2024年2月27日の日記

 この頃、四回生の春。就職先は決まったがかと言ってぬか喜びもできない。そんなに時期に差し掛かっている。

 どうにも大学の同回生をみると、就職が決まってから以降はバイトで日銭をほどほどに稼ぎつつ日々のサイクルを獲得し、資格の勉強を片手間にあとは遊び惚けるのが通例らしい。仕事は始まってから覚えるということだそうだ。

 自分の業種の場合、これが通用しない。画力は日々の積み重ねだし、学校によっては卒業制作で自分の実力と明確に向き合いながら作品を練り上げたりする。自分はそこには与していない。と言うより、それをやっていない。ほとんど一人暮らしニート生活。ゆるみ切った生活リズムは怠惰の限りを尽くし、枕から頭を持ち上げることに毎回絶望している。毎日絵は描いているにせよ負荷はほとんどない。必要性を実感しないとここまでひどい生活になるものかと自分にびっくりした。よく、「何かしないといられない人」とかを見聞きするが、自分は「何もしなくても何となくいられる人」であるのではないだろうか。幾度となく憧れている、生産にまつわるありとあらゆる行為がライフワークとして結びつき、確固たるルーチンを画一させている人とは対照的である。ない物ねだりよろしく、私にはそれが「ない」。

 のっそりと起き上がって、家の掃除や洗濯をyoutube片手に行う。こんな身の上だが家事全般をすることに苦痛を感じることがない。惰性でやっても成果が見えるからだ。炊事もそうだが最低限のルールを抑えてしまえば適当にやっても自分の血肉になる。飯は作ればまずかろうと「食える」。

 ただ、少なくとも世の中で仕事しかり何か自身に対して前進している実感を呼び起こす行動はそのようにはいかない。惰性でやれば結果は遠のくし、最低限というものは存在しないのにも関わらず120点が求められている。(勝手にそう思っている)

この感覚がほどほどにしんどいなあと思ってしまう。

 こうやって言語化していくと、私が創作とは対極の情動で生活している人間なのだなと絶望する。それは自分の身の回りの作家が、私が好き好んでいる「惰性で出来る家事や日常の些事」を毛嫌いし、「工夫を積み上げることで成果をなす創作行為」を愛してやまないことにも通底する。

 ラジオを聴きながら近くのドラッグストアで買い物をする。商品棚の間のスペースで誰かとすれ違う時、無精な自分の顔が衆目に晒されている事実を認識する。
 たまたま商品を選ぶタイミングと店を出るタイミングが一緒になってしまった人がいた。気まずいという思いと、「自分のことなんか誰も気にしちゃいないよ」という頭の声と、それでも勝手に先走る自意識が混濁して眠たくなってしまった。

 意識や思考を一か所にまとめておかないと、私はすぐに不安になって他人の言葉が欲しくなる。ラジオを聴くなどして特定のコンテンツないし言葉を外部から摂取して自分を忘れようとする。

 実際その手の言葉や娯楽に耽溺している間は非常に心地よいのだ。自分の心が身体から切り離されて、他人の情緒にフリーライドしている感覚。ただそれが終わるときが著しく寂しいので、あまり健康的ではない。加えて、続けていると自分の感情や記憶をどのように言葉でまとめていいかわからなくなる。多分これも訓練で、一定時間自分の情感に筋を通すことを怠けると、いざ何かを表現しようとするときに散漫になってしまうのだ。

 今この文章を書いている間も、いろんなところに気が散るし、話題を全く統一できない。今日の話をしようと書いている最中に先週の出来事が思い出されたり、しかもその情感は今話している内容とは全く別の感情なのだ。面白い番組がないかといろんなチャンネルを回し続けて結局何も観ないテレビ前のお茶の間みたいに薄い。

どうにかしなさい。イエスマム。

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