恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 天使編』4
天使編4 10章 ミカエル
二日後、リリーさんはぼくに未練を残しながらも、ヴァイオレットさんに引き立てられるようにして、屋敷から去っていった。
「ミカエル、すぐにまた来るからね! 姉さま、ミカエルを頼みましたよ!」
と車の窓から何度も言い残して。
「はいはい、わかっていますよ」
穏やかに微笑む麗香さんと並んで、遠ざかる車を見送ると、ぼくはがっくりきてしまった。リリーさんの姿がないと、常春の楽園ですら光が翳り、気温が下がったような気がする。リリーさんが市民社会で新たな事件に取り組むことになったら、次はいつ会えるか、わからないのだ。
「ミカエルは本当に、あの子が好きなのねえ」
黒髪の美女に哀れみ半分、からかい半分で言われてしまった。
「はあ」
と言う以外、答える気力もない。リリーさんに泣いてすがらなかったことだけで、自分としては精一杯の強がりなのだ。
唯一の慰めは、ぼくの指にあるサファイアの婚約指輪だった。リリーさんの瞳と同じ、海の色の石。
リリーさんが《ティルス》の宝石店に注文して、買ってくれたものだ。本当は、ぼくが払いたかったのだけれど、ぼくの全財産は、後に残してきてしまったから。
『ミカエルが一人前になったら、あれもこれも買ってもらうから、今はあたしに払わせてね』
というリリーさんの思いやりに、感謝するしかない。
そのリリーさんの指には、ぼくの目の色と同じ、エメラルドの指輪がある。
『これをお守りにして、仕事、頑張ってくるからね』
と言い、お別れのキスをしてくれた。ぼくにとっても、この指輪は大事なお守りである。もっともリリーさんの方は、いったん任務にかかったら、邪魔な指輪など、外してしまうだろうけれど。
それから一週間ほど、投薬治療を受けながら、穏やかに過ごした。薬品で腫瘍の成長を抑えている間に、本格的な治療方針を決めるという。
「治療法は何通りもあるから、焦らなくていいのよ。あなたの健康は、わたしが責任持って取り戻します」
と麗香さんに保証されたことで、かなり安心できた。
「ここに慣れるまで、のんびりしていらっしゃい」
と言われた通り、庭園の薔薇を摘んでルビー色のジャムを作ったり、刺繍を習ったり、ピアノを弾いてみたり、乗馬に連れ出してもらったり。
屋敷の周囲に広がる緑地には、あちこちに、ちょっとしたお楽しみが仕掛けてあった。実をつけたレモンの木やオレンジの木、オリーブの木。百合の群生。斜面一杯に咲く菫の花。
隠れ家のような、ささやかな丸太小屋もあった。小屋には家具や道具類が置いてあり、暖炉で湯を沸かしてお茶を飲むことも、ベッドで昼寝をすることもできる。
馬に慣れると、一人で小道をたどって、遠くまで行けるようになった。小川に添って進み、湖の岸に出たり。そこから森の中を抜けて、見晴らしのいい崖の上に出たり。
馬で森を抜ける途中、さっと通り雨が来て、大木の下で雨宿りすることもあった。植生を保つために、時々、人工の雨が降るのだ。待っていれば止むと知っているから、馬を降り、手綱を木の枝にひっかけ、自分は太い根っこの上にでも座っていればいい。
肌寒い霧が流れてくると、視野が閉ざされ、世界にたった一人でいるかのようだった。雨によって強まる緑の匂い、湿った土の匂い。馬は静かに休んでいて、ぼくを一人にしておいてくれる。
神聖なほど静謐な時間が過ぎるうち、外界のことを全て忘れてしまいそうな気分になる。生まれてからずっと、ここで過ごしているような。
もしかしたら、これまでのことは、全て夢なんじゃないだろうか。
ぼくはもう死んでいて、ここは天国で、ただ、リリーさんと出会ったという夢を見ているだけなのでは。
それでも、雨があがり、霧が晴れると、ぼくはまた馬に乗って、屋敷に戻る。屋敷には麗香さんがいて、
「楽しかった?」
と尋ねてくれる。こんなに確固とした夢、自分の想像力で作れるわけがない。
麗香さんは親切で、寛大な女主人だった。おおかたの時間、ぼくを好きにさせておいてくれるが、ぼくが迷ったり、不安を抱いたりすると、適切な助言をくれる。
「急いで体を鍛えようなんてしなくていいから、乗馬と散歩を楽しんでいらっしゃい。格闘技が習いたかったら、治療が終わってからにすればいいのよ」
「料理は、できるに越したことはないわね。少しずつ、わたしがリリーの好きな料理を教えてあげます」
「書斎の本を読むなら、お薦めリストを作っておいてあげるわ」
リリーさんが信頼して、ぼくを預けていっただけのことはある。たぶん、一族中から尊敬されている女性だ。
それでもなお、
(リリーさんと一緒だったら)
とは幾度も思った。噴水の傍のベンチで、花の写生をしている時。ランチボックスを横に置いて、花畑に囲まれた芝生に寝そべる時。蓮の花が咲く池の周りを歩く時。
この景色を、リリーさんと一緒に楽しみたい。
同じものを見て、感動したい。
リリーさんといれば、何をしても、百倍は楽しく充実しているだろう。たとえ宇宙空間で事故に遭っても、未知の惑星上で遭難しても、リリーさんと一緒なら、きっと耐えられる。
だが、自分で自分を叱咤した。今はまず、健康になり、役に立つ一人前の男になることだ。リリーさんの側にいても、足手まといになるだけなら、意味がない。
吊り橋が砲撃で断ち切られた時、ぼくはあっさり気絶して、リリーさんのお荷物になっただけだった。そのことを思い出すと、一人で頭を抱えて唸ってしまう。もう二度と、あんな醜態はさらしたくない。今はまだ子供でも、男なのだから。
***
吟味された贅沢な夕食の後は、本物の炎がパチパチと燃える暖炉の前で、麗香さんと一緒に蜂蜜入りのハーブティを楽しんだ。
アップルミントやレモングラス、カモミールやレモンバームというハーブも、麗香さんに教えられ、あたりの野原で摘んできたものだ。紅茶の葉に混ぜてもいいし、ハーブだけで使ってもいい。
美しいワンピースを着た麗香さんは、お気に入りの安楽椅子で寛いで、遠い思い出話をしてくれた。
「わたしはね、地球時代の末期に生まれたの……今の常識では、信じられないでしょうね。たった一つの惑星上に、百億近い人間が暮らしていたなんて。川は腐臭がしていたし、海には大量のごみが浮かんでいたわ。人間が廃棄した有毒物質や、放射性物質が、全て海に流れ込んでいたの。汚染のひどい場所では、空気を吸い込むことすら、危険なことだったのよ。防毒マスクがないと、外出できなかった時期もあるわ」
確かに、想像もつかない。
ぼくのいた《エリュシオン》も、人口は五千万ほどだった。首都を離れれば、どこまでも緑の野山が続いていた。川も海も清らかで、たくさんの魚が泳いでいた。もちろん、人間が強引に移植した生態系だが。
「しかも、互いに土地や資源を奪い合い、殺し合っていたのよ。うまく分け合えば、みんなが暮らせるだけのものは、かろうじてあったのにね」
麗香さんは、ぼくが歴史の本でしか知らない地球時代の、貴重な生き残りだった。現在の地球は、歴史遺産として保存される田舎惑星に過ぎないが、かつては人類の全世界だったのだ。
「当時はまだ、男たちが権力を握っていた時代だったから、平和や平等を願う女たちの声は、圧殺されることが多かったの。多くの男たちは、女が独立心を持つことを、ひどく恐れていたわ。女が判断力や行動力を持ったら、つまらない男は見捨てられてしまうから。わたしの少女時代には、女に学問は要らないという声さえ残っていたのよ……わたし自身、女に知恵がつくと、ろくなことはないと、何度も言われたわ。利口ぶっていて、可愛くない。人に尽くす気持ちが足りない。勉強に打ち込む娘たちは、そうやって貶められたものよ。男たちは最初から、人に尽くす気持ちなんて、持っていなかったくせにね」
当時は、先進国の市民社会でさえ、そんなものだったらしい。何だかまるで、人間がバイオロイドの反乱を恐れるような……
ああ、そうか。
相似形で当たり前なのだ。女たちに独立されてしまった男たちが、新たな奴隷として創ったのがバイオロイドなのだから。
「男というのは、哀れな種族なのよ。男同士の戦いに勝つため、女を得るために、強がらなくてはならないと思っている。実力がない者ほど、必死になって強がり、弱い者を踏みつける、負の連鎖ね。そんな見栄張りなんか、女にはすぐに見抜かれるのに。何百年、何千年、そうして強がってきた習性は、簡単には抜けないらしいわ」
科学的真理を説明するような、淡々とした言い方だった。一応、男の部類に入るぼくとしては、
「はあ、そういうものですか」
くらいしか言えない。ぼく個人は、無駄に強がったことなどない……と思うのだけれど。
いや、強がったのかな?
リリーさんに相応しい男になりたい、ならなくてはと思って、ここに預けられることを承知した。本当は、ヴァイオレットさんにうとましがられても、リリーさんの傍にいたかったのに。
「それでも、未来を見据える人たちが常にいて、少しずつ進歩は続いていたわ。わたしが中年を過ぎる頃にようやく、地球連邦が誕生したの。偉大な女性の政治家や学者が何人も出て、ようやくね。戦争に使っていた資源を、教育や科学研究に振り向けることで、事態が好転したわ。それでも、ぎりぎりだった。人類が自滅する前に、超空間航法が完成したのは、奇跡だったわね」
初期の実験船は幾度も失敗し、爆発したり、難破したりして大勢の犠牲者を出したが、人類はあきらめなかった。ついに、実用に堪える船が完成した。無人探査船からの報告を元に、有人船が次々に旅立っていった。
「それからはもう、爆発的な探険と移民の時代だったわ。太陽系内のあらゆる資源が、調査船や移民船の建造に回された。他の星系に、人間が住める惑星が幾つも発見され、何億という人間が、怒濤のように地球から出ていった。しまいには、地球に残っている方が少なくなってしまった。歴史の流れが、ゆるい大河から大滝になったかのよう……」
そのあたりの歴史は、ぼくも再教育施設で学んだ。けれど、実際に体験した人の話は説得力がある。
「わたしは既に老人になっていたけれど、その流れに加わりたかったから、自分を実験台にして、若返りの技術を試したの。もう失うものはないのだから、失敗して元々でしょう。もちろん、先人たちの遺産を受け継いだ上での挑戦だったけれど」
麗香さんは簡単に言うが、それは、もう一つの奇跡だったのではないか。遺伝子操作の実験もまた、多くの犠牲を必要としたはず。
「幸いにして、中年の頃の活力を取り戻せたので、移民計画の立ち上げに参加することができたの。当時は、あちこちで多くの移民計画が進行していたけれど、失敗したものも多かったのよ。技術不足や資金不足、事故や内紛。わたしたちは、初期の希少な成功組ね」
話は、幾夜にもわたって続いた。
麗香さんと仲間たちが移民船団を組んで、辺境の宇宙をさまよった話。星系探査を繰り返し、資源を採掘し、試験的な小惑星都市を建設した話。そこを基地にして調査研究を繰り返し、また新たな小惑星都市を築いた話。
《ティルス》のような、何十万人もが安心して暮らせる都市が誕生するまで、ずいぶんな試行錯誤があったのだ。
その間にも、遺伝子操作や生体改造の技術は進歩し続け、若さを保つことが容易になった。活力があれば、新たな挑戦もできる。そうやって、麗香さんたちは、一族の繁栄の基礎を築いたという。
「その頃には辺境も、野心家たちの飛び回る戦国時代になっていたわ。法律も協定もないのだから、強い者が言い分を通す状態だった。地球から波のように広がった移民たちのうち、地球周辺の星系に留まった人々より、更に遠くを目指した人々の方が、もっと欲深だったのね」
更に豊かな星系。更に広い領土。もっと多くの武器。優れた肉体。そして永遠の命。
「その試行錯誤の中から、バイオロイドも誕生したわ。単なる機械の兵士より、もっと便利に使える、生きた奴隷ね。心を持たない召使では、人間の心を推測することができないから、人間にとって不便なのよ。人工知能もずいぶん研究されたけれど、人間の肉体を持たない限り、人間とは本当に分かり合うことができなかったの」
人間たちが、人工知能や、心を持たないアンドロイドの召使で満足してくれていたら、それで平和だったのに。
「それに、多くの男たちにとっては、〝自分に都合のいい女〟が、どうしても必要だった。傷つきやすい、哀れな自尊心を慰めるためにね。普通の人間の女に相手にされない男たちが、バイオロイドの女に救いを求めたのよ。彼女たちにとっては、悲劇だったけれど」
哀れな自尊心……
麗香さんといい、ヴァイオレットさんといい、女性はどうも、男に厳しすぎるのではないだろうか?
ぼくの場合は、包容力の大きなリリーさんに救われたからいいけれど、そうでなければ今頃は、世界を恨んだまま、ねじくれて悪意の塊になっていたはずだ。それこそ、惑星全体を道連れにして、自殺しようとしていたかもしれない。
救ってくれる女性に出会えれば、どんな荒んだ男でも、そこから更生できるだろうに……
いや、それは女性の側に、途方もない重荷を背負わせることだと、麗香さんたちは思うのだろうな。
とにかく、対立する他組織と戦い、ある時は殲滅を選び、ある時は共存を模索しながら、麗香さんたちは更なる研究を続けていった。
より優秀な形質を持つ、新世代の人間たち。
全知全能を目指す〝超越化〟への挑戦。
そうしながら、新たに押し寄せる移民を受け入れ、《ティルス》を大都市に育て上げた。《インダル》や《サラスヴァティ》という姉妹都市も建設した。
そして、後から興隆してきた〝連合〟との確執。いかにして彼らとの武力対決を避け、棲み分けを工夫し、一族の独立を保ってきたか。
「苦労したのは、大自然との戦いや、技術的な困難よりも、男たちの頭の悪さよ」
麗香さんはそれを、怒りや軽蔑ではなく、哲学者のような距離感で言う。
「彼らは弱いくせに、威張りたがる。無能なくせに、力だけは欲しがる。女たちが甘やかしてやらないと、すぐにむくれる。物事がうまくいかないと、不貞腐れて、暴走する。もう、絶滅してくれた方がましではないかと思うくらい」
ぼくとしては、相槌に困る。自分はそれほど、劣悪な種族の一員なのだろうか。
麗香さんはぼくを見て、静かに微笑んだ。
「あなたを責めているのではないわ、ミカエル。あなたもまた、人間の男たちの被害者なのだから」
でも、ぼくは、その『人間の男』の仲間に入りたいと願っている。というより、それ以外、どうやったら男の完成形になれるのか、わからない。
バイオロイドであることは、すなわち卑屈な奴隷であることで、それは、理想の男の形ではないと思うから。
ただ、どんな男が理想なのか、自分でもまだわからない。
火のように激しい男?
水のように静かな男?
冷徹な男?
無邪気な男?
それとも、変幻自在な男?
これまでは、数年の残り寿命しかないと思っていたから、そんなことを考えるゆとりがなかった。少年のうちに死ぬなら、性愛のこともわからないままだろう。
でも、今は、リリーさんが喜んでくれるような男になりたいと思っている。たぶん、強くて、賢くて、ユーモアがあって、いざという時には冷静で大胆で……
あれ、でも、それは、リリーさんに媚びることになるのかな? リリーさんに好かれるために、自分を形作ろうというのは、ずるい考え方?
自分らしくしていて、それで自然にリリーさんに愛されるような……そんな風になれたら、それが理想なのかもしれない。
でも、自分らしくというのが、そもそもわからない。
こうやってあれこれ悩む自分、無力でちっぽけな自分、今は、こういう自分であることしかできない……
「……敵でも味方でも、男は、常に厄介の元だったわ。彼らに権力を持たせたら、何もかも滅茶苦茶になってしまう。彼らが、賢い女に従う知恵を持ってくれれば、それで、世の中はうまく回るのにね」
さんざん苦労してきた麗香さんは、深い確信を持って言う。世界の舵取りを、男に委ねてはいけないのだと。
「男という種族は、戦うことが本質なの。いわば、天然の戦闘用強化体ね」
生物の本流は雌だが、遺伝子の交雑を進めるため、大自然は雄という変種を創った。雄の生涯は、雌を妊娠させたり、卵子を受精させたりするためにあるという。
「そのためだけ、ですか?」
「そう、他のことは全ておまけね」
と麗香さんは笑う。
「大昔はそれでよかったのよ。人間たちが獣と戦い、大自然の脅威と戦っていた時代には。男たちの蛮勇は、人類の存続の役に立った。けれど、科学技術が進歩した現在でもまだ、男の気質は先史時代と変わらない。女を巡って他の男と戦い、戦利品である女を支配しようとする、時代遅れの生き物なのよ」
男の端くれであるぼくは、迂闊に反論もできず、黙って聞くしかない。
確かにぼくだって、他の誰かがリリーさんに手出ししようとしたら、我慢ならないと思うが……
ああ、そんなことになる前に、早く一人前にならなくては。リリーさんが他の男に笑いかけることすら、耐えがたい。
『あたしに手を出してくれる物好きな男なんて、どこにもいやしないのよ。きちんとデートに誘ってくれたのは、ミカエルだけ』
とリリーさんは笑っていたけれど。
「……小さいうちは、母親に甘える恐がりの弱虫だけれど、思春期を迎えると怪物化して、心も肉体も武装してしまう。そして、やわな心を自分で圧殺してしまう。そうしないと、他の男たちに負けてしまうから」
それはぼくも、周囲の人間たちを見ていて理解している。川原で乱闘騒ぎを起こした青年たちも、連れの娘たちの手前、強がり通すしかなかったのだろう。内心では、愚かだと感じる気持ち、ひるむ気持ちがあったとしても。
「強がりは、男の病ね。病んだ男たちに任せておいたら、無駄に張り合って、世界はどんなひどいことになるか」
それはもう、歴史が十分に証明した、と麗香さんは言う。
「おっしゃる通りです……」
ぼくが肩をすぼめて言うと、麗香さんは楽しげに微笑む。
「ミカエル、あなたには知恵があると思っているから、こうして話をしているのよ。あなたがリリーを敬愛していることは、正しいわ。これからもっと知恵を深めて、あの子の助けになってちょうだいね」
「はい、それはもう……」
期待してもらっているなら、それには応えたい。五年で死ぬはずだったぼくが、こうして生き延び、愛する女性にも巡り逢えた。奇跡のような幸運だ。絶対に、無駄にはしない。
ただ、ここまでの話のうちに、ぼくには強く感じられるものがあった。地球を出てきた移民団の第一世代のうち、生き残りが麗香さんただ独りというのは、おそらく、幸運でもなければ偶然でもない。
この人はおそらく、邪魔になる男たちを、時には女をも、幾度も始末してきたのだ。あらゆる手段を使って。
そうして、自分一人が一族を統率する体制を作り上げた。洗練されているから悪目立ちはしないが、完全な独裁体制だ。
一族の第二世代以下の者たちは、全てこの人の監視下にある。リリーさんたちの祖父母の世代も、親の世代も全て。
その中から反逆者が出そうな場合、この人は、事故や事件を装って、そういう者たちを未然に排除してきたに違いない。
リリーさんからは『不運な事故や、他組織との抗争で死んだ』という親族の話を聞いていたけれど、それが本当に事故や戦死だったのかは……追及しない方が良さそうだ。
それだからこその、現在の結束……
一族を挙げて〝リリス〟の後援をしながら、そのことは外部に少しも漏らしていない。
恐ろしいと思うよりも、納得の気分が強かった。それでこそ、リリーさんが敬愛する最長老。〝連合〟が、この人の率いる一族に手を出せないのも、それだけの対策を、この人が講じているからに違いない。
「……だから、女が力を持たなくてはいけないの。わたしが一族を指導する立場から降りていないのも、現役の総帥を女に任せているのも、そのためよ。正義の味方も、女でなくては務められない。そして、そのことがわかる男なら、女の補佐が務められる……。ミカエル、あなたには、わたしの言うことがわかるわね?」
ぼくは背筋を伸ばして答えた。
「はい、よくわかります……話して下さって、ありがとうございます」
現役世代の総帥であるマダム・ヴェーラの補佐は、夫のヘンリー氏が行っているそうだ。
ぼくに望まれているのも、そういうこと。リリーさんが自由に動けるように、裏であらゆる工作を引き受ければいいのだ。リリーさんが知ったら、眉をひそめるようなことでも。
奴隷として暮らしてきたぼくには、人間の暗黒面がよくわかる。市民社会の欺瞞も見える。だからこそ麗香さんは、何日もかけて、一族の歴史を語ってくれたのだ。
(すごい人に預けられたんだな……)
と、しみじみ思う。麗香さんの人生は、辺境の歴史そのものだ。背後にこの人がいるからこそ、〝リリス〟も縦横無尽に活躍できる。
そして、麗香さんの率いる一族の内情を知った今、ぼくがリリーさんから離れようとすれば、この人に記憶を抜かれる、あるいは抹殺されるということも、よくわかった。
もちろん、自分から離れるつもりなど、これっぽっちもないから、余計な心配だ。
市民社会を捨ててよかったと、心底から思う。リリーさんのために使ってこそ、ぼくの能力が生きる。腕力や胆力はないが、頭脳労働ならばできるから。それに、基礎的な体力ならば、これからきっと、鍛えていけるだろう。
***
薔薇の花園に囲まれた屋敷の地下には、何層にもわたる広い研究施設があった。二日や三日では、一部しか見学できないほどだ。麗香さんはそこで、好きな研究をしているという。
テーマは色々あるが、中心はどうやら、超人類を誕生させる研究のようだ。
普通人より優れた肉体、高い知能。
もちろん他組織でも、似たような研究に力を注いでいる。中央の市民たちは、現在の自分たちに満足しているかもしれないが、辺境の野心家たちは、更なる進化を望んでいるのだ。
不老不死、超人化、超越化。
彼らの最終的な願いは、神になることか。
そして、自分の思い通りになる、新たな宇宙を創造する? その世界に君臨して飽き足らなければ、また次の宇宙を創る? それを、永遠に繰り返す?
ぼくにはまだ、そんな遠大な夢は持てない。今はとにかく、リリーさんの役に立つ補佐役になることだ。リリーさんがいてこそ、この世界に意味がある。
様々な機器や薬品類の揃った研究室を見せてくれながら、麗香さんはさらりと話す。
「一族の者には皆、その時点で最高の強化や改造を施してきたわ。でもね、ミカエル、あなたの知能もたいしたものよ。生まれてわずか数年で、人間たちを出し抜けるようになったのだから。あなたとヴァイオレットが、二人してリリーの補佐をしてくれたら、怖いものなしね」
ぼくとしては、そう願っているが。ヴァイオレットさんからは『殺意に近い敵意』を感じたなどと、この人に言っていいものか。
それとも、麗香さんには、そんなことは全てわかっているのだろうか。
「わたしも、あなたには期待しているのよ。これまでリリーが欲しがった、ペットみたいな男たちより、あなたの方が、はるかに見込みがあるもの」
それは、ぼくなら『汚れ仕事』も引き受けられる、という意味だろう。既に数百人の命を奪っているのだから、この上、躊躇することはないだろうと。
その通りだ。
好きで殺人ウィルスを撒いたわけではないが、そのことを悔やんではいない。ぼくたちを奴隷にしておけると考えた人間たちが、愚かだっただけのこと。
バイオロイドは人間の改良種なのだから、いくら知識や行動に制限を課しても、いつかはどこかで反逆が成功する。それがたまたま、ぼくたちだっただけ。
もし、できるものなら、いつか、自由を求めるバイオロイドたちの反乱を手助けしたい……最終的には、新たなバイオロイドが製造されなくなることが一番だ。
いや、それとも、製造そのものは構わないのか? 彼らに、人権が保障されるのなら。『より優れた種を創りたい』という科学的好奇心は、止められないのかもしれないから……
***
「今日は、保管庫を見せてあげましょう」
紫のワンピースを着た麗香さんの後について、地下への階段を降りていくと、厚い二重の扉があった。その向こうに広がる区画には、失敗した実験体が透明カプセルに入れられ、何百体も冷凍保存されている。
「気分が悪くなったら、引き返しても構わないわよ」
そう予告されたことで、腹に力が入った。せっかくの機会、逃げたりせず、しっかり見なくては。
入口あたりでは、ほとんどが動物だった。類人猿や齧歯類、大型の鳥、イルカ。犬もいれば、猫もいた。これらの動物には、人間が使役しやすいよう、知能強化を施したのだという。
「わたしが行った中では、犬の知能強化が一番成功したわ。犬は社会性が高くて、人類と共存してきた歴史が長いから、人間の文化に馴染みやすいの。いずれ、あなたにも実例を見せてあげます。人間を超えるほどに成長したのは、その中の、たった一例だけだけれど」
犬が人間以上に?
そんなことも、あるのか。自由に使える手がないだけでも、相当な不利だろうに。
ああ、でも、それは他の手段で補えるのか。たとえば、アンドロイド兵士を手足として使役すれば。
冷凍カプセルが並ぶ通路を進んでいくと、また扉があり、その奥には、人間に近い生き物が並べられていた。いや、きっと人間の変種なのだろう。
歴史で習った原人のような、骨太で体毛の濃い人間。逆に、透き通るような肌をした、細長い体格の人間。濃紫色の皮膚をした人間。赤い肌をした人間。
思った通りの性質が発現しなかったから、失敗作として永眠させられているのか。それならば彼らにとって、麗香さんは残酷な創造主だ。
中には、普通の人間にしか見えない人々もいた。たとえば、長い茶色の髪を白い肩の横で束ねた、若い女性。顔立ちは愛らしく、二重の透明蓋を通してみる限り、少し、ヴァイオレットさんに似ている。
まるで、王子さまが起こしにくるのを待っている、白雪姫のようだ。いったい、どんな理由があって、冷凍にされているのか。
「この娘は、少し事情があって、ここで眠らせているの。いずれ、あなたがわたしの助手として落ち着いたら、話してあげられると思うわ」
部外者には知りえない事情を教わるというのは、嬉しいことでもあるが、重い責任を引き受けるということでもある。ぼくに、そんな力があるだろうか?
いや、弱気はいけない。リリーさんのためになることなら、何でもすると自分で誓ったではないか。
整った顔立ちの、筋骨たくましい若い男性もいた。五、六歳くらいの幼い子供もいる。かと思うと、初老の男女もいる。
「この人たちも、改造体なのですか?」
「ええ、まあね。それぞれ事情があって、ここで保管しているの。よく見ておいて。いつかあなたが、彼らを起こして、使う時が来るかもしれないわ」
起こして、使う? それぞれに過去があり、想いがある人々を?
リリーさんが聞いたら、怒るのではないだろうか。いや、きっと怒る。勝手に冬眠させたり起こしたりするなど、あまりにも傲慢、身勝手だと。
ということは、麗香さんはこの場所を、リリーさんやヴァイオレットさんにも秘密にしているのではないだろうか。
ぼくは段々、リリーさんに話せないことが多くなってしまうようだ……それが補佐役の重荷なら、仕方ないけれど。
なまじ人間に近いために、逆説的に、怪物と呼びたくなるような者もいた。青い皮膚が、蛙を思わせるようなヒューマノイド。カブト虫のような装甲皮膚を持つ、二足歩行のヒューマノイド。頭足類と機械が融合したような生物。
「野放しにすると危険な実験体は、捕獲して冷凍しておくのよ」
「捕獲ということは、既に外界で暴れていた、ということですか」
「まあ、そういうことね。研究施設を破壊して脱走したような、知能が高くて、なおかつ人類と共存できない生き物たちよ」
しかし、それを捕獲できたのだから、今はまだ、人類の側が優勢だということだ。
でも、いつかは、人類を滅ぼすような実験体が誕生するかもしれない。そうなったら、自業自得……ということだろうか。
身長より大きな、猛禽類の羽根を生やした人間もいた。昔の宗教画なら天使というところだが、実際に見た場合は、グロテスクな怪物としか思えない。屋内生活で、こんな羽根は邪魔なだけだろう。空を飛びたいなら、飛行機械を使えばいいのだし。
その他にも、悪夢に出てくるような奇妙な生物が、延々と続いている。
彼らがどのような精神を持っていたのか、どんな経緯で冷凍にされたのか、外見からは何もわからない。冷凍カプセルの台座には、記号や番号、簡単な説明が記されているだけだ。詳しい記録は、別にあるのだろう。
「ここの実験体は全て、麗香さんが改造したのですか?」
口に出しては非難できないが、これでは、マッドサイエンティストと言われても仕方ないだろう。
それでも、数百年の研究の中で、保存する価値のある実験体だけが残されているらしい。通路の少し先で振り向いた女性は、微笑んで平然と言う。
「そうとは限らないわ。半分くらいは、他組織の実験体を捕獲したものよ。後先を考えず、無茶な実験を繰り返す組織も多いから。こちらが知りえた時点で、介入して事態を収拾するわ。後は、系列組織での研究ね」
麗香さんの手になる実験体は一部と知って、多少はほっとする。かなりの部分、悪趣味な改造としか思えなかったから。
「もしも、後から必要になったら、蘇生させればいい。でも、滅多に蘇生させることはないわ。こういう実験体は、すぐに時代遅れになってしまうから」
異形かもしれないが、まだ生きられる命を、一方的に凍らせてしまうのだ。普通の市民が見たら、悪魔の研究だと非難するだろう。
しかし、麗香さんは確信犯の冷静さで言う。
「実験というものは、してみなければ、何が生まれるかわからないの。一見、無意味な改造と思えたものが、後で大きな分野に発展することもある。実験に使った命には悪いけれど、とことん試してみたいのが科学者なのよ」
それは、わかる。ぼくだって、こんな研究をしてみたいとか、この分野をもっと知りたいとか、思うことがあるから。
ただ、実際に『禁断の研究』にのめり込むかどうかは……わからない。とにかく、市民社会にいては不可能だった。
ぼくだって、そういう研究の産物だ。新しい生命の創造が、絶対に悪いとは言えないだろう。怖さは感じるが、魅惑も強烈だ。リリーさんが嫌がるようなら、しないけれど……それとも、こうやって、秘密にしたまま実験できるものだろうか?
「わたしが自分自身に施した不老処置も、猿やラットを使った実験の蓄積がなければ、成功しなかったわ。最終的には、志願者の老人を被験者にしたの。余命わずかとわかって、本人が、もう失うものはないと覚悟を決めたから」
それは、地球時代の終わり頃の話らしい。
「その人は、どうなりました?」
「遺伝子組み込みが成功して、若返りが始まったわ。だから、わたしが次の被験者になったの。ただ、彼は航行途中の事故で死んでしまったから、長期のデータは取れなかった。一番長いデータが取れているのは、わたし自身ね。辺境に落ち着いてからは、新しく生まれる子供たちに、それぞれ遺伝子強化を施していったわ。失敗して死んだ子もいたけれど、多くは生き延びて、わたしの研究に役立ってくれた」
自分自身を実験台にした人には、もはや禁忌も恐怖もないのだ。あるのはただ、無限の探究心のみ。
「言っておくけれど、ミカエル、誰にでも見せる場所ではないのよ」
気味悪いほど、優しい笑みで言われた。
「これまで、ほんの数えるほどの人間しか、ここには入れていないわ」
やはりだ。
「それじゃ、リリーさんたちは……」
「ええ。リリーもヴァイオレットも、ほんの一部を見ただけです。一族内でも、ほとんどの者には用のない場所だから」
ぼくは改めて、身を引き締めた。
「わかっています……余計なことは、一切しゃべりません」
特に、冷凍された何十体もの胎児の存在は、リリーさんには言わない方がいいだろう。無駄に、優しい心を痛めるだけだ。
リリーさんのような『完璧な強化体』が誕生するまで、どれだけの命が闇に葬られたとしても、それをリリーさんが身に負って、苦しむことはない。既にいま、人々のために、進んで苦労を負っているのだから。
ぼくもまた、沢山の実験の果てに製造された命の一つだ。本当なら今頃は、跡形もなく処分されていたはず。ぼくを覚えていてくれる者も、惜しんでくれる者もいないまま。
屋敷の地上部分に戻ると、ほっとした。テラスから見渡す薔薇の庭園は、別世界のように穏やかだ。そよ風には、桃のような甘い香りが混じっている。
(地面の下に、あんな墓所があったなんて……)
これまでは地下を知らなかったから、二階に与えられた部屋で安眠できたのだ。今夜から、悪夢にうなされるかもしれない。もし、何か予想外の出来事あったら、ぼくもまた用済みになり、あの冷凍カプセルの群れに加えられてしまうかもしれないのだ。
ぶるっと身震いが出た。
不吉な想像は、しない方がいい。そんなことにならないように、何でも学んで、強くなるのだ。何がリリーさんの役に立つか、わからないのだから。
***
翌朝のことだった。白い薔薇の飾られた朝食のテーブルで、濃紺のワンピースを着た麗香さんが言ったのは。
「ミカエル、あなたはまだ、違法都市を知らないでしょう。勉強のために、行ってみましょうか」
その通り、ぼくは確かに辺境生まれだが、自分が創られた培養工場と、そこから移送された研究基地しか知らないままだった。あとは、逃亡の旅で、遺棄された古い基地に立ち寄ったくらい。
「嬉しいです。是非、見学したいです」
すると、荷物は何も要らないから、食事を終えたらすぐ出発すると言われた。上着だけ取ってくると、屋敷の玄関に、アンドロイド兵士の運転する車が待っていた。ぼくと麗香さんを乗せると、車は緑の中を走り出す。車が通れる道路は一本きり。薔薇色と灰色の石造りの屋敷は、すぐ緑の彼方に遠ざかる。
岩盤に穿たれた長い連絡トンネルをくぐり、小惑星の外周桟橋から船に乗せられた時は、てっきり、すぐ近くにある《ティルス》に行くのだと思っていた。それなら、一時間もかからず着くはずだし、麗香さんの一族が支配する都市なのだから、危険もそれほどないだろう。
けれど、船は途中で五、六隻の護衛艦に取り巻かれた。そしてこのまま、はるか離れた《アヴァロン》へ向かうというではないか。片道、一か月はかかる旅になる。
ぼくは不安を感じ、ゆったりラウンジに落ち着いている麗香さんに尋ねた。
「あのう、そこは、最高幹部会のお膝元ですよね?」
〝連合〟の中核を成す六大組織――その最高幹部十二名が定期的に集まり、会合を開く場所として知られている。
会合が開かれる都市は他にもあるが、六大組織の系列に連なる有力組織は全て、《アヴァロン》に拠点を置いているという。上級の組織の隙間を狙って、野心的な中小組織も活動している。つまり、辺境でも指折りの大都市。
「そんな所へ行って、危険はないのですか? 麗香さんの一族は、〝連合〟から警戒されているのでしょう?」
歴史の古い組織であるにもかかわらず、〝連合〟に参加しようとしないからだ。そういう頑固な有力組織は、他には、数えるほどしかないと聞いている。
けれど、麗香さんはいつも通り、優雅に微笑むだけだ。
「危険はあるわ、常に。だからといって引き籠もっていたら、時流に遅れて、ますます危険が増してしまうでしょう?」
そういう考えか。さすがは、リリーさんの師匠。
「ミカエル、あなたはね、なるべく多くの場所を見ておくべきなのよ。そして、辺境で生き延びる勘を養っておくの。それがいずれ、リリーの役に立つことになるわ。《アヴァロン》に着くまでにも、途中の違法都市を見せてあげます」
「わかりました。よろしくお願いします」
教えられることは、何でも吸収しよう。リリーさんのために、この人から学ぶことがたくさんある。昔の賢人が言ったように、『明日死ぬ覚悟で今日を楽しみ、永遠に生きる覚悟で学び続ける』のだ。
***
船旅の間も、毎朝の投薬は続いていた。三日に一度は、色々な検査も受けている。治療の方針についても、説明を受けていた。麗香さんはぼくの遺伝子解析を進めていて、最適な改変をシミュレーションしてくれている。
それについてはもう、全て任せて安心していた。ぼくなんかより、はるかに高度な知識と技能を持っている人だと納得したから。
麗香さんは、他にも色々なことを教えてくれた。各組織の力関係や、有力な幹部たちの個人情報。違法都市の成立過程や特色。船や武器に関する、最新の研究情報。
艦隊戦の戦闘シミュレーションもさせてくれた。基地攻略の基本も教えてくれた。まるで、軍の士官学校にいるようなものだ。
「あなたは理解が早いから、教えるのは楽だわ」
と言われたので、少しはほっとする。途中で麗香さんに見捨てられたら、ぼくには行き場がない。
ただし、戦闘の実技訓練はほとんどなかった。課せられたのは、装甲服を着ての行動訓練と、小型艇の操縦くらいのものだ。あとは、船内のジムで健康を保つ程度の運動をしていればいい、と言われた。
「あなたには、参謀役が務まればいいの。実際の戦闘は、他の人間に任せておけばいいのよ」
まあ、将来はともかく、今のこの細腕では、重い銃を振り回すこともできないから、それでいいのだろう。
旅の間、リリーさんとの連絡は一切とれなかった。リリーさんとヴァイオレットさんは、既に司法局の任務に就いているようなので、こちらからの連絡は邪魔になる。また、こちらの存在や行動を〝連合〟側に知られるのも困る。
かろうじて、リリーさんが使うダミー組織経由で、メッセージを届けられただけ。返答はないので、そのメッセージが、本当に届いたかどうかもわからない。
「あの子たちは、あの子たちにできることをしているわ。だからミカエル、あなたはあなたにできることをしておくのよ」
と麗香さんは言う。
「はい、わかっています」
一族の最長老がわざわざ、ぼくのためにこれだけの時間を割いてくれているのだから、文句などつけられるわけがない。
麗香さん自身は、ぼくに教える時間の他は、ぼくの治療方針を検討したり、プールで泳いだり(豪華客船並みの贅沢だ)、紅茶を飲みながら趣味の読書をしたりして、静かに過ごしていた。
毎日、落ち着いた色彩の丈長のワンピースを着て、耳には真珠のイヤリングを下げ、優雅な貴婦人というたたずまい。
時には、ぼくと一緒に厨房に立ち、ケーキの焼き方や、肉の調理法、サラダの作り方などを教えてくれる。リリーさんの好きな料理は、ぼくも作れるようになっておきたい。
海老のにんにく炒め、ベーコンとトマトのパスタ、海鮮ピラフ、豚肉とブロッコリーの炒め物、煮込みハンバーグ、塊肉を使ったポトフ。
ヴァイオレットさんは料理が得意だというから、ぼくも、遜色ないような腕前になりたい。あの人をライバルと思っているわけではないが……いや、思っているのかな。
少なくとも、たぶん……恋敵ではある。
ヴァイオレットさんがリリーさんに対して抱いている気持ちは、単なる友情や、家族愛だけではないだろう。
違法都市で育ったヴァイオレットさんには、他に、心を寄せる相手がいなかったのだ。リリーさんがまた、そこらの男より行動的で頼もしかったわけだし。
それにしても、麗香さんは不思議な人だ。ぼくに見えない部分で、一族に指示を下したり、部下に命令を与えたりしているのだろうけれど、忙しい様子は見えないし、船内には、灰色の皮膚をしたアンドロイド兵士とアンドロイド侍女以外、誰もいなかった。人間の部下が周囲にいなくて、用は足りるのだろうか。
麗香さんの本当の仕事ぶりは、ぼくには何もわからない。護衛として随行している他の艦内には、人間の乗員がいるのかどうかもわからない。尋ねたけれど、気にしなくていいと言われただけ。
たぶん、ぼくのような新参者には教えられないことが、たくさんあるのだろう。
(いつか、あれもこれも、わかるようになるのかな)
ぼくがもっと賢くなり、役に立つようになったら、あれこれと手伝うことができるかもしれない。早く、そういう日が来ればいい。みそっかすのままでいるのは、落ち着かないから。
***
幾つかの違法都市に立ち寄り、街を歩いたり、ドライブしたりした。都市ごとの運営方針の違いもわかった。都市を所有する組織によって、管理が厳しかったり、猥雑だったりする。
猥雑が悪いわけではなく、むしろ活気があって、違法都市としては望ましいのかもしれない。
そうして密度の濃い船旅をした後、ぼくたちは違法都市《アヴァロン》に到着した。多くの艦船が標識灯や信号灯を光らせながら出入りしているので、小惑星近辺の眺めは壮観である。
長い連絡トンネルを車で抜けると、巨大な回転体の内側に出た。小惑星の岩盤に守られた広大な都市空間の中に、三百万人を超す人間とバイオロイドが暮らしているという。
護衛や雑役のためのアンドロイドは、その十倍はいるはずだから、動く人影は三千万になるだろう。
それでも、土地面積が広大なので、全体としては森閑として感じられる。大型ビルが連なる複数の繁華街も、遠くからは、大海に散った小島のようだ。
車で走る一G居住区は、見渡す限り、緑の丘陵地帯だった。物理的な制約があるので、山や海は作れない。森と野原、川と湖の繰り返し。
ただし、緑地のあちこちに建物が散っている。ピラミッド型のビル、ドーム型の施設、古城のような建物。それぞれが一つの町のように大きいが、敷地面積が広いから、遠目には小さな点にしか見えない。
季節は、地球本星の北半球に合わせた早春だった。風はまだ冷たく、道路脇の緑地には水仙や梅が咲いている。
そういえば、麗香さん愛用の香水は梅花香だ。甘いけれど、しんと冷たく冴えた香りは、この人の高貴な雰囲気に相応しい。リリーさんには濃厚な百合の香りが、ヴァイオレットさんには可憐な菫の香りが似合っていたように。
「ここが、一番の繁華街よ」
と案内された区域では、八十万人近い人々が暮らすという。ピンク色の砂岩風の外壁で統一された美しいビル群が特徴で、ローズシティと呼ばれるくらい、たくさんの薔薇が植えられていた。
広場、公園、大通り、ビルの屋上庭園。
あらゆる場所に白やピンク、オレンジや黄色、赤や紫、薄青の薔薇が植えられている。四季それぞれ、異なる品種の花が咲き続けるとか。
もちろん、変装なしでは上陸できないが(ぼくの顔と名前は、〝リリス〟に関わる死亡者として、広く報道されてしまった)、ワイン色のドレスを着て、ヴェール付きの帽子をかぶった麗香さんは、簡単に言う。
「ミカエル、あなたはバイオロイドとして標準的な容姿だから、わたしの小姓のふりをしていれば、誰も注目しないわ。髪の色だけ変えておけば、大丈夫よ」
確かにぼくの顔は、個性に乏しい人形顔。違法都市の市街では、少しも珍しくない小姓タイプだ。それで、船旅の間に、髪だけを金色に染めていた。その上で、いかにも小姓らしい紺のスーツを着た。襟元には、青いビロードのリボンタイ。
リリーさんとヴァイオレットさんも整形嫌いのため、しばしば、髪だけ染め変えて行動するそうだ。女性の場合は、化粧や髪型でだいぶ印象が変わるから、それで済むのだろう。
リリーさんのあの顔が、本当の顔でよかったと思う。あの高貴な美貌が、リリーさんの性格を一番よく表していると思うから。
麗香さんとぼくは、中型の武装トレーラーに乗っていた。前後に小型の護衛車両が付いているが、お供はアンドロイド兵士の部隊だけ。
麗香さんは平然としているが、こちらはいささか不安である。何かあったら、ぼくの判断でこの人を守れるだろうか。アンドロイドというのは、適切な命令なしでは役に立たないと、リリーさんから聞いている。
もちろん、麗香さんは辺境の大ベテランだし、あちこちに私有艦隊や、一族の者たちを配置しているから、困ったことは起きないと思っているのだろうけれど。
車から降りないまま、最大の繁華街を一巡りした。ビルとビルが巧みに連結されているので、外気に触れずに街を一周できるという。繁華街は複数あるが、センタービルのあるこの区域が一等地らしい。
目立つ建物について、麗香さんが説明してくれた。
「あの、一際高いのがセンタービルよ。市役所とホテルが一体になったようなものね。都市の警備部隊の詰め所でもあるわ。安全な中立地帯だから、組織の代表同士の会合とか、同業者のパーティに使ったりするの」
他都市にもあったが、ここでもまた、都市の中枢として、わかりやすい威容を誇っている。各階層に緑を配したバルコニーがあるから、巨大な岩山のようだ。
「低層階なら誰でも入れるけれど、中層から上は選ばれた人間だけ」
辺境は、厳密な身分社会なのだという。組織の大きさ、その中での地位などで、自然、序列が定まるらしい。道ですれ違う時でも、駐車場を利用する時でも、格下の者が遠慮する。自分と相手の地位の差がわからないようでは、長生きできないらしい。
「あちらは《エンプレス・グループ》の直営ホテル。ティアラの紋章があるでしょう。ある程度の地位がなければ、ロビーにも入れないわ。格式が高くて、値段も高いの。その代わり、安全だけど」
大組織の経営する施設は、利用者を選ぶらしい。値段と安全度は比例する。
「向こうのドームは、兵器の展示場。五本爪の龍の紋章は、《黄龍》の印よ。ありとあらゆる武器が買えるわ。もっとも大組織は、最新鋭の武器は自分たちで使うから、売りに出すのは、旧型のものばかりね」
今日一日だけでも、頭が一杯になるほど、学ぶことがある。
途中、ビルの一つに立ち寄り、麗香さんが貸し切りにしてくれた中華料理のレストランで食事をした。料理はもちろん最高級だ。
市民社会にいる間、再教育施設でも、科学技術局でも、ぼくは十分美味しいものを食べていると思っていたが、上には上があるとわかった。麗香さんの屋敷でも、素晴らしい食事をさせてもらっていたが、あれはあくまでも家庭料理であって、店で出す料理というのは、また違うものなのだ。
それでも、超高級という店ではないから、二時間くらい占有しても、問題はないとか。一族の所有するダミー組織が経営している店だから、安全なのだそうだ。
毒殺というのは違法都市でも滅多にないそうだが、それでも、安全が確認できるものでなければ、口にしないのがルールだと教わった。リリーさんたちも、きっとそういう用心をして過ごしているのだろう。
その店へも、地下駐車場から直通エレベーターを利用して往復したので、他人に姿を見られてはいない。違法都市では、常にこういう用心をしないといけないのだ。
「人に見られないよう動くのなら、変装の意味も、あまりないですね?」
「まあ、大抵はね。でも、何か予想外のことが起きるかもしれないから、一応、用心はしておくべきよ」
アクシデントがあって、路上で車から降りる羽目になったり、徒歩で繁華街を歩くことになったりするかもしれない。
金髪に染めておいてよかった、と思う事態が来ないことを祈る。
ゆっくりとお茶を飲んでから車に戻り、ビル群を離れた。あとはひたすら、丘や森が続く緑地帯である。
緑の中に点々と大型の建物が見えるのは、有力組織の拠点だ。許可なく敷地に踏み込んだら、ただでは済まない。自動狙撃されるか、落とし穴で捕獲されるか。
陸地の面積が広いから、いったん繁華街や幹線道路を離れてしまうと、樹海のような深い森林地帯になってしまう。
生態系は豊かで、狼や猪、鹿や熊、小型の豹などもいるそうだ。猛禽類が、はるか頭上を飛んでいる姿も見える。他の車とすれ違うことも、たまにしかない。ましてや、徒歩で移動する者などほとんどいない。
繁華街の近くに、遊具を備えた公園があっても、遊ぶ子供の姿などないのが当たり前。違法都市にいる子供は、普通、使役されるバイオロイドだけだ。公園にはたまに、警備犬や愛玩犬を走らせる、護衛付きの人々がいるくらい。
「今度は、船に乗りましょうか。たまに使う持ち船があるの」
つい、ため息をついてしまう。
「何でも持っているんですね……」
麗香さんは、にっこりする。
「それが、長く生き延びている、ということよ」
林道を走り抜けた車は、広い湖に面した駐車場に入った。三、四キロほど離れた対岸には、ホテルや個人の邸宅らしき建物が点在している。湖は左右に細長く延び、端は岬の向こうになっていて、見渡せない。
ぼくたちは車から降りて桟橋を歩き、停泊している中型クルーザーに向かった。優雅で機能的な船だ。
桟橋には、他にも三、四十隻のクルーザーが並んでいて、有力組織の幹部たちが、接待や気晴らしに使う船だと説明された。
人間たちは、優雅なバカンスを過ごしているのだ。大抵のバイオロイドには、休暇もなければ給与もないのに。
――眠るためのベッドと数枚の衣類、ちょっとした文具。バイオロイドが私有できるのは、その程度のもの。
それに不満を感じる頃になれば、生存期限が間近に迫っている。不満を態度に表せば、処分の日が早まるだけ。
夕方近い湖上には、身を切るような寒風が吹き渡っていたが、身震いが出たのは、自分の過去を思い出したからだ。
人間たちに仕える奴隷。いちかばちかで脱出する計画を立てなければ、命はなかった。
賭けてよかったのだ。それもこれも、人間たちが慢心し、緩みきっていたからこそ。
ぼくは絶対、油断したり、慢心したりするものか。愚かな人間たちの真似は、決してしない。これからは、リリーさんの命を守るという使命があるのだし。
複数の客室を持つクルーザーには、留守番のアンドロイド侍女がいて、お茶の支度がしてあった。余計な挨拶はなく、無言のまま給仕がなされる。ケーキやサンドイッチの盛り合わせ、シナモンで香りをつけたミルクティ。
強化窓に囲まれた展望ラウンジは暖かで、心地よかった。外の景色を眺められるソファコーナーに、麗香さんと向かい合って座り、行き届いた世話を受ければいいだけ。
アンドロイド兵士が操船して桟橋から離れ、ゆったり湖上を渡っていった。岸辺に見えるあの建物はホテル、どこの幹部の屋敷と、お茶を飲みながら麗香さんが説明してくれる。
「乗り物で移動してばかりだと、運動不足になりますね」
船内ではジムで軽い運動をしていたが(いずれは、リリーさんを抱き上げられるようになりたいから!!)、本格的な運動は病気が完治してから、と言われている。
「今夜はこの船で泊まって、明日は、どこかで散歩の時間をとりましょう」
船はやがて、湖から流れ出る幅広い川に入り、別の湖を目指した。この《アヴァロン》には全部で十七の湖があり、塩湖の二つを除けば、全て水路でつながっているそうだ。土地の高低差はほとんどないから、人工的に水の流れを作り出しているという。
川は牛や馬がいる牧場の真ん中を通ったり、深い森の中を蛇行したり、幹線道路の一部である長い橋の下をくぐったりした。
幾度かは、他の船とすれ違う。商談なのか、展望室の中で談笑する男たちの姿も見えた。ぼくとよく似た少年のバイオロイドが、飲み物の盆を持って控えている。
あの子の命は、あと何年だろうか? 毎日、何を思って働いているのだろう?
ぼくの視線を捉えたのか、麗香さんが言う。
「この世界を変えるには、長い時間がかかるわ。焦らなくてもいいの。あなたはまず、健康体になることよ」
「はい……わかっています」
そうしているうちに、隣の湖に出た。ここでも緑の深い湖岸に、ちらほらホテルや邸宅が並んでいる。
人工の日照が薄れ、夕闇が深まってきたので、建物の明かりがはっきりと輝きだした。暗い湖面に、その光が映って美しい。パーティか会議でもあるのか、車が多く出入りしている建物もある。
ところが、その明かりを覆い隠すかのように、白い霧が流れてきた。すぐに冷たい雨が降りだして、湖面を叩く。無数の波紋が広がった。リリーさんが一緒だったら、こういう寒々しい景色も、風情がある、と思えるだろうに。
「まるで、世界にぼくたちだけみたいですね」
湖岸は霧で見えなくなり、船は本降りの雨に包まれている。
「そうね。今夜はここで過ごしましょう。明日にはまた、晴れる予報だから」
ぼくは何の疑いも持たず、食堂で麗香さんと向き合って、手の込んだ懐石料理を食べた。それから、快適な船室に案内され、大きなベッドで眠った。外は氷雨でも、船の中は暖かい。
安心して、リリーさんの夢を見よう……
リリーさん、貴女にも異変はないですよね。ほんのしばらくだけ、待っていて下さい。ぼく、早く一人前になりますから。
天使編5に続く
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