手錠や足枷をかけられた上、前後左右から、六体のアンドロイド兵士に押さえ込まれている。異様な警戒ぶりだ。戦闘用強化体だから? それがなぜ、大物たちの前に引き出される?

「今度は何だ!! 俺が何かしたってのか!! ちゃんと貴様らの望み通り、働いてやってるだろうが!!」

顔立ちはハンサムだ。長めの黒髪が乱れて、額にかかっている。黒い眉に黒い目。視線で人が殺せるものなら、会議室の面々は即死だろう。

しかし、デュークたちは慣れているのか、やれやれといった態度で苦笑している。

「少しは落ち着いて、人の話を聞いたらどうだ?」

「せっかく、久しぶりに会えたのに」

「……そうか、貴様ら、俺の後釜を見付けやがったんだな!!」

「喚くのをやめてくれたら、説明するとも」

デュークが落ち着いて言った。

「シヴァ、きみの推測通りだ。我々は、次のグリフィンを選んだ」

何だって。シヴァと言ったのか。

それはもしや、長いこと行方不明だという、リリーさんの従兄弟のことではないのか。

少年時代の写真なら、見せてもらった。あの高慢そうな少年に、数十年の経験を負わせれば、確かに、このような男になるかも。

「したがって、きみはお役御免になる。新たな仕事ができるまで、休養していてもらおうか。〝リリス〟に見付からないような場所でね」

それでは、シヴァがグリフィンだったのか!?

リリーさんがずっと捜していた従兄弟が、懸賞金制度の主宰者として、リリーさんの命を狙ってきたと……

いや、違うな。正確には、命を狙うふりをしていたのだ。ジャン=クロードの見抜いたように。シヴァは陰ながら、リリーさんとヴァイオレットさんが確実に生き延びられるように、様々な手を打ってきたに違いない。

彼はヴァイオレットさんを愛していたのだと、リリーさんから聞いている。真剣に、陰の守護者を務めてきたのだろう。それなのに、あっさり罷免されるとは。

「ふざけるな!! 俺以外の誰が、こんな厄介な仕事を引き受ける!!」

「ところが、適任者がいたのだよ。きみ以上に〝リリス〟を愛する男がね」

え。

どこに……ぼく以外、どこにそんな男がいるんだ。

慌てて、あたりを見回してしまった。だが、それらしい人物が登場する気配はない。シヴァも唖然として、言葉を失った様子。

「きみは最初から、グリフィンの仕事に乗り気ではなかったのだから、そろそろ交替してもいいだろう。これまで、ご苦労だった。しばらく、のんびりするといい」

シヴァは何とか反抗心を発揮して、兵士の囲みから吠えた。

「嘘も大概にしろ、そんな物好きがいてたまるか!! 俺を排除して、あの二人に何かするつもりなら、ただじゃおかないぞ!!」

嬉しい。ぼくの他に、リリーさんたちを本気で案じる男がいてくれて。もし、いつか、彼と共闘することができさえしたら。

「安心したまえ。世界にはまだ、正義の味方が必要だ。〝リリス〟の安全は、次のグリフィンが守る。当面はショーティが彼の補佐に付く予定だから、引き継ぎに問題はない」

ショーティとは、誰だろう。ジャン=クロードのような、世話役の一人か。

シヴァは怒りをこらえ、息を静めようと目に見える努力してから、ようやく肩の力を抜いた。デュークが合図すると、兵たちがシヴァの拘束を解き、距離を置いて取り巻く。

「きみが無駄に荒れ狂ったりしなければ、我々も、きみを檻に入れたり、爆弾付きの枷でつないだりしなくて済むのだよ」

うわあ。シヴァはこれまでさぞかし、この面々の手を焼かせてきたのだろうな。

「きみにはいずれ、相応しい仕事を用意する。きみのこれまでの仕事ぶりは、立派なものだった。だが、我々は新たな人材を発見したのだ。彼は他の誰よりも、リリーを愛している。だから、きみより望ましいグリフィンになれるのだ。〝リリス〟の主力は、ヴァイオレットではなく、リリーなのだから」

リリーさんを愛しているから、望ましい……?

でも、だって、それは……ぼくのはずだ。誰よりリリーさんを愛し、守りたいと思っているのは。

黒髪の男が兵たちの手で退場させられた後、最高幹部たちも散会していった。ぼくと麗香さんだけが、会議室を見渡す隔壁の後ろに残っている。

この隔壁は、向こう側からは見通せないのだ。だからシヴァには、ぼくと麗香さんが見えていなかった。見えていたら、叫んだはずだ。なぜ、自分を育てた最長老がここにいるのかと。

(彼は利用されていたんだ……初恋のヴァイオレットさんへの愛着を。幼馴染みのリリーさんへの友情を)

自分の同類……そう思った。彼が知ったら、バイオロイドなんかと一緒にするな、と言うかもしれないけれど。

「何も、手錠でつながなくても……功労者のはずです」

 ぼくが言うと、麗香さんはわずかな微笑みを浮かべた。

「あの子は時々、怒らせた方がいいのよ。でないと、すぐに、安易な方に流れてしまうから。バイオロイドの娘にのぼせた時は、ヴァイオレットのことを忘れかけたわ」

市民社会では恐怖の代名詞であるグリフィンが、麗香さんにとっては『あの子』にすぎない。

「男という種族の限界ね。本当の弱者になったことがないから、世界を根底から変えようという意欲を持てないのよ。多少の地位が得られると、それに安住して、戦いを忘れてしまう。その度に、崖から突き落として、目覚めさせてやらなくてはならない」

はっとした。ぼくとリリーさんが吊り橋の上で狙撃されたのも、この人の指図だったのか……?

恋愛に刺激を与えるため。ぼくらの仲を深めるため。

そのくらいのことは、やりかねない。いや、きっとそうだ。もしも本物の狙撃だったら、ぼくたちは、あそこで蒸発していただろう。

「あ」

つい、驚きを声に出してしまった。もし、何もかも、最初の最初から仕組まれていたならば。

黒髪の美女は、ぼくの考えを見通したように言う。

「気がついた? あなたもウリエルたちも、脱出を計画し始めた時から、わたしの監視下にあったのよ。そもそも、知能強化型バイオロイドには、全て監視を付けています。そうでなければ、危険すぎるもの」

まさか。

いや、まさかではない。ぼくらを設計したのも、この人かもしれないのだ。遺伝子設計の仕様書を、適当なルートで現場の科学者に与えたのかもしれない。

「では、ぼくらが基地を脱出できたのも、貴女がそう仕向けたから……?」

「そうでなければ、どうして保管庫から、ウィルスを盗み出せたかしら? それを、密かに培養できたかしら? いくら三流組織でも、そこまで抜けてはいませんよ。バイオロイドの反逆なら、過去に幾つも例があるのだから」

知っていて、やらせた。あの虐殺を。あれはつまり、ぼくらに課された試験のようなものだったのか!? 他に、試験に合格できなかった者たちが、たくさんいる!?

「でも、ウリエルは狙撃されました……ガブリエルは、脳腫瘍で死にました……」

「脱走者に追跡がない方が、変でしょう? 脳腫瘍は《ルーガル》の技術の限界だから、仕方なかったし」

仕方、なかった?

だが、脳腫瘍すら、ぼくらを追い込む計算だったのかも。市民社会に迎えられて安閑としていたら、リリーさんにあれほど切実な思いを抱くことは、なかったのではないか。

「あなた方のうち、誰か一人が生きて、リリーと出会えばよかったのよ。もちろん、出会えないまま終わる可能性もありました。わたしにも、全てを見通すことはできません。今回は、色々なことが運よく運んで、助かったわ」

だが、9割方は計画通りだったのではないか。ぼくがあの朝、桜を見ながら、川原を通りかかったことさえも……

いや、違う。ぼくが特別なのではない。そうではなくて。

辺境のあちこちで、たくさんの〝ミカエル〟が用意されていたのだ。絶望している、孤独な魂が。

そのうちの誰かが生き残って、リリーさんと出会い、恋に落ちれば、それで麗香さんの計画は成功だった。リリーさんのために、必死でグリフィンの仕事を務める男ができれば。

きっと、シヴァでは不足だったのだ。いや、シヴァを他の仕事に回したいから、グリフィンの後継者を用意しただけなのかも。

彼もまた、リリーさんと同じように、この人に期待されている駒なのだ……

「ミカエル、グリフィンの役を引き受ける覚悟は、できましたか? 〝リリス〟を陰から守る守護天使の仕事、あなたなら、本気で務めてくれるでしょう?」

***

麗香さんは、汚染と破壊に満ちた地球にいた頃から、考えていたという。誰か真に聡明な者が権力を握らない限り、人類は、これ以上の進化を遂げられずに滅びてしまうと。それではあまりにも、勿体なさすぎると。

自分にできるかどうか、わからない。でも、やってみよう。

そう決意したのは、科学者として活動していた中年の頃だったという。

数百年の歳月、この人は誰にも頼らず戦い、自らを進化させ、ほぼ完璧な独裁帝国を築いてきた。

ごく一握りの臣下の他は、誰もこの人の存在を知らない。

人類の大多数は、自分たちが誰かに支配されていることも知らない。

過去のある時点で、超越化に成功した麗香さんは、現在では、超空間ネットワークの中に自分の意志を宿らせ、多くの人間型端末を使って、社会に働きかけている。

ぼくが見てきた麗香さんも、元々の麗香さんの遺伝子を使った、改良型クローンの一体にすぎない。

麗香さんは、他の形態の〝端体〟も使っているそうだ。男だったり、女だったり、中性体だったり。

各端体の意識は、必要に応じて融合や分離を行い、意志の統一を保っている。さもないと、自分が分裂したまま、別方向に進化を始めてしまうから。

「そうなってしまったら、それも仕方ないけれどね」

辺境のどこかで、新たな超越体が誕生しそうになると、それを監視し、密かに抹殺することもある。

あるいは、生かして進化を見守ることもある。

現在、麗香さんが許す範囲内で、幾つかの超越体が誕生し、活動しているらしい。彼らは麗香さんの計画に沿う限りにおいて、存在を許されている。いまだ、麗香さんに逆らって、生き延びた存在はないという。

「ミカエル、あなたもいずれ、自分で超越化を試して構わないのよ。長く生きれば、いつか、人間の肉体に未練を持たなくなる時が来るでしょう。たった一つの肉体では、できることが限られていますからね」

そうかもしれない……今はまだ、わからない。

そうなっても、やはり、嬉しいとか悲しいとかいう気持ちは残るのだろうか?

それとも、超知性にとっては、感情など無用の長物なのか?

しかし、感情がなくて、どうやって生きられる? 生きる意欲というのは、どこから湧いてくるのだ?

それとも、単なる知的好奇心だけで、永遠に生きていけるのか?

「それと、ミカエル。こちらから一つ、あなたに要求することがあります」

最後に、大きな落とし穴が用意されていた。ぼくが想像もしていなかった、残酷な条件が。

「それを拒絶するのはあなたの自由だけれど、拒絶した場合、あなたは長くグリフィンの地位にいられないかもしれません。あなたの衝動が、あなたを破滅させてしまうからです」

それはすなわち、ぼくが『少年の肉体のままでいること』だった。

ぼくが成長し、成人男子の肉体を持つようになると、強い性衝動に襲われるようになる。

それは、自分を滅ぼしかねないほど、破壊的な激情であるらしい。

そうすると、『遠くから〝リリス〟の活動を庇護するだけ』であることに、耐えられなくなるという。

ぼくは、リリーさんに恋する自分を押さえられず、リリーさんと暮らすことを望むようになり、その結果、グリフィンの職務に支障をきたすだろうというのだ。

しかし、それこそが、ぼくの夢だったのに。

リリーさんを抱き上げられるような……抱き上げて寝室に運べるような……そんな男になることが。

「つまり……ぼくは未来永劫、リリーさんと結ばれてはいけない、ということですか?」

頭ではわかっても、心が納得できない。ぼくの心が欲しているのは、リリーさんをこの腕に抱きしめること。リリーさんの全身に、キスと愛撫を注ぐこと。そして、少女のように甘やかしてあげること。

けれど、麗香さんは、何もかも承知の上で言う。

「普通の男女の関係になってしまったら、あなたは二十四時間、あの子に嘘をつき通すことになるわ。グリフィンの仕事をしながら〝リリス〟の横に付くなんて、そんな綱渡りが、長く続くはずがないでしょう」

それは……そうかもしれない。

だけど。

「もし、あの子が真実を知ってしまったら、もはや、わたしの駒にはならなくなるわ。そうなったら、わたしはあなたも、あの子も抹殺する他ないのよ。正義の味方なら、他にも育てられるのですからね」

抜け道をあれこれと考えたが、結局、麗香さんの言い分を否定することはできなかった。

両方ともは、欲張れないのだ。愛のある暮らしと、闇の権力。

それならば、選択の余地はない。無力な子供であることは、もうたくさんだ。ぼくは、権力を選ぶ。それが、リリーさんを守るための権力ならば。

いや、正直に認めよう。

ぼくはまず、自分が生きたい。どうせ生きるなら、奴隷ではなく、権力者の側に立ちたい。

ジャン=クロードに拾われた時だって、ぼくは、傷だらけの素裸で引き立てられたのだから。

***

夜中、ぼくはセンタービルの上層階にある客室から、控えめな明かりを灯す繁華街を見下ろしていた。他の建物は全てセンタービルより低いから、眺望を遮るものはない。

少し前から雨が降りだして、涼しくなっている。緑の植え込みに守られたバルコニーに面した窓を少し開けてあるので、雨の匂いが流れ込む。

各ビルの屋上庭園に設置されたカフェからは人が引いたものの、ビル内のバーやレストランは終日営業だ。違法都市には、生活時間の異なる人々が集まるので、都市機能は休むことがない。

ぼくは明日、ショーティという人物に引き合わされ、グリフィンの職務について、詳しい説明を受けることになっている。何でも、その人物は、シヴァの長年の相棒だとか。

グリフィン直属の事務局は、誰がボスになろうと、変わらず通常業務を続けるから、混乱はないはずだという。

そもそも事務局の中枢メンバーすら、グリフィンの顔を知らないというのだ。彼らはただ、専用回線を通じて、グリフィンからの指示を受けるだけ。

事務局の立ち上げ当時には、グリフィンを直に知る者も何人かいたというが、年月の経過に伴って異動や身分の変化があり、今は、事務局の誰もシヴァのことを知らないそうだ。

だから、ぼくがシヴァに代わって指令を下すようになっても、しばらく経ってからようやく、指令の仕方に違いがあると悟られる程度だろう、という話。

必要があれば、《ルーガル》で試したように、代理の人形を使えばよい。

ジャン=クロードはこれからも、必要があれば、ぼくの依頼で動いてくれるそうだ。

『彼の組織を使いながら、新たな部下を育てていけばいいのよ。護衛も秘書も隠密部隊も、あなたの好きなようになさい』

と麗香さんは言う。

(人材って、どうやって集めればいいんだろう? 募集? 引き抜き? 日頃から網を張って、有能そうな者に目を付けておかないといけないな)

たぶん、自分なりの信念や美学を持つ者の方がいい。我欲だけの者は、信頼できない。

皮肉なことだが、無法の辺境においてこそ、誠実さが貴重な資質となる。それこそが、組織の芯。そうでないと、腐った組織しかできない。

(これが、管理職の苦労というものか……)

ぼくにとっては、世界が丸ごと変わってしまった。泥沼にいた惨めな奴隷が、今は、世界の中央にそびえる塔の中にいる。そこから、グリフィンの紋章付き艦隊に指令を下せる。

懸賞金システムの運営に関する限り、〝連合〟に所属する五十万以上の組織に命令できると聞いた。艦隊を借り上げることもできる。戦闘に向かわせることもできる。

過去にグリフィンが、脅迫や誘惑、洗脳によって手駒とした中央の市民たちも、引き続き利用できるという。その中には政治家も官僚も、軍人も司法局員も含まれる。

これだけの特権を、ぼくは麗香さんに与えられた。ぼくが少しばかり賢くて、なおかつ、リリーさんに恋い焦がれているという理由で。

笑ってしまうしかない。魔界の女王の養子になったようなもの。

つまりは、ぼくがそもそも、邪悪の要素を強く持っていたからだろう。誰が死んでも傷ついても、ぼくは気にせず通り過ぎることができる。ただ一人の女性さえ無事ならば。

(リリーさん……)

ぼくの女神。邪悪に対して、本気で怒ることの出来る人。

ぼくの指にはまだ、サファイアの指輪が燦然と輝いているのに、これはもう、婚約の印ではなくなってしまった。

麗香さんにとっては、この世が二つに分裂している方が、都合がいいのだ。

市民社会では、健全な子供たちを育てさせる。辺境では、危険な実験を続けさせる。人類の限界を超えるための実験を。

いずれは科学技術を究めて、新たな宇宙を創造するのだろう。自分たちの望みに合う宇宙を。

そして、神となった人類が、新たな知的種族を育てていく。古い神を超える、新たな神を求めて。

かくて、進化は永遠に続く……

この宇宙で神になるのは、麗香さんただ一人か。あるいは、麗香さんの選んだエリート集団だけか。

『ミカエル、あなたも、神になるまで、生きられるかもしれないのよ。そうすれば、本物の永遠が手に入るわ。好きなだけ、宇宙を創り続ければいいのだから』

他の人間が言ったのなら笑うところだが、麗香さんなら、成し遂げるかもしれない。彼女は永遠の挑戦の中で、思いもよらない何かが得られるはずだと信じている。

全ては、そのための下準備。人間やバイオロイドの命など、書き付けの紙一枚程度のこと。用が済んだら、丸めてぽい、だ。

『人類がこの世界に誕生したのは、ただの偶然なのかもしれない。あるいは、誰かの意図なのかもしれない。でも、誕生したからには、はるかな高みを目指すべきでしょう?』

ぼくにはわからない。

人は、神になれるのか。そうなって、幸せなのか。

それとも幸せなんて、動物的な満足にすぎないのか。

無限に生き続け、試行錯誤を続けて進化し続けることが、知的種族の正しいあり方なのか。

しかし、数学的に考えれば、無限の宇宙では、あらゆる事象が起こりうる。その中には、必ず死や破滅が含まれている。

個々の生命、個々の種族は、やはり有限なのではないだろうか。

永遠に続くものがあるとすれば、宇宙の生誕と終焉の繰り返しだけなのでは。

それとも、いつか全てが無に収斂していくのか。

『ミカエル、あなたは望むだけ長く生きられるのよ。悩む時間はたっぷりあるわ。好きなだけ考え、試しなさい』

千年や一万年ならまだしも、百億年の人生など、想像もつかない。リリーさんと一緒ならともかく、ぼく一人では。

それとも、恋しい寂しいなどという感情は、いずれ、なくなってしまうのだろうか。

このまま特権階級として何百年も生きていけば、ぼくも麗香さんのように俗世と距離を置くようになり、無感動になってしまう?

その時、進化を目指す、知的な好奇心や冒険心は残るのか? それすらも、どうでもいいことになってしまわないか?

生き続けることに疲れてしまって、死を望むことになるのでは?

だめだ。途方もなさすぎる。

リリーさんに全て打ち明けてしまい、豪快に笑い飛ばしてほしい。

だが、言えないことはわかっている。言えば、リリーさんは、麗香さんに記憶を抜かれてしまう。あるいは、抹殺されてしまう。

麗香さんに逆らうことなんて、誰にもできないのだ。この世界は既に、あの人の掌に載せられているのだから。

***

次に会った時、ジャン=クロードは妙な顔をした。まるで、ぼくが別な誰かになったかのように。

「何です?」

ぼくが尋ねると、彼は直立不動のまま、口元を引き締めて言う。

「何でもありません……ミカエルさま」

思わず、笑ってしまった。たった数日、会わなかっただけなのに。

その間、ぼくはショーティに会い、シヴァの経歴を聞き、グリフィンの職務について説明を受けたが、それだけだ。

シヴァは余計な動きをしないよう、幽閉先に移送されている。そちらの世話は、ショーティが引き受けてくれる。

単純なシヴァは、自分がショーティの知能強化をしたと信じていたが、実際には、そこにも麗香さんの手が加わっている。だからショーティは、シヴァの命を守ることを条件に、麗香さんの世界計画に従っている。

「あなたには、これまで通り、呼び捨てにしてもらいたいのだけれど」

「それは、命令ですか?」

ジャン=クロードにとっては、ぼくに敬語を使うことが、けじめなのだろう。でも、それではぼくが寂しい。今はまだ。

「それでないとだめなら……命令ということにします」

「では……ミカエル」

彼はしばし、言いよどんだ。しかし、結局は、率直な口調に戻って言ってくれた。

「きみは何か……雰囲気が変わった」

「そうですか?」

「姿は変わらないが……百歳くらい、年をとったみたいだ」

また、笑ってしまった。彼は内心、ぼくが最高幹部会に洗脳され、怪物化されたのではないかと疑っている。

構わない、怖がらせておこう。その方がいい。これから先、彼に冷酷な指令を下す場合も出てくるだろうから。

ぼくはジャン=クロードの背景も、既に調べた。優秀な司法局員だった彼は、違法組織に妻と娘をさらわれ、脅迫された。自分たちの仲間になれと。彼はやむなく市民社会を捨て、組織の手先となって働いた。何年も。

そして、その組織の中級幹部にまで出世してから、知った。妻と娘はとうに不老処置を受け、心底から辺境の住人になりきってしまい、市民社会に戻る意志をなくしているのだと。

彼から見て、再会した妻と娘は、既に魔女だった。永遠の若さのためなら、何を引き換えにしてもいいという魔女。彼女たちこそ、もはやジャン=クロードを必要としていない。

ジャン=クロードは組織を去り、一人で新しい組織を立ち上げた。そして、その組織を終生の居場所にしようとした。

そういう彼に、麗香さんが目を付けたのだ。

彼がセイラを保護している様子を見れば、麗香さんの正しさがわかる。彼にとってセイラは、失った娘の代りのようなもの。

まともな者が権力を持ってこそ、愚かな者、腐った者たちを従わせることができるのだ。

「ぼくはこれから、グリフィンとしての仕事を始めますが、最初のうちは、あなたに手伝って欲しいのです。あなたの組織の仕事と、半々でいいですから」

彼は驚いたが、承知してくれた。彼にとっても、グリフィンの直属の配下というのは、望ましい立場なのだ。色々な情報を、誰より早く手に入れられる。

「まずは、懸賞金リストの見直しです。年齢の上がった人はリストから外して、若い人を入れましょう。その方が、軍にも司法局にも、いい刺激になりますよ。それから、グリフィン艦隊を試しに動かしてみたいので、船旅に付き合って下さいね。実戦の練習もしてみたいので、適当な中小組織を相手に選定して下さい。喧嘩を売る理由? そんなものは要らないんですよ。単なる稽古台なんですから」

ジャン=クロードは、何か言いたそうに口を開きかけた。しかし、思い直し、サングラスのまま視線を下げた。

「了解しました、グリフィンさま」

「だから、ミカエルでいいんですってば。敬語もやめて下さい」

金髪の伊達男は、無理難題を吹っかけられたような顔をする。

「やりにくいんだよ、それは!!」

ぼくは笑った。久しぶりの大笑いだ。

「その調子。それでいいんです。あなたは、グリフィンの正体を知る、貴重な存在なんですから」

ぼくの脳内には、既に麗香さんの手で、新たな神経細胞が植え付けられている。ぼくが隠居屋敷に泊まった最初の一週間で、基本的な治療は完了していたのだ。

その神経細胞は、何年かのうちに、ぼく本来の神経細胞と置き換わり、ぼくの記憶や意識を担うようになっていく。

もう、脳腫瘍に怯えることはない。あとは幾らでも、最新技術による不老処置を繰り返していけばいい。

ぼくがグリフィンでいる限り、〝連合〟内のあらゆる最新情報にアクセスできる。超越化の研究も進められる。

――リリーさん、ぼくは、貴女の守護天使になる道を選びます。普通の男女のように、俗世で結ばれることはありませんが、魂であなたに寄り添います。

どうか、ぼくを信じ、頼って下さい。ぼくがどう変貌しようと、それは全て、貴女を守るためなのですから。

***

「ミカエル!! 元気だった!?」

十か月ぶりの再会を、リリーさんは全身全霊で喜んでくれた。

今日は、ロイヤルブルーの優雅なドレスを着て、首に大粒の真珠のネックレスを巻き、長い金褐色の髪は背に垂らして、とても女らしい。ぼくをぎゅうと抱きしめ、顔中に甘いキスを降らせてくれる。その後も、嬉しさのあまり、ぼくの周囲をぐるぐる踊り回るくらい、はしゃいでいる。

「ああもう、無事でよかった!! 姉さまったら、ほんとに人が悪いんだから!! こんなに長いこと、あたしたちを引き離しておくなんて!!」

――なんて可愛い人だろう。

貴女が悪党退治の時に見せる、壮絶な殺しっぷりを、ぼくが知らないと思って、安心しているんですね。

あなたが人身売買組織を潰した時も、子供を違法ポルノに使っていた組織を潰した時も、ぼくは現場の映像を、遠くで見ていたんですよ。

ドスの効いた素晴らしい啖呵を聞いて、惚れ直したことは、内緒にしておきますけどね。

「ああ、会いたかったわ。すっかり健康体になったのね。本当によかった」

ぼくはキスの余韻でうっとりしながら、素直に答えた。

「ぼくも会いたかったです……どれだけ会いたかったか、きっと、リリーさんにもわからないですよ」

白いワンピースを着たヴァイオレットさんは、少し後方にいて、離れてはまた抱き合うぼくたちを、黙って見ている。内心、ぼくの死を願っているとしても、それは表に出さない。リリーさんに冷たい女だの、怖い女だの思われたくないからだ。

リリーさんを愛してしまったおかげで、彼女は一生、困難な道を歩くことになる。でも、本人はそれを、幸福な道だと思っているだろう。他の運命と取り換えようとは、決して思うまい。

「少しは落ち着いて、ミカエルを離してあげなさい。窒息してしまうわよ」

麗香さんに笑って言われたので、リリーさんはようやく、何度目かの抱擁から、ぼくを解放してくれた。

お人よしのリリーさんは、少しも麗香さんを疑わない。〝リリス〟の活動を支援してくれる、大恩人だと信じている。

こんなに単純で、よくも生き残ってこられたものだ。ヴァイオレットさんの補佐と、グリフィンの庇護があればこそ。

「あたし、ミカエルに話したいことが一杯溜まってるのよ。もう、徹夜でしゃべり倒したいくらい!!」

「はい、徹夜で聞きます。全部聞かせて下さい」

「ああ、もう、ミカエルってば、なんていい子なの!!」

再び、ぎゅうと抱きしめられた。顔が豊かな胸に埋まってしまって、意識が飛んでしまいそうになる。

「あ、ごめん」

と、すぐ離されたが。

ぼくがいい子に見えるのは、リリーさんの善良さの反映なんですよ。貴女がいい人だから、ぼくも、いい子でいたいんです。貴女の前でだけは。

貴女が貴女の信じる道を進めるよう、ぼくがこっそり、裏で手を打っておきますからね。殺すべき相手は殺し、洗脳するべき相手は洗脳しておきます。だから、貴女が実際に相手にするのは、雑魚だけでいいんですよ。

……ああ、そうか。

邪悪な人間というのは、善良な人間が大好きなんだ。世界に善良な人間が多くいてこそ、自分が優位に立てるから。

薔薇園を見渡すテラスでのお茶が済むと、リリーさんはぼくを散歩に誘った。ぼくはおとなしく同行し、一緒にあれをしよう、これをしようというリリーさんの計画を、にこにこしながら聞いている。

――何という罪作りだろう。これから、この人を失望させ、落胆させるとわかっていて。

だが、今ならまだ、深い傷にしなくて済むのだ。リリーさんにとっては、何十回もの失恋話に、新たな一話が加わるだけのこと。次の王子さまに出会えば、忘れられる。

でも、その男もまた、リリーさんの前から去っていくはず。

貴女は女神なのだから、人間の男と結ばれることなど、なくていいのです。

ぼくだけは、いつまでも、貴女を守り続けますから。

「それにしても、ミカエルは、あんまり背が伸びていないわね……育ち盛りのはずなのに」

百合やラベンダーやポピーの花畑の中を歩きながら、リリーさんが不思議そうに言った。当然だ。思春期の少年なら、一年近く会わずにいれば、見違えるほど伸びているもの。

「ぼくは元々、成長が遅いように作られているので……」

それは、真実の半分である。放っておけば、普通人より長くかかるにしても、ぼくだって青年の肉体になる。

しかし、ぼくは遺伝子操作とホルモン操作で、肉体的成長を止めることにした。

今ならまだ、それができる。自分を〝永遠の少年〟にしてしまうのだ。動物的な性欲が荒れ狂い、ぼくの思考に影響を与えるようになる前に……

ぎりぎりだった、と思う。もう一年後だったら、もはや、性欲を捨てようなどとは思えなくなっていたのではないか。だから麗香さんは、ジャン=クロードに、ぼくの教育を急がせた。

「遅くてもいいわ。いずれは、立派な青年になるでしょ。そうしたら、結婚しようねっ」

ぼくの手を握って小道を歩きながら、リリーさんは言う。

「笑わないで、聞いてくれる? あたしね、一度でいいから、白いウェディングドレスを着てみたかったの。長いヴェールを曳いて、ブーケを持ってね。ミカエルもきっと、白いタキシードが似合うわ。ううん、薄紫がいいかも。教会の鐘を鳴らして、みんなに祝福されて、海辺の街でハネムーンを過ごすのよ」

リリーさんの無邪気な夢を壊すのは、とても辛い。でも、仕方ないのだ。リリーさんの生存が最優先なのだから。

「あのう、リリーさん……ぼく、実は、大事なお話があるのですが」

改まって切り出すと、リリーさんはいくらか警戒する顔になった。花畑の中で立ち止まり、不安げに言う。

「まさか、あたしより姉さまの方が好きになった……とか言わないよね」

冗談のふりをした口調だが、半分はそう疑っている。不吉な予感が、はっきりと顔に出ている。何て素直で、無防備なのだろう。

「いいえ、違います。そうではありません。ぼくは世界で一番、リリーさんが好きです。この気持ちは、一生変わりません。リリーさんは、ぼくの太陽です」

ぼくの魂は、リリーさんの魂と響き合っている。たとえ、仕組まれた出会いだとしても。

「ただ……わかってきたことがあるんです。わかりたくなかったんだけど、もう、わからないふりはできません」

「何のこと?」

これを言ってしまえば、もう後戻りはできない。だが、言うしかない。ぼくが期待に背けば、いつでも麗香さんによって〝処理〟されてしまう。

洗脳されて操り人形にされるくらいなら、自分の意志で麗香さんに従う方がいい。

自分の意志さえ残っていれば……最後の最後に、ぎりぎりで反逆することもできる。たとえ、失敗するとしても。

「ぼくたちは、結婚などしてはいけないんです。そんなこと、望むのが間違いでした。婚約は、解消して下さい。ぼくを、恋人ではなく、ただの友達にしておいて下さい。それなら、ぼくはこれからも、リリーさんの世界の隅っこにいられます」

リリーさんの顔から、表情が消えた。ロイヤルブルーのドレスの色が反射したかのように、顔から血色が失せる。

健康そのものの人が、ここまで顔色を失うなんて、並大抵のことではない。

「それは……それは、ミカエルが、あたしを嫌いになったということなの?」

声すらもかすれているが、それでも、意志の力で言葉をまとめることができる。さすがは豪傑だ。

「それとも、最初から、恋愛感情ではなかったということなの? あたしを好きだという、芝居をしただけ? 確実に治療してほしかったから?」

そんな浅薄なことなら、よかったのに。

「だったら、はっきりそう言って。ごまかされるより、はっきり宣告された方がいいんだから」

改めて、麗香さんが恨めしい。ぼくがこの人に、こんな思いをさせてしまうなんて。

「芝居なんかじゃありません。心の底から、大大大好きです。貴女は、ぼくの夢そのものです。いつまでも敬愛しています。でも、本当はリリーさんにも、わかっていることなんです」

「何なの。どうして、そんな言い方するの。あたし、全然わからない」

半分怒り、半分困った顔が、とても可愛い。

「では、はっきり言いますね。ヴァイオレットさんの存在です。ぼくが、貴女とヴァイオレットさんの間に割り込んではいけないんです」

杭を打ち込まれた吸血鬼のように、リリーさんは凍りついた。

やはり、ここが最大の弱点。

「そんなことをしたら、あの人は耐えられません。今だって、ぎりぎりで持ちこたえているんですから。もしも、ヴァイオレットさんの心が壊れてしまったら、リリーさんも傷を負います。それこそ、取り返しがつかないくらい。リリーさんがリリーさんであるためには、ヴァイオレットさんが必要なんです……これまで通り、貴女の伴侶は、あの人だけです」

「ミカエル!!」

リリーさんは悲鳴のように叫んだ。多分、これだけは聞きたくなかったに違いない。しかも、ぼくの口から。

「やめてよ!! 変なこと言わないで!! そんなの考え過ぎだってば!! きみは恋人で、ヴァイオレットは親友!! それでいいでしょ。何も問題ない。男と女が結ばれるのが、自然なんだから!!」

しかし、人類はとうに自然から離れている。

「あの子の男嫌いだって、いずれは治るわ。いい男と出会いさえすれば。あたしがきっと、いい相手を探すから」

そう言いながら、リリーさんにもわかっている。ヴァイオレットさんにとって、自分が全てだと。

幼い頃から今日まで、ヴァイオレットさんはリリーさんの最大の理解者であり、強力な味方であった。それは間違いない。

「いいえ、そんなことは起こりません。貴女以上の騎士なんて、この世のどこにいますか。ヴァイオレットさんは人生の最初から、男なんて必要としていません」

「ミカエル、やめて」

リリーさんはもう、泣きそうだ。ぼくだって、泣いて済むものならそうしたい。

「いいえ、言います。リリーさんだって、ヴァイオレットさんの愛情に、どっぷり浸ってきたでしょう。利用してきたと言ってもいい。ハンターとして好き放題に暴れるためには、この上ない補佐ですからね。その恩義は、とても返せるようなものではありません。貴女はまず第一に、ヴァイオレットさんの幸福を考えなければ。それがすなわち、貴女の幸福でもあるんですから」

「やめてよ!! そんな考え、誰に吹き込まれたの!!」

鋭い手刀の一閃で、あたりの花が飛び散った。リリーさんは豪華な金褐色の髪を振り乱し、両手を広げて叫ぶ。

「あたしの幸福はね、優しくて凛々しい王子さまと暮らすことよ!! ミカエルは、あたしの王子さまになってくれるんでしょ!! そのために、他組織で武者修行してきたんでしょ!!」

嬉しい、そんな言葉を聞けて。ぼくはもう、これで十分に幸福だ。ぼくのために、リリーさんが苦しんでくれている。

「そうです。少しは世界を見てきました。だから、〝リリス〟がみんなの希望の星だとわかるんです。リリーさんはこれからも、悪党に恐れられ、子供たちに憧れられる英雄でなくてはなりません。ヴァイオレットさんは、貴女の補佐として必要です。ぼくが割り込んだら、理想のペアが崩壊してしまいます」

ほら。単純剛直なリリーさんを言いくるめることなんて、こんなに容易い。もう、最初の勢いは弱まっている。

「だけど、ミカエルが、あたしの補佐をしてくれるなら……ヴァイオレットは、屋敷に帰ってもいいんだし……ミカエルがいてくれれば、あたしはそれで十分なんだから……」

「ヴァイオレットさんが、ひっそり自殺しても、構いませんか? それでも、ぼくと楽しく暮らせますか?」

「………!!」

リリーさんは何か叫ぼうとして、叫べなかった。呼吸ができないかのように、胸を押さえる。そして、くるりとぼくに背中を向け、あとは黙って耐えている。

ぼくの言い分が正しいと、認めたのだ。どんなに辛くても、真実と向き合える人だから。

「そもそも、リリーさんが戦いを始めたのは、何のためですか。ヴァイオレットさんが安心して暮らせる世の中を創るため、でしょう?」

ようやくこちらを向いたリリーさんが、力なく尋ねてくる。

「それは、麗香姉さまから聞いたの……?」

「はい。リリーさんたちが子供の頃、〝試練〟を受けたそうですね。屋敷の敷地の外れで、わざとチンピラたちに行き合うよう仕組まれた。ヴァイオレットさんがさらわれかけるのを見て、リリーさんは夢中で戦い、初めて人を殺したのだと聞きました……」

その時は、リリーさんも動揺したらしい。わずか十四歳。高度な強化体である自分が、手加減なしで殴ったり蹴ったりしたら、人は簡単に死んでしまうのだと、まだ知らなかった頃。

ただし、怯えたのは、自分が人を殺したからというよりも、屋敷の敷地から出るなという、お祖母さまの言いつけに逆らった結果だったから。違法都市では、殺人自体は珍しくも何ともない。

しかし、その場でヴァイオレットさんにとりすがられ、感謝されたことが、リリーさんの自信になった。

紅泉こうせん、あなたが、わたしの命を救ってくれたのよ』

自分は、か弱い従姉妹を守ったのだという自覚が、リリーさんの支えになった。ヴァイオレットさんだって強化体だから、本当は、そこらの普通人の男より強いのだけれど。

「それ以来、リリーさんは、明確な目的を持って、自分を鍛えるようになったのですね。それが〝リリス〟の誕生につながったのだから、試練の意味は十二分にあったわけです……」

それが一族の伝統なのだと、麗香さんは言っていた。

恵まれた環境で守り育てられるだけでは、子供は大人になれない。だから成長の過程で、あえて痛い目に遭わせる。一度で足りなければ、二度、三度。それに耐えられなかった子供は、淘汰される。

少女時代のヴァイオレットさんも、何かを悟り、決意したのだろう。リリーさんが邪悪と戦う戦士になるなら、自分は、その補佐を務めると。

「そうだね。そうだった……あれであたしは、自分に自信をつけたんだ。それまでは、お祖母さまに、落ち着きのない乱暴者だと叱られてばかりで、ずっと、優等生の探……ヴァイオレットに、劣等感を持っていたから」

ぼくはつい、下を向いてしまう。ぼくはもう、知っているんですよ。貴女たちの本当の名前を。紅泉こうせん探春たんしゅん。それは、漢字文化圏で育った麗香さんがつけた名前だと。

「リリーさんに劣等感があったなんて、不思議ですね。今のリリーさんを見て、自信に欠けるなんて、誰も思いませんよ」

「それって、あたしが単純馬鹿だと言ってない?」

むくれた顔が、とても可愛い。したたかに傷ついているのに、ユーモアは忘れていないのですね。

「剛胆で魅力的だと言っているんです。この世に舞い降りた、戦いの女神ですよ」

リリーさんは、仕方なしのように笑った。もう既に、心の整理をつけ始めている。わかってはいたが、強い人だ。

「ありがとう。ミカエルはいつも、あたしの聞きたいことを言ってくれるわ。婚約解消だけは、聞きたくなかったけどね」

「ごめんなさい」

「謝らないで……もう、決めたことなんでしょ」

「はい」

柔らかいそよ風がリリーさんの長い髪を揺らし、花の野原を吹き渡っていく。外界にどんな争いがあっても、ここは別天地だ。最高権力者の住まいは、この上なく厳重に守られている。

「リリーさん、婚約を解消しても、ぼくは生涯、あなたを愛し続けます。この気持ちは、誰にも消せません。ぼくはここにいて、麗香さんの研究の手伝いをしながら、〝リリス〟の活動を応援します」

と誓った。

「いつでも、便利に使って下さい。貴女のために新兵器を開発したり、情報集めをしたり、裏工作を手配したりしましょう。ぼくはそれで十分、満足して生きていけます。たまに、貴女がこうして会いに来てくれれば」

そのくらいなら、グリフィンの職務の邪魔にならない。それどころか、ぼくが生きる励みになる。

「年に一度か二度のことなら、ヴァイオレットさんも、許してくれるでしょう。七夕の恋人たちより、だいぶましですよ。必要な時には、連絡が取れるんですから」

リリーさんはしばらく深呼吸をしていたが、やがて、真っ直ぐにぼくを見据えた。

「あたしを嫌いになったわけじゃ、ないのね。ここにいて、あたしのために、裏方の仕事をするというのね」

「そうです。麗香さんには、その許可をもらいました。ぼくを、弟子にしてくれるそうです。色々と教わって、賢くなりますよ」

りりしい金褐色の眉が、少し曇る。

「ミカエルは、それで平気なの。年に一度か二度しか、あたしと会えなくても、構わないの」

「寂しいけれど、我慢します。離れていても、貴女が元気で活躍してくれることを、ぼくは喜べます。だから、お願いです。この指輪だけは、ぼくに持たせておいて下さい。お守りとして、一生、大切にしますから」

嘘は、真実を織り交ぜた時が一番強い。リリーさんはもうほとんど、あきらめをつけた顔になっている。長年、命の瀬戸際を歩いてきた人だけに、見切りというものができているのだ。

「一生、友達か……」

リリーさんは深く息を吐き、簡潔に言った。

「いいわ。婚約は解消。ミカエルはここで暮らす。探春には、そう言っておくわ」

「はい」

リリーさんの目が、鋭くぼくの顔を見る。これはもう恋人の目ではなく、戦士の目だ。

「あたしたちの本当の名前、もう聞いているの?」

「はい。麗香さんは、ぼくを一族に準ずる者として扱うと言ってくれました」

「わかった。ミカエルが安泰なら、それでいい」

紅泉というのは、いい名前だ。でも、ぼくにとっては、いつまでもリリーさんだ。その名前で、心に刻み付けられたのだから。

リリーさんは自分の左手からエメラルドの指輪を抜くと、惜し気もなく、花畑の向こうの池に放り投げた。素晴らしい遠投で、指輪は見事、池の真ん中の深みに沈んでいく。

それからリリーさんは、ぼくに背中を向け、花畑の中を歩み去った。屋敷とは反対方向だ。心が落ち着くまで、一人になりたいのだろう。ぼくは立ち尽くしたまま、自分に言い聞かせる。

(これでいいんだ。これしかなかった)

一緒に暮らすことは無理でも、たまには会える。友人として。

その時には、少女のように甘やかしてあげよう。それができるのは、たぶん、世界中でぼく一人だろうから。

***

「ミカエル。あなた、お姉さまに何か言われたの?」

ヴァイオレットさんがそう問いかけてきたのは、気まずい夕食が終わった後のこと。

リリーさんがむっつりしたままだったので、食卓は暗かった。麗香さんとヴァイオレットさんは普通に会話していたが、ぼくもまた、最低限の相槌しか打てなかったから。

「いいえ、何も」

アンドロイド侍女が立ち働く厨房で、後片付けを手伝っていたぼくは、大皿を棚に仕舞いながら答えた。

「それじゃ、あなただけの考えで、婚約解消を言い出したというの?」

「何か変ですか」

ヴァイオレットさんは、何か裏があるのを感じているようだ。でも、それを追求するのも危険だと感じているらしい。

「もしかして、身を引かないと、わたしに殺されると思ったから?」

冗談めかしているが、それが必ずしも冗談でないことは、お互いわかっている。

「それは難しいでしょう。戦闘のどさくさでない限り、リリーさんに疑われないようぼくを殺すのは、大変ですよ。ぼくだって、用心はしますからね」

と笑って答えた。向こうも仕方なしのように、苦笑する。

「可愛い顔をして、あなたもきついわね」

「お互い様です」

そうでなければ、リリーさんを愛することはできない。

「ぼくがいずれ去っていくと思ったからこそ、ヴァイオレットさんも、我慢していたのでしょう。これまで、リリーさんに関わった男たちは、みんなそうだったから……」

「あなたは違うかも、と思い始めていたわ。だって、リリーの役に立ちたいから、他組織で修行してきたんでしょう」

「おかげで、長生きしたい欲が出てきました。辺境はやはり、怖いですよ。ここにいて、麗香さんにかばってもらう方が楽です」

「確かにあなたは、お姉さまとは相性がよさそうだわ」

身勝手で冷酷なところが?

「そうだといいなと思います。ぼくは居候ですから、麗香さんに気に入ってもらわないと」

ふっと、ヴァイオレットさんは息を吐いた。

「正直なところ、わたしはとても嬉しいわ。あなたが婚約を破棄してくれて。リリーも今は落ち込んでいるけれど、いずれ立ち直ると思うの。どこかでまた、他の王子さまを見付けるでしょう」

それでも、ぼくには確信がある。どの男も、ぼくほどには、リリーさんを愛せない。

だからこそ、ぼくが一番、グリフィン役に相応しい。

同じ一族のシヴァですら、リリーさんのためより、初恋のヴァイオレットさんのために努力していた。それほど愛してくれる男がいたのに、なおも男嫌いを続けるのは、この人の傲慢さだ。少しは憐れみをかけてやれば、彼も家出などしなくて済んだだろうに。

もっとも、それでは、麗香さんの計画にそぐわなかったか?

あの人は先でまた、シヴァに何かの役を割り振るつもりだ。彼もまた、麗香さんのお気に入りの作品の一つ。だからこそ、ショーティというお守り役を付けて守らせている。

「それでは、ぼくも正直に言いますが、貴女がリリーさんを残して先に死んだら、ぼくはすぐさま、リリーさんに結婚を申し込みますからね。貴女さえいなければ、ぼくとリリーさんの間には、何の障害もありません」

可憐な美人はしばし硬直したが、すぐに能面のような笑顔になった。

「おかげさまで、急に、生きる意欲が倍増したわ。励ましてくれて、どうもありがとう」

ぼくも負けじと、意地悪くにっこりする。

「どういたしまして。リリーさんはお人好しだから、あなたの悪知恵で守ってあげて下さいね」

ヴァイオレットさんも、凍った笑顔のままで言う。

「もちろん、言われなくてもそうするわ」

そしてぼくらは、別々の方向に立ち去った。

   ***

ぼくがグリフィンとしての職務を果たすオフィスは、違法都市《ティルス》の市街地に用意された。

ここならば、リリーさんが帰郷してくる時、すぐに麗香さんの隠居屋敷に戻って、何食わぬ顔で出迎えられる。ずっと、屋敷で暮らしていたかのように。

そして、新しいオフィスには、ぼくの侍女としてセイラがやってきた。ジャン=クロードに頼んで、異動を認めてもらったという。

「ミカエルさまが許して下されば、わたし、ミカエルさまの元で働きたいのです。知識の足りない部分は、これから学びます。どうか使って下さい」

白い肌を淡いピンクに染めて、ひどく嬉しそうである。

ぼくは最初、セイラの意図がよくわからなかった。

「ジャン=クロードと離れていいのかい? ぼくは彼とは、たまにしか会わないと思うよ」

すると黒髪の少女は、にっこり笑って言う。

「ジャン=クロードさまには、とても感謝しています。でも、わたしがお側にいたい方は、ミカエルさまなんです」

ぼくは驚き、いささか狼狽えた。

「ちょっと待ってて」

いったん中座して、別室でジャン=クロードに連絡を取ってみたら、セイラは初対面の頃から、ぼくのことが大好きなのだそうだ。

知らなかった。迂闊だった。

ぼくときたら、リリーさんのことしか考えていなくて。

「使ってやればいい。セイラの気が済むまで、五年でも十年でも」

というのが、ジャン=クロードの意見だった。たまたまセイラを拾って以来、親代わりとして、あれこれ学ばせながら手元に置いてきたが、セイラ本人が道を見つけた以上、そちらへ行かせてやるべきだと思ったそうだ。

「本当なら、セイラ自身を愛してくれる男の方がよかったが、まあ、仕方ない。きみの元なら、他の場所より安全度は高いだろうし」

ぼくならば、セイラを一番に愛することはなくても、無責任な扱いや、冷酷な仕打ちはしないだろう、というのがジャン=クロードの判断。

それはまあ、あえてそんな真似をするつもりはないけれど、ぼく自身、いつまでこの地位にいられるか、わからないのに。

ぼくはまたセイラの元に戻り、にこにこしている彼女に向き合った。

「確認しておきたいのだが、いいかな?」

精一杯、厳粛に言うように努力した。

「きみはこれから普通に成長して、大人の女性になっていく。でも、ぼくはずっとこのまま、子供の姿でいることに決めている。仕事以外のことに、気を散らさないためだ。そんな不自然な存在、気味が悪いと思わないか?」

しかし、セイラはにこやかなままだ。

「それも、ジャン=クロードさまから聞いています。ミカエルさまの今のお姿、わたしは好きですわ。ずっとそのままでいて下さるなんて、素敵です」

そういうことか。セイラはたぶん、以前の組織の記憶のせいで、成人男子に対する恐怖や反感が強いのだろう。

「きみが気にしないのなら、それでいいけど……でも、それではぼくは、きみの好意を利用するだけになるよ。きみに尽くしてもらっても、ぼくが、リリーさん以上に誰かを愛することはないのだから」

すると、にっこり微笑んで返された。

「ミカエルさま、それは違います。わたしはわたしの幸福のために、ミカエルさまを利用しているんですわ」

あ?

「わたしが勝手にミカエルさまを好きで、勝手に幸福なんですから、気になさらないで下さい。わたしの人生の幸福は、わたしが自分で決められます」

驚いた。そんな台詞を言えるほど、セイラが人間に近づいているなんて。素晴らしい進歩だ。

どうせなら、もっと普通の男を好きになればよかったと思うけれど。

まあ、今はセイラの好意を受けることにしよう。先になって、セイラが他の道を見つけたら、知られていては困る記憶を抜いた上で、そちらへ行かせてやればいいのだから。

「わかったよ。よろしく、セイラ。それでは早速、二人分のお茶を淹れてきてもらおうか?」

   ***

リリーさんとは年に一度か二度、《ティルス》への帰郷の折に会うだけになった。

リリーさんはやはり、ぼくが子供の姿でいることに、苦いものを感じているようだが、ぼくの意志を尊重してくれるので、文句は言わない。

「ミカエルが幸せでいてくれるなら、あたしもそれでいいわ」

ぼくはもちろん、リリーさんがどこにいて何をしているか、グリフィンの監視網を通じて、常に把握している。

リリーさんの敵に回る側も、同様に監視しているから、必要が生じれば、適切な邪魔を入れられる。偽情報で撹乱したり、毒薬や爆弾を威力の弱いものにすり替えたり、狙撃を妨害したり。

リリーさんが元気なら、気晴らしのボーイハントをしたって、構わない。婚約だろうが結婚だろうが、リリーさんのしたいことを、何でもしてくれていい。

相手の男に嫉妬は感じるだろうが、ぼくが、それに振り回されることはないはずだ。

これはもはや、保護者の感覚ではないだろうか?

(たぶん、ショーティもシヴァのことを、こういう風に見ているんだろうな)

愛してはいるが、囚われてはいない。

生きて幸福でいてくれれば、それでいい。

ぼくはぼくで、することがある。市民社会にも辺境にも目配りしているから、毎日が忙しい。新たな研究、新たな計画、計画の修正、人材の入れ替え。

いずれはぼく自身、超越化に乗り出すことになるだろう。生身の人間のままでは、できることが限られるから。

ぼくの他にも、麗香さんが目をかけて育てた新人たちが、宇宙のあちこちに散っている。ぼくは彼らと競いながら、進化の階段を登っていくだろう。

何万年、何億年、何兆年。

できれば、愛する気持ちだけは、失いたくないけれど。

やはり、この選択は正しかった、と感じるようになっている。未来のいつか、リリーさん自身が消滅しても、リリーさんの魂の記憶は、ぼくの魂に刻印されて残る。だから、ぼくが望めば、いつでもリリーさんを復活させることができる。

現在のリリーさんならば、そんな復活は否定するかもしれないが、復活させられたリリーさんならば、その時点から元気に生きていくはず。自分が複製だろうと何だろうと。

遠い未来のぼくは、この宇宙に限定されず、別の宇宙へも進出できるだろう。望ましい宇宙がなければ、新たに創る。命を育てることができる宇宙を。

ぼくらがいるこの宇宙も、そうして、誰かに創造されたものかもしれない。無限の過去から、次々に創造が繰り返されてきたのかもしれない。

どこまで行けるかわからないが、この道をたどってみよう。

そうすれば、きっと何かが見つかるはずだ。今は、おぼろにしか想像できない何かが。

   天使編 完

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