散文 日記 メモの処理

・現代では人間の持つ有害性をなるべく漂白しようとするのが一応の動きとして存在するが、もう少し「なぜ私たちはそう思うのか、誰かに危害を加えたり、見下したりしたいのか」をもっと具体的に見つめる必要があると思う。 安直なスローガンで教化された道徳観は、新たな差別の萌芽になり得る。

・最近アマプラの
「この動画は再生できません。」を観た。
生々しい質感の会話を得意とするかが屋の2人が、物語の「解説パート」に入ると途端に段取り演技っぽくなる。因みに前座で行われる他の役者さんパートはかなり段取り臭い。
 それでも生配信の電話シーンとかで見るような素人とエンタメのプロの会話のずれ感とかめちゃくちゃ上手くて、それ自体は好きなのだけれど。
序盤の会話は質感めちゃくちゃあった。解説パートは急にドラマっぽい。それだけ。

・安酒、ギター、退廃っぽいノリ、何故か暗くしてある部屋、丸眼鏡etc…
この手の文化圏は、世間的な「ちゃんとした人」からはズレた雰囲気を絶妙に好む。精神疾患とか、発達障害とかの要素も好む。ついでに言うとamazarashiの曲とかもすげえ好きだったりする。「傷」って言葉も好きだったりする。
 けど、ケンカ等の暴力には走らないらしい。もしあったとしても「クスリ」なんだとか。
 でもあの文化は「ファイトクラブ」メチャクチャ好きそう。私も好きだけども。

・教育によって施された強迫観念を「呪い」って表現するのメチャクチャ良い気がする。
 「洗脳」っていうより、「呪い」なのだよ。
 洗脳って言葉が持つほど全ての価値観まで満たしてないけど、どこか行動原理にべったり張り付いてる感じ。呪いと言うにはふさわしいかもね。

・ゆきむらという字列がひろゆきっぽい人はnoteでロックっぽいことをたくさん書いて支持を得ているらしい。twtimezを開いてみたが面白いことに全く関心のない物事に多くの人が関心を寄せているという構図そのものをしっかりと可視化できて楽しい。完全に別の文化圏だ。
 個人的に「マジ」っぽい雰囲気が苦手だ。程よく群がって程よく孤独な人が好きなのかもしれない。「孤独!病み!まぢむり!」の人達には独特の連帯意識があるらしい。なんか別種の動物を見ている気分になる。人のはずなのに動物って言いたくなるのは、あの手の人たちは行動の動機が他人に寄りすぎてる気がしてしまうからだと思う。最終的に自分がどうしたいかみたいなポイントがやや希薄な気がして、安直な言葉で安易に感化されやすいイメージがある。個人の感想ですよ。
 きっとどこかでまた、安い言葉に救われて、「人生が変わった」って言う人が出てくるのだろうなあ、私が本を読んで感化されるのと同じように。
 「感化されやすさ」を何故嫌うのか、みたいな部分が前より分かってきた。多分、私はまだ我儘な部分を周囲に許容されて生きてこれたから、「自分勝手に」物事を決めるという行為にある種の信仰を抱いているのかもしれない。(なのでみんなが好き勝手にしたら社会は成り立たないみたいな説教を聞くと、正しいと思う反面、やだなーって思う)だから自分の決定を行使することにあまり抵抗がないし、「やるぞ、俺はやるぜ!」みたいに肩に力が入るわけでもない。普通のこと。
でも、そうじゃない人もいるのかもしれない。自分で決めるってことは、ある種自己決定の納得感を如何に得ているかが要点なんだけど、そこの納得感がなかなか得られないまま時間が経過してしまう人はいる。限りなく情報を集めても、愛する人から言葉を貰っても自分で一歩を踏み出すことに抵抗を感じる人もいるのかも。
だから彼らは信じるのだろう。「オレはオレなんだぜ、誰にも邪魔されないぜ」みたいなことを声高に標榜する人の後光のようなものを。
けど、その人の言っているそれって、結構普通のことなんだけどな。
まあけどこう言うことを言えば「私は普通じゃない!」って自意識が加速しそうで、なかなか怖いね。不安定な人々に幸あれ、みんなで程よくグラグラしようぜ。

・美味しいご飯やをグーグルマップで見つけ、そこに行くか行かぬかを吟味する時間、この妙味。行くコストとご飯で得られる効用を考える。選挙に行くときの心の作用とまんま同じ過ぎて面白い。




・・・・とまあ、まとまりがないねぇ。それでもツイッターに書けるほど言葉が短文でまとまっていない。正直このダルい長文でしか言えないことがあったりする。けどまあ、記録としては有用だと思う。
基本的に考えを巡らせて勝手に独り相撲して、あまりその思考を他の人に話したりすることもなく悶々とするので、noteがあるのは助かる。誰かが見ているかもしれないし、誰も見ていないかもしれないくらいの距離感で言いたいことだけ吐き出している。
 そう考えるとnoteで収益出している人すごいな、一応「お金を払って読む価値のある文」を執筆しているわけで、それは強い他者性をひりひりと感じながら書くということだ。ちょっと覚悟がいるんじゃないだろうか。
 まあ、でも「お金を払ってまで読みたい人」という関所を作ることは、ある種自分の性質みたいなものがある程度許容されている人に文章を開示することになるから、それはそれでクローズドな空間で良いのかもしれない。

まあ、そんな求心力私にはないので、直接的な関係は無いのだけれど。


 にしてもTWtimez見るのは面白い、その日のtwitterのバズツイートをざっと見れるサイトだけれど、全く知らないコミュニティが独自の勢いを持っていたりして、同じ言葉を介する別の国の様子を見ているみたい。反ワクチンの人たちの言葉はなんでかいつも必死そうだ。「同調圧力に負けない!」という同調圧力でギッチギチになっている。あと猫はいつも人気、あとエキセントリックな自己画像と、主婦と思しき人が放つ世の中への呪詛と、退廃的っぽさを醸し出す大学生の小粋なツイートと、ソシャゲの新イベント発表が大体を占めている。

 こうやって見ると、ネットというかSNSという媒体そのものが様々な集団を客体として見れる機能を持っていることにびっくりする。観察者にもなれるし、被観察者にもなれちゃう。私は私以外の人達を傍観することもできるし、私の動きは「その他大勢」として観察されてしまう。ちと怖いな。

この文章読む人は居ないだろう、多分。

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