朝日記

「パイの奪い合い」という言葉が苦手だ。利益というものが分配されるものでは無く独占されるものだという考え方にも通底している気がするが、もう少し正直に言えば、私は「競争」という概念が肌に合う人間ではない。

「それは君がありとあらゆる競争に負けたからでは?負け犬の遠吠えかな?」

と言われそうだけれども、それこそ、自分は幼年期からウィンタースポーツをやっていて、物心つく前から競争っぽいものに算入されて、否が応でも勝敗の結果を見せられたクチだ。「勝った」こともあるし、「負けた」こともある。

正直なところで、勝ったときの居心地の悪さと負けた時の居心地の悪さは大体同じくらいだ。

勝てば私の周囲の大人たちは柔和な顔を見せた。「よくやった」「がんばったな」「練習してきた甲斐があった」とか、月並みな称賛をもらう。両親はもちろんだが、ほかの同級生の両親も言ってくれる。

だが、その裏で、「負けた人」に対しての辛辣なやり取りが行われるのを知っていた。それは自分が負けた時に十分に体験していたから、「きっと彼らの帰りの車ではひどい説教が行われているのだろうな」みたいな想像がつくし、その予兆みたいなものがチラチラと目の前で起きる。怒声に冷たい視線、さっき勝敗が喫する前までは応援していた大人が結果が出た瞬間に手の平を返す。それはその人の実の両親でも、指導者でも同じ具合に。

そうなると、なんとまあ居心地が悪い。

たかが一日の大会の結果で子供に対する態度がコロコロと変わる両親とその同胞たちの、歪んだ価値観をまざまざと見せつけられた。

世代論にまとめていいかわからないが、私の両親の年代は教育的に「勝てば官軍負ければ賊軍」のような思想が強かったのだと思う。

その教育の形で一定の財を築いた人々が家庭を持ったりしているだけあって、その歪な有様に疑問を持たない人が多い。

それもあってか、無責任なオーディエンスみたいな人達に値踏みされる感覚は子供のときからどこか感じていた。

結果がすべて。という価値観は、どうにもそのものごとそのものを楽しむ味覚を麻痺させる。

山頂の風景だけが楽しみな人に登山は続かない。



作家の対談録を読むのが好きだ、どの作家も互いに尊重しあっていて、劣等感の裏返しのような言葉や「勝った負けた」に類する言葉は存外少ない。

互いに自分の創作しているものごとの源流や趣味趣向を共有しあい、お互いの作品について相互的な感想が育まれる。

もちろん、ある人がみれば、その作家も「勝った」人々なのかもしれない。しかし、私が思うに、往々にして対談録に遺るような作家は、そもそも勝負という概念で物事を検討していないのではないかと思う。結局、向き合う対象は自分の作品であり、そこにはひたすら内なる営みがあるだけなのだと思う。

これは自戒のつもりで断言するが、
「競争だと思ったときは、集中できていない証拠である」




そう思いたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?