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2024年 3月17日の日記

 今日ほんとに何もしてない。何もしてないときこそ日記が捗るぜ。オラオラ。

 寝起きはやや健康的なんだけども、それにしてもよくない思考のどっぱまり、陰気のガーターに一直線に突き進んでしまった。
吠えてぇな。カラオケ行きてぇと思ったよ。でもこういう時に行くカラオケって大抵うまかないのよね。「ワイは何の曲もまともに歌えんのか・・・」って、自分の高い期待値の落差から勝手に絶望するだけの一人カラオケになりそう。結局行ってないし。
マクドナルドに行った。お金使っちまったなあ。千円にはならないがそれなりに。近所にマックがあるのがダメだろ。最高すぎるよ。環境が私にスーパーサイズミーしようとしてくる。
ビッグマックのポテトセットという冒険心のかけらもない注文にやけっぱちの気休めでシャカシャカポテトをつけた。あとマックシェイクにもした。
はじめてマックシェイク食べたけどこんなに甘いのか。ちょっと怖いくらい甘かった。でもこの甘さで何となく脳みそが幸せ感じてるのが憎いね。後頭部のあたりが「ニワ~ン」ってしてくる感じ、皆さんにはわかりますか。「ニワ~ン」ってするんです、確実に、自信をもって。


閑話休題


 日記を書いたり、書かなかったり、他人の日記を読んだりツイッターをみたりと、それなりにして、あまりにも自分を含めた世の中の人たちの「他愛なさ」みたいなものに直面してしまった。

 肩をすぼめながら文学的な思考を揺蕩わせる無職男性、精神障害を持ちそれを退廃と紐づけながら情緒を吹かす20代女性、ホワイトカラーで働きつつも漫然としない鬱憤を断罪系youytuberを観ることで発散する人、歳を重ねても幼少期に食らった不遇に折り合いをつけれず悶々とする人、飲み会の席で「自分はこの中で一番まともだな・・・」という自覚を育てる人、会話の中心になれていない状態が我慢ならない人・・・etc

 もちろん、絵を描く人でもこの他愛なさみたいなものは持っているはずで、そもそも絵を描く行為そのものは個人のクリエイティビティを担保する材料にはなり得ず、どのようなものを描いているのかに依存する点からも、他愛ないものを描く他愛ない人がメチャクチャ多いという事実が横たわる。実際私もそのうちの一人なわけではある。

 なしてこの「他愛ない」なんて言葉を使うかっていうと、「小市民シリーズ」の小佐内さんがあるキャラクターの「凡庸さ」を表す時に使われた言葉で、読んだときに衝撃を食らったから。しかもそれをあてがわれたキャラクターは、どこか主人公チームとは違う応援したくなる貪欲さと人間らしさを持っていて、それが知恵者であるヒロインこと小佐内さんに一刀両断されるのである。やばすぎる。ライトノベルの形式で売っていたら炎上していたんじゃないかと思うくらい「普通」に厳しい。

 相対評価から生まれる「凡庸さ」は、ある種の「既出乙w」でもあり、また「三流以下」を指すようなものでもあり、またそれは「主人公のならなさ」でもあると思う。普通の能力の主人公が大活躍する物語はあるが、それは後々になってその主人公しか発揮できない能力が見いだされる瞬間があってこそ成立することであり、マジもんの凡夫は見いだされることすらされない。

 なんかこんなこと書いてるとめちゃくちゃ偉そうだなあと思うけど、これは自分を知るためでもあるのでもう少し書こうかな。


 ある種等身大の自分ないしそれが及ぼせる領分を把握していると、次やることも多少明確化するのでは?と思う。絵であれば「描けなさ」をしっかり理解することが改善につながると思うし、なんでもできると一様に思いすぎると何もできなくなるジレンマが発生するのではないかねぇ。
 君たちの人生は無限の可能性・・・みたいなこと、卒業式では言わないで欲しいよ、限定された中で行使する自由が飛び出す活力を作るのであって、マジもんの無限の可能性にほっぽり出されたらそれはもう「ゼロ・グラビティ」の一番怖いシーンよろしく空中を彷徨うことになるから。
 「お前に許されてる行動はこれだけだ(含みあり)!」みたいにってくれる人居ねえかな、そしたら「なんだとコラ」で何か別のことやりだすからよ。

なんて天邪鬼なんだ。

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