膝小僧 こんこんと鳴る土踏まず 後ろは熱く前冷たい

自作の短歌書いてやがる…

しかもタイトルに。


笹井宏之さんの短歌が好きだ。意図していなかった言葉の取り合わせ、その余白が感情の秘孔をついてくる感覚がある。

芸術の意義は概ね言語による一元的伝達とは別のコミュニケーションのアプローチを模索することにあると思うのだけれど、その点で現代短歌とかは実感が得やすい対象なのかなぁ、と思ったりする。

言葉による直接の意味ではなくて、あまり関連がないような言葉と言葉が合わさることによって、そこにしかない情感や記憶、手触りみたいなものを想起させる。


これが共通の普遍的認識を持った情感だと「エンタメ」になったりするのかな。よくわからないが。

その点で「共感」というジャンルはエンタメとしての要素がかなり含まれているからこそ、逆に直接的なワードチョイスは「月並み」と判断されてしまうのかも。

むつかしい。まず直接的に自身と他者の約数を見つけるだけでも、ある程度の世間的関心とそれに対する鳥瞰的視点が必要だし、そこから飛躍させるのはかなり億劫な作業なんじゃないか。

いや、順序が逆か、まず個人的で他者に伝達が困難な情念があって、そこに付帯する表現を手探りでも見つける方が賢明なのかね。


その点で、やはり記号を習う前の状態、所謂「子供」の感受性が過大評価されるのは理解できる。

多分大人は期待してるのだ、記号によるやりとりや共通認識のリレーで埋め尽くされた感受性に、無垢な言葉が風穴を開けてくれることを。

一時期はAIにそんな期待を寄せてみたりしたけど、現行AIは既存認識に寄り添って誤謬のない表現が出来るかの競争をしているから、今一つ面白みに欠けてしまう。

一年前くらい前の妙ちきりんな日本語を生み出すあなたが好きだったのに、今は間違えることは無くなってしまった。


そんなものなのかね。





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