そういう情感もある

・耳かきが好きだ。綿棒やスクリュー型等の様々な耳かきがあるけれど、なんだかんだ竹でできたスプーン型の耳かきに落ち着いてしまう。



・なにかとつけて話題になるAIのイラスト生成、自分としても絵を描く人間なので一時期はその登場にかなりまごついたが、今となってはそこまで気を割くようなことではなくなった。

・その気心の変化の起点は、描くという行為そのものの楽しさや手ごたえをようやく得つつあるからだと思う。
 自分の手で何かが描ける、という技術的な習得とカタルシスそのものにどこか惹かれている。そんなこともあってか、アナログで滅茶苦茶に最高なポスターアートを描くドリュー・ストルーザンや、最近亡くなられたキム・ジャンギに対する羨望は計り知れない。
 手元から、自分の意図した形、モノが、モリモリ湧いて出てくる。この瞬間そのものの「良さ」が意外なことに替えがたい。
 そう考えたときに、ある種芸術を始めとした表現に手をつけることの動機として、「ただ生活しているだけでは絶対にかけない痒い所」に手を伸ばしている感じがあるんだよな。
 実際、こうやって文章を書いているけれど、ノートに何か落書きをしたり、デジタルでイラストを描いたりする時の、自分の空白の埋まり方には絶妙に及ばない。(もちろん、文章には文章表現でしか埋められない隙間もあるだろうけれど)
 今のところ音楽や視覚芸術に偏って話をしているけれど、この「埋めたい場所」の感覚は人によって違うのだろうな。それが時代のなかでこれと言った価値に紐づかなかったとしても、その人にとって埋めたい何かは存在すると思う。体をある形に動かすことかもしれないし、何かを口に含むことかもしれない。納豆で口腔うがいをしないと埋められない心のスキマもあるだろう。
 「この時、この場所で、この音が、色が、形が、息遣いがあることが大事なんだ」みたいなものを人は「こだわり」と言って何か特別で副次的な余剰のようにとらえているけれど、イヤ、違うとおもうのよ。むしろこだわりの密度が百パーに満たないものは、ハナっから出力しても大して楽しくないのよ。

 その点でAIのイラストは、確かに新しい視覚表現の手段かもしれないけれど、私の「痒い所」はかいてくれない。それがもしかしたら何らかの形で経済活動に支障をきたすのかもしれないけれど、今のところはそんな感じだ。
 ごめんな、あのスプーン型の耳かきじゃないと気持ちよくなれないんだ。


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