コード 内省 薄氷 コミュ障

・実家の母が下宿先に来た。都内で昔ながらの友人に会うためらしく、宿泊先として利用した次第だ。

 私と母はかなり会話をする方だ、むしろ他の家族と比較したら会話しすぎる部類かもしれない。ある種自分のしょうもない長話を聞いてくれることに甘えているのかもしれない。兎角、よく話した。

 よく話したのだが、では自分の内心が詳らかに相手に伝わったとは思えなかった。あくまで、「母に伝わるコードを選択して発信している」といった具合だ。

 この状態がそれなりの時間続くと、普段の自分とは違う頭の使い方になる。「聞き手を想定した語彙の選択」というものは、内省や自分の感じたことを具体化する行為とはかなり対極の性質を帯び始める。
 その時、他人の言葉で自分の心情が区分けされていく感覚をどこか覚え、その絶妙な「ずれ」に着目する時間を会話の進行が押し流していく。

 高校時代の友人との会話を思い出した。私が相手の言葉を自分なりにくみ取って「○○ってこと?」と応対すると、彼は「いや・・・そうなんだけど、そうじゃなくて・・・。」と言葉を濁していた。彼の感じていた「ずれ」は、どこまで語彙が豊かになっても表現しつくせないものなのかもしれない。

・その点で、常日頃から同年代の友人と会話する習慣がある人のワードチョイスは、ある種個人の触感に伴わない最大公約数的な言葉選びをし続けているのかもしれない。そう考えれば、大学で大勢を交えた会話が得意な同級生が「自分が何を感じているか」という内省的な問いを求められた時にまごつくのも理解できる。

 逆に前述の私の友人や私等の、比較的孤独な時間が一日の大半を占めるような連中はその逆で、長い演説や自分の考えをくどくど語り散らかすことはそこそこ得意なのかもしれない。そう考えると、コミュニケーションの性質はかなり個人の時間の使い方が反映されているのかもしれない。

ただ、この考えを軸に安直に他人をジャッジしたくないな~と思う。「コイツの話し方○○やな・・・」みたいな。偏見や差別かそうでないかは、他者(個人)を判断するスピードに左右される。

「あの人と二年近く交流したけど、あの人は○○な人だ」というのと、
「出会った瞬間にあの人は××な人だとわかった」というのは印象がかなり違う。

 内省のに費やす時間が大事だとは思わない、他者と会話によって開かれる思考もあると思う。ただ、そこに使われる語彙は確実に違う。自分は、他人と会話するときは「モールス信号を使ってほかの船にメッセージを送っている」ような感覚だけど、その逆の人もいるのかな。きっとたくさんいると思う。内心を形作る記号は言葉だけじゃない。人によっては映像かもしれないし、音かもしれないし、匂いかもしれない。

 そう考えたとき、「同じ言葉使って他人と交流できるのやば~」って思う。

やばい。まぢやばい。

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