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恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 天使編』2

天使編2 4章 ミカエル


ぼくは、自分が恋愛をするとは思っていなかった。誰かに『憧れる』なんて、そもそも無理だ。ほとんどの人間は、ぼくより愚かなのだから。

人間が猿に憧れたりしないように、知能強化型バイオロイドが人間に憧れることもない。

違法組織にいる間は、仕事に必要な科学知識しかなかったが、市民社会に亡命してきてからは、一般教養も身につけた。それこそ、一般人に向かって歴史の講義ができるくらいに。

《ルーガル》の基地を脱出する時、二百人以上の人間とバイオロイドをウィルスで殺したことも、悔いていなかった。

せっかくこの世に生まれたのだから、もっと生きたい。そう願って、何が悪い。ぼくらが高い知能を持つように設計したことが、人間たちの間違いなのだ。

それでも、今は……

リリーさんには、ぼくが『人間殺しの反逆バイオロイド』だと知られたくない。せめて、今日のうちだけは。

ぼくはリリーさんと、無人の地下トンネルを二キロ近く歩いた。水道管や電力ケーブル、通信ケーブルや配送システムが分岐を繰り返す、地底の迷宮である。

いくら照明があっても、一人だったら不気味に感じただろうが、リリーさんがいることで、珍しい探検という感じになっていた。この人と一緒なら、どんな闇にも太陽の光が射すだろう。

なぜわざわざ、地下を移動するのか尋ねたら、

「さっき、大人げないことしてしまったからね」

という返答だった。リリーさんは、目立つことをしてしまった、と後悔しているらしい。でも、ぼくにとっては幸運だった。おかげで、この人の存在を知ることができたのだから。

歩きながら、リリーさんが郷里の星では警官であること、今は従姉妹と一緒に、この星に遊びに来ていることを聞いた。その従姉妹は今日、別行動だが、夕食時にはホテルで合流して、紹介すると言われた。つまり、夜までは一緒に過ごしてもらえる。あと、八時間か九時間のこと。

ああ、一秒ずつが勿体ない。砂時計の砂粒が、全て宝石でできている気がする。

――後からわかったことだが、この時、既に、川原の花見客たちから噂が広まっていた。大の男を軽く投げ飛ばした女性は、戦闘用強化体に違いないと。そして、何千人ものファンが連絡を取り合い、リリーさんの行方を追っていた。サインや握手をねだるために。

ぼくだって普段なら、すぐにわかったはずだ。常人を超える腕力の持ち主で、しかも、そのことを公衆の前にあっけらかんと披露する人物が、司法局のお抱えハンター〝リリス〟の他にいるはずないと。

けれど、この時は既に甘い蜜の中に落ちていて、まともな思考力が働いていない。考えずに、ただ感じるだけ。

ぼくらは地下トンネルを通って、ファンたちの捜索網を抜け、目立たないレンタル車を呼んで、首都を離れたのである。

***

青空の下を走る車の中で、まだ陶然としていた。

リリーさんの隣にいる幸運が、自分で信じられない。まさか、夢を見ているわけではないだろうな。目が覚めたら、脳の手術の後で、病院のベッドの上だとか。

けれど、リリーさんは車を運転しながら、機嫌よく話しかけてくる。

「今日は寒くないから、ちょっと海に行ってみようか? お昼は、魚料理がいいかもね。それから、きみのお勧めの桜の名所を回ろうか」

ぼくの身元を尋ねられなくて、よかった。尋ねられていたら、嘘はつけないから。

この気軽さは、ぼくを普通の子供と思っているからのこと。大量殺人犯だと知ったら、絶対に顔が曇る。頭では理解してくれても、心情がぼくを拒絶するだろう。

司法局の護衛たちは、ぼくが初対面の年上の女性とドライブなんて、何事だろうと不審に思っているかもしれないけれど……特に止められないということは、問題はないということだ。この奇跡を精一杯、楽しもう。

首都のはずれから三十分も走ると、砂浜と岩場が続く海岸線に出る。陽光にきらめく海上には、何艘ものヨットやクルーザーが散っていた。首都の人々が、海遊びに来ているのだ。

「船を借りますか?」

「ううん、今日は桜がメインだから、ちょっと海岸を歩くだけ」

リリーさんは海岸の松林の手前まで車を乗り入れ、ぼくを連れて、波打ち際に降りた。風はまだ冷たいが、火照った顔にはそれも心地よい。穏やかな波が打ち寄せる浜には、遠くにちらほらと人影が見えるだけだ。

「ミカエル、これできる?」

リリーさんは平たい小石を拾って、無造作に、しかし鋭く投げた。小石は海面で何度も大きく跳ね返り、はるか沖合まで進んで、やっと水没する。水切り、という遊びだそうだ。

「すごい!」

ぼくも真似をして小石を拾い、何度も投げた。理屈はわかる。浅い角度で、水面にぶつかればいいのだ。

「そうそう、いい感じ」

もちろん、リリーさんの飛距離には遠く及ばないが、それでも平均して二回ほどは跳ね返るようになったので、満足する。

知らなかった。こんな単純なことが、こんなに楽しいなんて。本ばかり読んでいた、これまでの時間、ぼくは人生を損していたのかも。

……ううん、違うな。リリーさんといるからだ。この人と一緒なら、たぶん、蟻の行列を眺めていても楽しいだろう。

海水はまだ冷たいけれど、日差しの温かさがあるから、手を入れても平気だった。ぼくたちは岩場を探険して、潮溜まりにいる魚を観察したり、蟹を捕まえたり、綺麗な貝を拾ったりして、一時間以上を過ごした。

リリーさんといると、何をしても楽しい。ぼくは今まで、何でも一人でしてきたし、それが平気だったはずなのに。

「ミカエル、そろそろ、お腹空かない?」

「そうですね」

ということで車に戻り、海岸線を何キロか走って、魚料理を売り物にするレストランに入る。

海を見渡せる席に着いて、メニューを見るのも楽しかった。他の客たちからは見えない席だったので、貸し切りの雰囲気だ。

白身魚のマリネサラダや貝のバター焼き、海老の塩焼き、パエリヤなどの料理も美味しかったが、赤い宝石のようなサングリアを飲ませてもらったのが嬉しかった。

「お酒なんだけど、まあ、ジュースに近いから、ちょっとだけならいいでしょ」

とリリーさんは微笑む。ぼくのグラスに入れてもらったのは、確かに、ほんの味見程度の量にすぎない。

「あ、甘いですね。飲みやすい」

「ちょっとずつね」

「はい」

ぼくの精神はともかく、肉体はまだ子供である。惑星連邦に保護される前も、その後も、アルコールの摂取を許されたことはなかった。だが、どうせ死ぬのに、何を構うことがあるだろう。

サングリアは、これまで飲んだことのある、どんなジュースより美味だった。少しすると、頭がゆらゆらするようになってくる。パン籠に手を伸ばしても、距離感がうまく掴めない感じ。リリーさんが遠くに見えたり、足が地面に着かないような、ふわふわ感がしたりする。

これが、酔うということなのだろうか。だとしたら、面白い。人類が大昔から酒を愛してきたのも、納得がいく。

ただし、飲んだ量が少なかったせいらしく、デザートのケーキにさしかかる頃には、ゆらゆら感は薄れてきた。残念だ。いったんトイレに立ち、冷たい水で顔を洗ったら、だいぶさっぱりしてしまった。できたらまた、飲んでみたい気がする。

しかし、何より嬉しかったのは、リリーさんが、店の支払いをぼくに任せてくれたことである。

「美味しかったわ。ご馳走さま、ミカエル」

「どういたしまして。楽しんでいただけたなら、よかった」

「ええ、とってもいいランチだった」

普通なら、大人のリリーさんが払ってしまう場面だろうが、あえて、ぼくを立ててくれたのだ。〝男〟の役を果たせたようで、わくわくする。

車に戻ると、今度は内陸に入り込んで、桜の名所として知られる神社に向かった。何でも、地球の古い神社を模して建てられたそうだ。

去年はやはり桜の時期に、一人で(遠巻きに警備されつつ)歩いたのだけれど、まさか、デートで来られるなんて。

もっとも、周りからは、年の離れた姉弟か、叔母と甥くらいにしか見えないだろうな……

神社の周囲には広い日本庭園があり、あちこちで見事な枝垂桜が咲き始めていた。黄色い花を咲かせた、山吹の茂みもある。大きな池には見事な鯉が泳いでいて、橋を渡ると、上から魚影がよく見えた。鯉に餌を投げている観光客もいる。

二人して池のほとりの茶店に座り、池に映る桜を観賞しながら、抹茶と桜餅を楽しんだ。

大きな屋根を持つ拝殿では、鰐口をガラガラ鳴らして、お参りした。賽銭箱にコインも投げた。現代社会では支払いにコインを使うことはないが(コレクター用の記念金貨はあるそうだ)、社務所に賽銭用のコインが置いてあるのだ。昔のコインを模造したものだという。

ぼくは何の宗教も信じていないが、それでも、リリーさんと出会わせてくれた何かに感謝した。

天と言ってもいい。宇宙の摂理と言ってもいい。

そして、この一日が無事に過ぎますようにと祈った。明日もまたなんて、欲張りすぎる。望みたいけれど、望んではいけない。きっと。

――我ながら、いじらしいじゃないか、ミカエル。幸せな時は、簡単に善人になれるのだな。

それから、社務所でおみくじを引いた。リリーさんが、やってみたいというので。女性は占いが好きだというけれど、普通の女性とは思えないリリーさんも、やはりそうなのかな?

ぼくは小吉だった。ぼくの気分からすれば、既に大吉だが、ぼく程度には、これでちょうどいい気もする。

今日一日だけの幸運。

明日にはきっと、リリーさんは従姉妹とどこかへ行ってしまう。ぼくのことなど、おぼろな記憶の一部になるだけ。

それはそれで構わない。ぼくは死ぬまで、今日のことを忘れないから。この世のどこかに、太陽のようなリリーさんがいてくれる、そのことで救われる。きっと。

ところが、自分の引いたおくみじが大凶だと知って、リリーさんは本気で嘆いた。

「ああ、もうっ!!」

天を仰ぎ、髪をかきむしらんばかりに身をよじり、足で地面を踏み鳴らす。

「あたしって、いつもこうなのよ!! うまくいきそうだと思っても、いつも失敗するの!! せっかくミカエルと知り合えたのに、きっとまた嫌われるんだわ!!」

「ええっ!?」

ぼくに嫌われる心配、なんて。そんなこと、世界がひっくり返っても起きるわけない。それにまた、リリーさんのように剛胆な人が、こんなお遊びに、心底から一喜一憂するのも意外である。

「ぼくがリリーさんを嫌うなんて、あるわけないですよ。雨が逆さに降る以上に、無理なことです」

すると、リリーさんは金褐色の眉を曇らせ、悲しげに言う。

「だって、いつもそうなんだもの」

「いつも?」

「男という男、みんなあたしを避けて通るのよ。従姉妹のヴァイオレットにはデートの申し込みが殺到するのに、あたしには全然来ないんだから!! そりゃあもう、子供の頃からずーっとよ!!」

「……そうなんですか?」

ぼくはつい、笑ってしまう。だってそれは、男たちが、リリーさんに劣等感を感じるからだろう。ぼくのように、ただ仰ぎ見るだけの立場なら、いじける必要もない。

「じゃあ、ぼくが世界中の男に代わって、貴女を賛美してもいいですよね。リリーさんは素敵です。世界中の百合を集めてきても、リリーさん一人には敵わないですよ」

ちょっと気障すぎたかと思ったけれど、リリーさんはまるで、救いを求める少女のような顔をする。

「ミカエルは……あたしのこと、いいと思ってくれるの?」

ずきんときた。演技なんかじゃない。心の底から、本気で不思議に思って尋ねている。

この人は、自分が女神だと知らないのか!? 素直で、無邪気で、まばゆい生命力そのものなのだと。

では、どうしたら、ぼくが感じている気持ちを、この人に伝えられるだろう。

だって、ぼくが今日まで生きてきたのは、この人に出会うためだったのかもしれない……そう思い始めている。ウィルスを撒いて大勢殺したことも、狙撃された時に助かったのも、全てこの時のためだったのかも。

そう思ってもいいはずだ。それでぼくが、納得して死んでいけるのなら。

少なくとも、身勝手な人間たちに造られて、この世に送り出されたことが、無意味ではなかったのだと思うことができる。

「……リリーさんは、太陽のような人です。ぼくは、太陽を回る惑星みたいに、貴女の周りを永遠に回りたいくらいですよ」

「そ、そう?」

リリーさんは困ったような、半信半疑の顔で、両手を頬に当てる。サングラスを外したままなので、表情がよくわかる。大の男を投げ飛ばせるのに、自分が求愛されないと悩むなんて。なんて、女らしい。

「リリーさんは、天に愛されている人だと思います。運が悪いはず、ありません」

何の根拠もないが、そう断言できた。

「ただ、運勢があまりにも強いので、バランスをとる必要上、ぶつかる困難も人より大きい、ということなんでしょう。このおみくじはきっと、困難を乗り越えたら、大吉に転じる、という意味ですよ」

自分が正しいことを言っているのが、自分でわかった。なぜだか、リリーさんといると、いつもの自分より頼もしい!?

「だから、これは、油断しないようにという、戒めを込めてのお告げなんです。安心して下さい」

すると、リリーさんは両腕を伸ばしてきて、ぼくをぎゅう、と抱きしめてくれた。

「ああ、ミカエルって、何ていい子なの!!」

ちょうど、ぼくの顔がリリーさんの胸の谷間に埋まることになる。窒息しそうだ。何という弾力だろう。顔が火照り、のぼせてしまう。いいのだろうか、人前だというのに、こんな快感を味わってしまって。

「もう、大好き!! 食べちゃいたいくらい!!」

リリーさんはぼくの頭に頬を寄せて、全身ですりすりしてくれる。てらいも何もない。たぶん、いつもこうなのだ。好きも嫌いも、力一杯表す。食べることも遊ぶことも、常に全力。

(こんな風に生きられたら、人生、楽しいだろうな)

それは、強いからこその率直さ。普通の人間には、真似できない。

だが、真似ようとすることくらいは、ぼくにもできるのではないか。そうすることによって、リリーさんに出会えた意味が強まるのでは。

すると、周りの参拝客たちが呆れていようが、くすくす笑っていようが、どうでもいいと思えた。ぼく自身が嬉しければ、そしてリリーさんも喜んでくれるなら、それで十分ではないか。

「んーんっ」

最後にリリーさんは、ぼくの額にキスしてくれた。ぼくはしびれてしまって、声もない。

――このまま、宇宙の時間が止まってくれればいいのに。

司法局の警備チームが、駐車場に停めた警備車両の中で、何て不釣り合いな組み合わせだと、笑い合っているかもしれないけれど。

勝手に、どうとでも思わせておけばいい。これは、ぼくの人生なのだから。

***

空の雲がわずかに茜色を帯びる頃、ぼくたちは神社の裏手の、なだらかな山に登っていた。山の中には、整備された遊歩道が巡っている。リリーさんが、滝を見たいと言うので。

山から降りてくる人はいても、今から登る人はいない。山の南斜面はまだ日に照らされているけれど、北側の斜面は青く陰っている。木々の下のあちこちに、鮮やかな黄色の山吹がこぼれ咲いていた。たぶん、枝から枝へ飛んだ鳥は、ぼくを見張る偵察鳥だ。

「あれ、帰りに、ちょっと摘んでいこうかなあ。ヴァイオレットの好きな花なのよ」

「そうなんですか。豪華な花ですね」

「黄色い花が咲くと、春が来たって感じがするのよね。そうすると、あの子もよく黄色いドレスを着るの」

リリーさんの従姉妹は、今頃、美術館やデパートを巡っているはずだという。

「あたしは美術品や骨董品には、あまり興味がないのでね」

何となく、わかる気がする。この人はたぶん、静止したものには、そそられないのだろう。

「そういえば、ヴァイオレットって、この花のことですよね」

「ああ、そう、その菫のことよ」

遊歩道の脇に点々と咲く紫の菫は、星を撒いたように美しい。花の名を持つ従姉妹は、きっとこの菫のように、可憐で上品な女性なのだろう。

「ヴァイオレットさんも、同じ警察のお仕事なんですか?」

「ええ、まあ、そう……向こうは、事務仕事が得意でね。あたしは現場を走り回る方」

「すごく想像がつきます」

リリーさんは、口より手の方が早いに違いない。

「もしかして、犯人をぶっ飛ばす想像してる?」

「まあ……そうですね」

ぼくが笑いを隠せないでいると、リリーさんは、ちょっと口を尖らせる。

「あたしだって、話して通じる時は、話すのよ」

「もちろん、そうでしょうとも」

笑いながら遊歩道をたどっていくと、吊り橋にさしかかった。はるか下は岩だらけの沢で、水量の少ない川がさらさらと流れている。観光マップによれば、滝はこの吊り橋の先だ。

ぼくは高い所が怖いので、吊り橋の手前で、わずかにためらった。どうしても、

(もし落ちたら)

と想像してしまうのだ。骨がぐしゃぐしゃになる自分を想像してしまうと、足がすくむ。でもリリーさんは、そのためらいを見逃さなかった。笑って、手を差し出してくれる。

「どうぞ、王子殿下」

うわあ。冗談でも、王子さまとは。ぼくは耳まで熱くなってしまい、まともにリリーさんを見られない。

「ええと、はい……では」

子供扱いされてしまったとは思うが、優しい大きな手に手を包まれるのは、ひどく幸せなことだった。手をつないでもらうと、水面をはるか下に見る吊り橋も、それほど怖くない。

橋が少し揺れても、リリーさんはまっすぐ前を見て、安定した歩調で進んでいく。思わず、尋ねてしまった。

「リリーさんて、怖いものはないんですか?」

「あたし? ヴァイオレットは怖いよ。あの子は怒ると、氷みたいに冷たくなるの」

ぼくの尋ねたかったこととは少しずれていたが、リリーさんの優しさがわかる答えだった。

「それは……怖いかも。でも、それは、ヴァイオレットさんを大事に思っているからですね」

「まあね。でも、誰かと手をつないでこんなに嬉しいのは、あたし、初めてかも」

うわあ。

胸が一杯になってしまって、受け答えができない。

自分で感心してしまった。こんなことで、こんなに幸せになれるほど、ぼくは単純だったのか。常に人の言葉の裏を読み、罠はないかと疑う、疲れる性格だと思っていたのに。

いや、きっと、単純であるべきなのだ。頭で考えているだけだと、堂々巡りしてしまって最後は絶望に陥り、世界を呪ってしまう。その時々で動物的な幸福に浸るだけなら、うんと楽なのだ。

というより、せっかく生まれてきて、人生を楽しめない方が愚かなのだろう。

そうか。ぼくに足りなかったのは、馬鹿になることか。

明日というものは、ない。ただ、いつも、今があるだけ。だから、今を目一杯楽しむ。

本当にその覚悟がついたら、それが、悟るということなのかもしれない。

手をつないだまま、長い吊り橋を、真ん中あたりまで渡ってきた時だった。いきなり、落雷のような衝撃を受けたのは。

天が怒り、世界が砕けたかと思った。

真っ白い光に漂白され、何も見えない。

けれど、吊り橋がまっ二つに断ち切られ、左右に分かれて落下していくのはわかった。足場がなくなり、躰が宙に浮く。

落ちると思った瞬間、ぼくは恐怖で気絶したに違いない。けれど、リリーさんは冷静にぼくを抱え、爆発的に沸き上がる水蒸気の中、川に飛び降りていたのである。

天使編2 5章 紅泉こうせん

探春たんしゅんは怒った。もちろん怒った。それも、ヒステリックに叫ぶのではなく、冷ややかに、淡々と怒る。

「自業自得だということ、あなた本人が一番わかっているわよね。わざわざ喧嘩騒ぎに分け入って、注目を集めるような真似をして」

はい。おっしゃる通りです。

「何もしなくても目立つのに、どうして、更に人目を集めたがるのかしら。しかも、ミカエルと外を歩き回ったりして。すぐに宙港へ向かっていれば、今頃、安全な船の中だったのに」

弁解の余地はなかった。

「ごめん」

狙撃の標的はミカエルだった可能性もあるのだが、やはり、あたしであった可能性の方が、はるかに大きい。

衛星軌道からの砲撃。

辺境を支配する違法組織の〝連合〟は、あたしたちの首に巨額の懸賞金をかけている。今回は、大気の揺らぎによる、ほんのわずかなずれで命拾いしただけ。その幸運がなかったら、あの時、ミカエルと二人揃って、骨も残さず蒸発していただろう。

現場の山中へは、すぐに地元警察と司法局の部隊が駆け付けてくれ、あたしとミカエルを首都の病院へ運んでくれた。あたしは軽い火傷と、岩にぶつけた傷だけだったが、砲撃により近かったミカエルは、右半身の重度の火傷に脳挫傷。

ミカエルを抱え、下の川にうまく飛び降りたつもりだったが、岩がごろごろしていて足場が悪く、着地の衝撃を殺しきれなかったのだ。

バイオロイドは普通の人間よりも丈夫だが、ミカエルは戦闘用の強化を受けたわけではない。回復には、しばらくかかる。

軍の艦隊が、衛星軌道からの砲撃を行った民間船を拿捕してくれた。しかし、砲撃は船の管理システムが勝手に行ったもので、人間の乗員たちは関知していないことがわかっただけ。

例よって、遠隔で管理システムを乗っ取られたのだ。犯人は、遠い宇宙のどこか。そこまでは、軍も司法局も追及しきれない。技術水準においても、戦闘力においても、もはや、辺境の違法組織の方が上なのだ。

首都の中央病院にいるうち夜中になり、雨が降りだした。せっかくの桜も、寒さに縮こまっているだろう。

この特別棟は、地元警察と司法局が合同で周囲を固めているから、まずは安心だ。警備責任者の許可を取り、ミカエルのいる集中治療室に、特別に入室させてもらった。

ミカエルは半透明の医療カプセルに入れられ、裸で薬液に浮いたまま、麻酔で眠っている。治療がある程度進むまで、意識がない方が、本人が楽だからだ。

右半身の白い肌が、赤黒いまだらになっているのが痛々しい。綺麗に治るのはわかっているけれど、あたしなんかと一緒にいたばかりに。

カプセルの横に置いた椅子に座っていながら、あたしは震えていた。寒いわけではないのに、震えを止められない。

目が覚めたら、ミカエルは何と言うだろう。

『リリーさんが、あの〝リリス〟の片割れだったなんて。早く言ってくれれば、並んで外を歩いたりしなかったのに』

それだけでもう、決定的に嫌われる。その名には、死神のイメージが染みついてしまっているからだ。ミカエルがあたしを見る目には、恐怖と嫌悪が浮かぶに違いない。

あたしとしては正義のつもりでも、結果として、どれだけ殺してきたか。

宇宙空間で戦闘をすれば、爆破は死に直結する。吹き飛ばした船と共に、たくさんの命が消え去った。そしてそれを、当然のこととして忘れ去ってきた。くよくよ悩むくらいだったら、ハンターなんかやっていない。

でも、それは普通の人間から見れば、恐ろしい無神経だろう。

そもそも、何が正義かなんて、絶対の基準があるわけではない。

違法組織にだって、それなりの言い分はある。不老不死を求めて、何が悪い。そのために人体実験を繰り返して、何が悪い。強い者が生き残るのが、宇宙の掟だろう。

うちの一族だって、れっきとした違法組織。惑星連邦の法そのものが、既に時代遅れという面が強いのだ。いつか人類が高度な他文明と出会ったら、その文明の掲げる正義は、人類の正義とは違うかもしれないし。

何にしても、

『そんな物騒な人と個人的に付き合うなんて、冗談じゃない。一緒にいたら、またいつ命を狙われるか、わからない』

ミカエルはそう考え、あたしを敬遠するようになるだろう。脳腫瘍の治療さえ受けられたら、あとはもう、二度とあたしに関わりたくないと思うに決まってる……

都合のいい夢想だった。ミカエルが大人になるまでじっくり付き合って、本物の恋人同士になれるかもしれない、なんて。

『リリーさん、こちらの席の方が見晴らしがいいですよ』

『リリーさん、風が寒くありませんか』

『リリーさん、お茶のお代わりをもらってきましょうか』

ミカエルはデート中、懸命にあたしを気遣ってくれた。まるで、傷つきやすい貴重品を預かっているかのように。

それが嬉しくて、わくわく、いそいそしていたなんて、本当に馬鹿。はるか年下の子供にすがろうなんて、何万人も殺してきた、このあたしが考えること!? 探春でなくたって、呆れるわ。

扉が開いて、有機体アンドロイドのナギが、静かに声をかけてくる。

「ミス・リリー、じきに夜明けです。担当官が来る前に、朝食をどうぞ」

「わかった」

明るくなったら、司法局と相談して、公表の段取りをつけなくては。表向き、ミカエルは〝リリス暗殺未遂事件〟の巻き添えで死亡、ということになる。でないと、遺伝子治療のために辺境に連れ出すことができない。《ルーガル》との関わりも、断ち切れない。

同じ重さの人形を入れた棺で葬式を出し、ミカエルの担当だった司法局員や、同じ職場にいた科学技術局の人々に参列してもらうことになるだろう。報道記者も来て、短いニュースを作る。そして、ウリエルとガブリエルの墓の横に、新しい墓が立てられる。

市民社会の知り合いたちは、少しばかり泣いて、ミカエルのことを清らかな思い出にする。ミカエルは辺境のどこかで、ひっそりと生きていく。生計の道は、いくらでもある。ほとぼりが冷めたら、別な名前でまた、市民社会に戻れるかもしれないし。

同じ階の控室で、探春がコーヒーとサンドイッチを用意してくれていた。小海老とアボカド。ローストビーフとクレソン。ベーコンとトマト。果物の盛り合わせも付いている。急に、胃袋が存在を主張してきた。

そういえば昨夜も、どさくさに紛れて、ハンバーガーを食べただけ。こんな時でも、食欲だけはある。失恋した時くらい、食欲が失せてもいいのにね。

「職員用の厨房を借りて、わたしが作ったから、安心して食べていいわよ」

探春は、さすがに手際がいい。あたしたちは常に毒殺を警戒しているので、外食の時は、無作為に店を選ぶ。さもなければ、無作為に材料を買う。

「そっか。ありがと」

と感謝して、小海老とアボカドのサンドイッチにかぶりついた。マスタード入りのマヨネーズが、あたし好みだ。コーヒーには、たっぷりクリームが入っている。

「クローデル局長と話したわ。葬儀の段取りはつきました。病院側でも、ミカエルの本当の状態を知っている医師は、ごく少数だから」

有能な探春は、マスコミ対策も含めて、既に司法局側と話し合ってくれたようだ。少人数のチームが、ミカエルの死を演出してくれるという。

「ごめん」

次のサンドイッチに手を出しながら言うと、幼馴染みの従姉妹は、諦観したような微笑みで言う。

「いつものことだもの。何でも、あなたの気の済むようにすればいいわ」

あたしが新しい王子さまを見つけ、舞い上がる度、探春は顔を背けて待っている。どうせ、すぐに破局が訪れるから。

今回も短かった。たった一日のデート。

それでも、あんな楽しい時間、生まれて初めてだったような気がする。ミカエルは何度も、あたしが聞きたいと思う台詞を言ってくれた。まるで、あたしのためにあつらえられた王子さまみたい。

でも、もちろん、これ以上、彼を連れ回してはいけない。あたしのために、危険な目に遭わせてはいけない。ミカエルが起きられるようになったら、辺境へ送っていく。故郷の違法都市で、麗香姉さまに預ける。それで終わりだ。

あたしの王子さまになってくれる物好きな男性なんて、いるわけない。変わらずに側にいてくれるのは、親友の探春だけ。

それだけで、十分な幸福のはずではないか。

天使編2 6章 ミカエル

意識が戻った時は、ベッドの上で雨の音に包まれていた。世界全体が、穏やかな雨の底にある。知らない部屋だが、薬の匂いがするから、病室にいるらしいこともわかる。

桜……桜は、まだ咲いているだろうか……それとも、桜の季節はとうに過ぎている?

あれは、夢だったのか。リリーさんと出会ったこと。海で遊んだこと。そして、吊り橋から落ちたこと。

川原の冷たい砂利の上に横たわったまま、暗い空に、何かが大きく飛び回るのを見た。警察か司法局のエアロダイン、と思ったことを覚えている。降りてきた職員たちに、リリーさんが何か鋭く指示していた。砂利を蹴立てる、幾つもの足音が交差して……

それでも、いい夢だった……柔らかい胸に顔を埋めた感触、はっきり覚えている……目醒めなくてもよかったのに……

「ミカエルくん、気分はどうだい?」

扉が開いて、白い制服姿の若い男性が入ってきた。快活な態度で、主治医だと自己紹介する。彼が窓の遮光機能を操作すると、半透明になった窓から、雨に濡れた中庭の木々が見えた。入院した記憶がないのは、脳腫瘍の切除手術を受けたからか。

ガブリエルが、そうだった。脳の手術をすると、どうしても記憶の欠落が生じる。いつも聡明な彼が、病床で迷子のような顔をしていた。

『お兄ちゃん、だあれ?』

彼の方が、ぼくより二つ年上だったのに。ウリエルと共にぼくを説得して、脱出計画に引き込んでくれた、しっかり者。

それが、最後には幼児に戻ってしまい、絵本を読んでくれとか、歌を歌ってくれとか、病院の女性スタッフに甘えていた。彼女を母親だと思っていたのか。カプセルで培養されるバイオロイドに、母親はいないのに……

「きみは火傷と脳挫傷で、かれこれ五日ほど入院しているんだ。でも、心配はいらない。必要な治療はもう済んでいるから、午後には退院できるよ。二、三日はおとなしくしていてほしいが、後は普通に生活して構わない。塗り薬だけ出しておく。火傷の跡は、徐々に薄れるからね」

火傷? 何だろう? いつ、そんな怪我をしたっけ?

やはり、記憶の断絶があるらしい。

医師はぼくを診察し、回復は順調だと断言すると、楽しげに付け加えた。

「いやあ、本物の〝リリス〟と握手できるとは思わなかったよ」

え。

「映画以上の美人だったね。思っていたよりずっと、穏やかで控えめな人だったし。一生忘れないよ。守秘義務があるから、家族にも話せないのが残念だけどね」

ぼくが目を見開いたので、医師は説明を加えた。

「食事が済んだら、面会できるよ。彼女たちは、きみが目覚めるのをずっと待っていたんだから」

***

夢ではなかった。それどころではない。何という馬鹿だったのだろう、ぼくは。大の男をぽんぽん投げ飛ばす姿、あれだけで〝リリス〟と察するべきだった。

そもそも、リリーとヴァイオレットという名前の組み合わせは、映画でも小説でも、お馴染みだったではないか。もちろん、本当の名前ではなく、コード名だというけれど。

でも、まさか、本物の〝リリス〟が、そこらを気軽に歩いているなんて。その上、ぼくなんかのために、貴重なバカンスの時間を割いてくれるなんて。

緊張のあまり、胸が苦しい。夢なら、夢でよかったのに。

これから現実のリリーさんと会って、さようならと宣告されるくらいなら、夢の方がましだった。谷底へ突き落されるようなものだ。焦がれても届かない人に、最後の日まで焦がれ続けるなんて。

いや、それでも、会わずにはいられない。伝えなくては。貴女に会えて、時間を共有できて、本当に嬉しかったと。

ぼくにはきっと、人生で一度きりの恋。それを知らないままで終わるより、ずっとよかった。後に悲しさが残るとしても、それは、会えたからこそ生まれた感情だ。心が凍りついたまま死ぬより、ずっといい。

だから、精一杯、平気なふりで、お別れを言わなくては。

美青年の看護師に世話をしてもらい(後で、〝リリス〟の助手だという正体を知った)、着替えと食事を済ませた頃合い、リリーさんがやってきた。

目が覚めるような、美しいロイヤルブルーのワンピース姿。金褐色の長い髪は、背に垂らしている。耳たぶには、大粒の真珠。美しい顔が曇って見えるのは、ドレスの色のせいか、窓の外の雨空のせいか。

「ミカエル、ごめんね」

リリーさんは真っ先にそう言い、椅子から立ったぼくの手を取った。温かく大きな手。記憶の中の感触と同じだ。間近に見る青い瞳も、記憶の通り。

「巻き添えにしてしまって、本当にごめんなさい。あたしが馬鹿だったのよ。わざわざ、自分の正体をさらすような真似をして」

ああ、そうか。リリーさんは、ぼくが怪我をしたことで、悪いと思っているのか。リリーさんでなければ、あの瞬間、ぼくを抱いて飛び降りることなどできなかったのに。普通の人間なら、岩だらけの川に墜落して、即死だったはず。

しかし、今ではもう、リリーさんにも、ぼくが何者かわかっているだろう。罪のない子供ではなく、恐ろしい決断をした反逆バイオロイドであると。

「ぼくこそ、申し訳ありませんでした……お荷物になってしまって。それに、自分のことをちゃんと言わなくて……」

リリーさんは、あっさり首を横に振った。

「あたしは知っていたのよ。最初から。だって、きみに会うために、この星に来たんだもの」

「えっ?」

ぼくらは偶然に出会ったのではない……というのか?

「全部、説明するわ。でも、まず、ここから出ないといけないの」

それは、まさか、貴女と一緒にということですか?

「世間的には、きみは一昨日『治療の甲斐なく死んだ』ことになっているの。今日は郊外の墓地で、きみの葬儀があるのよ。きみの知り合いは、みんな参列しているわ」

唖然とするぼくに、リリーさんは言う。

「お別れを言いたい人もいるだろうけど、それはあきらめてね。《ルーガル》に追跡されないためには、ここで一度、死んでもらう必要があるの」

リリーさんに肩を抱かれるようにして、病院の地下で車に乗せられ、外の街路に出た。司法局が手配してくれたそうで、一般の職員がぼくらの姿を見ることはなかった。対外的には、ぼくは死んで葬儀場に送られたことになっている。

雨に打たれた街路の桜は、半分散りかけていた。道路のあちこちに、淡いピンクの花びらが散り敷いている。

外からは中を見られない半透明の窓なので、誰かに見咎められる心配はない。ぼくは呆然としたまま、過ぎていく市街の風景を眺めた。

死ぬまで暮らすはずだったこの星と、今日でお別れとは。

かりそめの職場に未練があるとは思っていなかったが、それでも、親切にしてくれた人たちが、ぼくの葬儀に集まっていることには、気が咎めた。彼らにとって、ぼくは最後まで〝気の毒な少年〟のままなのだ。

すみません、さようなら。

ごめん、ウリエル。

ごめん、ガブリエル。

きみたちの墓がある星を、出ていくよ。そして、たぶん、二度と戻らない。

一緒に車に乗っていたのはリリーさんと、相棒のヴァイオレットさんだった。それと、有機体アンドロイドのナギ。紺のスーツが似合う、黒髪の美青年だが、心を持たない人形であるという。同型の人形が何体も、リリーさんたちの助手として動いているとか。機密保持のため、病院でぼくの世話をしてくれたのも、ナギだという。

「よろしくね、ミカエル」

と挨拶してくれたヴァイオレットさんは、ぼくより少し背が高いだけの、小柄で上品な女性だった。

金茶色の瞳と白い肌。長い茶色の髪は、きちんと結い上げている。クリーム色のワンピースがよく似合い、名画のように繊細な風情だ。とてものこと、長年、違法組織と戦ってきた闘士には見えない。

だが、リリーさんが剛勇ならば、この人は理知。〝リリス〟の活躍の半分は、このヴァイオレットさんのおかげだという。

宙港へ向かうドライブの途中、リリーさんが事情を話してくれた。上空からの砲撃を仕掛けた犯人は、わかりそうにないという。

「外部から、船の管理システムが乗っ取られていたの。中央の警備システムは、弱点が多いからね。でも、どうせ、あたしが狙われたに決まってるわ。もう二メートルずれてたら、あたしたち二人とも、蒸発してた。ほんの少しの大気の揺らぎのせいで、命拾いしたわ」

高出力レーザーの一撃か。民間船も、自衛のための武器は装備している。それを、何者かに利用されたのだ。

危なかった……ぼくに関して言えば、あの時、瞬時に蒸発していても、幸せだったかもしれない、と思うが。

リリーさんと一緒に死ねるのだったら、この上なく贅沢な死に方ではないか?

いやいや、リリーさんは〝正義の味方〟として、この世界に必要とされている人だ。死ななくて良かったに決まっている。

「じゃあ、やっぱり大吉ですよ」

ぼくが笑って言うと、リリーさんはきょとんとする。

「ほら、おみくじです」

「ああ……」

「リリーさんは、大凶の運勢を跳ね返せる人だから、存在そのものが大吉なんですよ。いつだって、天が味方しているんです。だって、地上に降りた女神なんですから」

ようやく、リリーさんの顔に苦笑が浮かんだ。

「まあ、そういうことにしておこうか……それで、ミカエル、これからのことなんだけど」

そらきた。

ぼくは別の星に移され、別の名前でひっそり、残りの日々を過ごすことになるのだろう。この人は義理堅く、別れの挨拶をするために待っていてくれたのだ。宙港にはきっと、出迎えの司法局員か誰かが待っている。そこまでの短いドライブが終わったら、さようなら。

「……市民社会はあきらめて、辺境に出ない? 実はもう、勝手に預け先まで決めてあるんだけど」

「辺境?」

やっと逃げ出してきた世界に、戻れというのか? ぼくがぽかんとしていると、リリーさんは真剣な顔で言う。

「一緒に来てほしいの。ミカエルの治療は、辺境でなら、何とかなるはずだから。司法局も、内密で了解済みよ。治療が済んだら、後は好きなようにすればいいから」

一緒にって……リリーさんと一緒に辺境へ?

「ぼくの好きにって、どういう……?」

「仕事とか、生活場所とか。何でも、ミカエルのいいようにすればいい。健康になったら、何でもできるでしょ。辺境でひっそり生きていけるように、あたしが知り合いに頼んであるから」

つまり、ぼくは生きられるのか? 健康体になって? しかも、一人で辺境に放り出されるわけではないと?

そんな……そんなことが本当に……? 司法局は、あくまでも遺伝子操作を許さないのではなかったか?

怖い。信じるのが怖い。そんな都合のいい話、あるとは思えない。

でも、だけど……この人は〝リリス〟なのだ。軍人も司法局員も畏怖する英雄。辺境にどんな伝手を持っていても、不思議ではない。

「どうしても戻りたかったら、市民社会に戻ることもできると思うの。顔や名前を変えてね。もちろん、市民社会のルールを破ったことになるから、そう簡単には許してもらえないと思うけど。いずれ、次の局長の代になったら、司法局の空気も変わるかもしれないし。でもそれは、今後、気長に考えればいいでしょ? ミカエルはまだ、若いんだもの」

信じられない。夢ではないのか。リリーさんは、ぼくに未来をくれようとしている。ウリエルやガブリエルには開かれなかった扉が、ぼくの前に開く。

「いいんですか? 遺伝子治療はご法度のはず……」

だが、リリーさんは確信的に言う。

「ミカエルは元々辺境生まれなんだから、そこまで市民社会に従わなくていいのよ。違法だろうが何だろうが、治療法はあるんだから。脳腫瘍なんかで死ぬ必要、これっぽっちもないでしょ」

何人もの関係者が、ぼくの命を救う方法を探して、司法局長を動かしたのだと知った。市民社会は、ぼくを見捨てたわけではなかったのだ。ごく一部の、お節介な人々のつながりが、リリーさんをぼくの元へ連れてきてくれた。ウリエルとガブリエルを救うのには、間に合わなかったけれど……

いや、彼らが死んだからこそ、最後に残ったぼくが、同情を受けられたのか。

それは法の公正にもとるだろうが、ぼくにはもう、感謝しかない。二人には心の中で詫び、有り難く、その申し出にすがることにした。

「ありがとうございます……全て、お任せします」

もし、これから一年か二年ではなく、二十年も三十年も、もしかしたら、もっと長く生きられるのなら。

そうしたら、何でもできる。

市民社会に恩返しすることだって、リリーさんのために何かすることだって、できるはずではないか。

世界は鉛色の雲と冷たい雨に閉ざされていたが、ぼくは、頭上に青空が開けた気分だった。

そう、雲の上はいつも晴れ、というではないか。自殺などしなくて、よかった。自棄でテロリストにならなくて、よかった。今日まで生きていて、よかったのだ。

広大な宙港に着くと、発着場の片隅に小型艇が待っていた。ぼくらは車ごと艇に乗り入れ、そのまま離陸したのである。

天使編2 7章 探春たんしゅん

「お世話をかけます、ヴァイオレットさん」

栗色の髪の美少年は、しおらしく頭を下げた。わたしたちの船は既に、ミカエルのいた植民惑星を離れている。

民間船として登録してあるけれど、実際には、辺境の最新技術を詰め込んだ高速戦闘艦だった。途中で偽装のために他の船に乗り換えて、辺境の宇宙を目指す予定。いつでも使えるように、あちこちに最新鋭の船を隠してある。

特に、故郷に向かう時は、厳重に航跡を隠さなくてはならない。わたしたちと違法都市《ティルス》の関わりを、第三者に知られるわけにはいかないのだ。

「何も気を遣わなくて、いいのよ。あなたは病み上がりなのだし、お客さまなのだから、ゆっくりしてちょうだいね」

優しく言ったつもりだけれど、やはり何か、不穏な気配があったのだろう。

「はい、ありがとうございます……」

ミカエルは戸惑ったような、曖昧な顔になっている。わたしが敵意を隠していること、気がついたかしら? 紅泉こうせんがこれほど入れ込んでいるのだから、賢い子であることは間違いない。

それならば、なおさら、余計なことは言わずにいるだろう……何に気がついたとしても。

「じゃ、部屋に行こ」

紅泉はさっそく、ミカエルをひょいと抱き上げて、船室に向かった。

「リリーさん、ぼく、歩けます。そんな、重病人じゃないんですから」

と本人は身をよじって恥ずかしがるけれど、紅泉はおおらかなもの。

「本当は、もう何日か入院していた方がよかったのよ。ちょっと無理して、早目に連れ出してしまったから、少し休んだ方がいいわ。食事時になったら起こすから、ね」

紅泉はミカエルを『保護すべき子供』として扱うことに決めたらしい。それがかえって、わたしには気がかりだった。

これまでの紅泉なら、駄目元でがんがん、王子さまを口説いたはず。相手が少年だからといって、遠慮する性格ではない。ミカエルの成長を待つ時間は、たっぷりあるのだから。

でも、今はあえて、ミカエルとは『友達』のままでいようとしている。それが、ミカエルのためだと考えて。

ミカエルもまた、何か言いたげな熱い目で、紅泉を見上げている。けれど、彼には彼の引け目があるらしく、本当の気持ちは言うまいと努力しているみたい……

二人が海や神社でデートしている様子を、わたしは偵察鳥からの監視映像で見ていたから、わかる。

最初から、この二人は惹かれ合っているのだ。

恋という池に、どぼんとはまる音が聞こえるくらい、明白だった。お互いに、相手を理想の異性と思い、奇跡的な出会いを果たしたと感じている。

もしかしたら、途方もなく相性のいい組み合わせなのかもしれない。

太陽と月。

動と静。

この世界が地獄だと知っていて、なおかつ、逆らう気力を持っている部分も共通している。出会ってしまったのだ。たぶん。魂の呼び合う相手に。

でも、わたしは、余計なことは言わない。刺激を与えて、火を燃え上がらせてしまったら大変だから。

放っておけば、このまま冷める……そう祈りたい。

ミカエルを麗香お姉さまに預ければ、それで紅泉は〝正義の味方〟の義務を果たしたことになる。そして自分の仕事に戻り、ミカエルのことは、たくさんある思い出の一つになる。ちょっとほろ苦い、失恋の思い出に。

紅泉の人生の伴侶は、わたしだけでいい。こんな子供なんかに、わたしの位置を譲るつもりは、微塵もない。

これまで紅泉を支えてきたのはわたしだし、これからも生涯、そう。わたし以上に役に立つパートナーは、誰もいない。

もしいても、追い払う。

ミカエルもいずれ、立派な青年になるだろうけれど、その頃には、他に可愛い女の子を見つけているはず。そして、紅泉のような、危険に満ちた人生を送る女とは、一緒にいられないとわきまえるはず。

二人がお互いに遠慮しているなら、その遠慮がはがれ落ちないよう、さりげなく寒風を浴びせてやればいいのよ。

***

数日が過ぎると、ミカエルはかなり元気になってきた。担当医から申し送りを受けているので、経過はきちんと見ている。火傷の薬も朝晩、塗ってやっている。背中の方は、本人には塗りにくいから。

本当は、紅泉が塗りたがっているのを知っているけれど、遠慮してわたしに任せているから、知らん顔して引き受けている。

「すみません、お世話をかけます、ヴァイオレットさん」

ミカエルが申し訳なさそうな顔をするのを、わたしはすまして受け流す。

「いいのよ、リリーが誰か拾うのは、いつものことだから」

「そう……なんですか?」

ほうら、てきめん不安そうな顔になったわね。

「これまでも、訳ありの子を何人も世話してきたわ。リリーはすぐ同情して、引き取りたがるのよ。どうせ、面倒みきれないくせに」

いけない……ずいぶん意地悪な口調になってしまったわ。意地悪すぎると、逆効果になる。でも、ミカエルにも、もうわかっているでしょう。わたしが歓迎していないことは。

もちろん、彼はわたしに遠慮して、おどおどしていた。

「大丈夫です、ヴァイオレットさん」

「どうかご心配なく、ヴァイオレットさん」

と、幾度も身をすくめている。

それでも、肉体の回復は早かった。何しろ若いし、バイオロイドは丈夫にできているので、脳挫傷の方はすっかり治癒している。火傷の跡も、日に日に薄れていく。

ただ、気持ちの方は沈んでいるようだった。紅泉と同じ船にいられるのは嬉しいけれど、それはわずかな日数のこと。目的地に着いたら、置き去りにされると知っている。

同情なんか、しないわ。あなたは紅泉に愛されて、永遠に清らかな、思い出の王子さまになるんだもの。

わたしはそうではない。ただの従姉妹。家族の一員。何十年、何百年生きても、紅泉がわたしに恋焦がれてくれることなんて、ありえないのよ。

でも、その代り、いつまでも、どこまでも一緒にいられる。わたしはそれで、満足しようとしているの。

ちょっとばかりあなたに冷たくしたって、そのくらい、我慢するべきでしょう。

***

今はまだ、紅泉とミカエルの間に壁がある。食事時などに、つい、顔を見合わせてしまった時には、どちらもさっと視線をそらす。ラウンジのソファに座る時も、ちょっと離れた斜めの位置を選ぶ。世間話をしても、それが深い話にならないよう、いつでも逃げられる身構えでいる。

互いに、

(自分は、相手に相応しくない)

と思っているからだ。うっかり熱い視線を向けてしまったり、本音の声で語ったりしないよう、気をつけている。

でも、そんな壁、何かの拍子に崩れてしまうかもしれない。心はどうしても、言葉や振る舞いに表れる。隠そうとしても、隠しきれない。

もし、二人が、相思相愛の状態になってしまったら……

わたしは、ミカエルを殺すかもしれない。うまく事故や事件に見せかけられる時が来たら。

でも、その事実を、後から紅泉に知られたら……?

考えたくない。紅泉に嫌われ、遠ざけられるなんて。

だから、わたしにできるのは、ミカエルが健康を手に入れ、新しい人生に夢中になって、紅泉を忘れますように、と祈ることだけ。

誰も知らなくていい。わたしが魂に、地獄を隠していることなんて。

この世界に絶望しているのに、紅泉を愛している。

愛している限り、幸せ。

でも、その幸せが、いつか終わることを知っている。

わたしが独占したいと願っている紅泉は、何よりもまず〝正義の味方〟なのだ。わたしのことも、ミカエルのことも、その他の誰かのことも、みんな公平に気にかける。愛おしむ。

そういう紅泉だから、わたしはついていくのだ。いつか、一緒に死ねる時まで。

わたしたち二人を、そうとは知らず苦しめている紅泉は、遠慮しつつも気を遣い、ミカエルが快適に過ごせるようにしていた。

「ミカエル、お昼は何が食べたい?」

「ミカエル、何か足りないものは?」

「ミカエル、この映画見たことある?」

彼は彼で、はにかみながら、何でも素直に従っていた。

「リリーさんのお好きな料理は、何ですか? ぼくも、それにします」

「リリーさんのお薦めの作品なら、ぼくも見たいです」

ミカエルは色白だから、紅泉に構われて嬉しいと思う時は、頬が紅潮するのがよくわかる。紅泉の後ろ姿を見送る時さえも、瞳が憧れに潤んでいる。口に出さない分だけ、主人を慕う子犬のように、一途に紅泉を慕っているのがわかってしまう。

紅泉だって、その雰囲気は察しているはず。ミカエルを口説こうと思えば、いくらでもできる。

それでも紅泉は、あえて踏み込もうとしなかった。

(ミカエルは、あたしに感謝しているだけ)

そう決め込んで、『親切なお姉さん』の立場を守るつもりらしい。

不器用なのは知っていたけれど、ここまでとは。もしも紅泉が一言、ミカエルに対して何か言えば、ミカエルは遠慮も何も捨てて、紅泉の腕に飛び込むでしょうに。

でも、そんなことになったら、わたしの居場所がなくなってしまう。ミカエルが賢い男の子であるだけに、なおさら危険なライバルだった。わたしの代わりにパートナーになろうなんて気を起こされたら、たいへん。

早く、故郷の麗香お姉さまの元に送り届けて、〝過去の人物〟にしてしまわなくては。

それにしても、紅泉ときたら、本当に懲りない人。何度失望しても、また新たな王子さまに期待をかけてしまうのだから。この調子では、またいつ、次の王子さまを見つけてくるか。

でも、それが〝永遠の若さ〟の呪いなのだ。

肉体が若いせいで、いくら経験を重ねても、知恵を蓄えても、おそらく、真の老成には至らない。

それがいいことなのか、悪いことなのかはまた別の問題。

紅泉もわたしも強化体だから、老いることなく、このまま数百年は生きられる。その年月の間に、おそらくは、数千年か数万年を保証する技術が育つ。

それはもしかしたら、生身の肉体を捨てる『超越化』の道かもしれないけれど、可能性としては、永遠に手が届くのだ。

一億年、百億年、更にその百億倍。この宇宙が終わるまでには、他の宇宙へ脱出する方法を発見するのではないか。

そうなってもまだ、人類は、愚かな争いを続けるのかもしれないけれど……

そう、〝天然の戦闘用強化体〟である男という種族が存続している限り、人類社会は、いつまで経っても平和にならない。彼らの存在意義は、とうの昔に失われているのに。

彼らを絶滅させられる方法があれば、わたしは喜んでそうするだろう。

いいえ、別に絶滅しなくてもいい。紅泉の王子さまになる男が、いないままならば。

だって、人類社会が女だけになったら、紅泉は世界中の女に憧れられてしまうから、競争率が高くなりすぎるもの。

   天使編3に続く

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