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INTJ「殺意の目」はこの身を亡ぼす



INTJの検索ワードで「殺意の目」というものが有ります。いくつかのサイトを読むと複数の解釈が紹介されています。

■私の定義する「INTJの殺意の目」について

私自身もINTJを自認しており、その実体験から「INTJの殺意の目」とは次のような場面を切り取ったものでは無いかと捉えています。みなさんの想定される「殺意の目」とは少し異なるかもしれませんがこの場を借りて文字化してみたいのと、私の場合、これがなかなか「取り扱い注意」でも有ったりするので自分への戒めも込め、ざっくりまとめてみようと思います。

■例えばその①「目力強く一点凝視しているとき」

例えば、私が「一点凝視」をしているとき。日常で何かの事象に触れたことをきっかけに、その背景や本質、意図といったものを探ろうと追想、類推、推し量っているところです。物事を深掘りしたり、色々な可能性を想像しているため、体感としては顔のパーツがググっと中心に寄っている感じです。家族や職場のスタッフから「目が怖いよ」「何か気に障ることありました?」などと言われます。(普段のときでも顔が怖いとは言われます…)

対人場面であれば、誰かの言動を見聞きしたとき、「こんな言い方をするからには何か感情的なしこりがあるのかな」とか「この振る舞いは〇〇さんに対する無意識の当てつけなのかな」と相手の心根を探り、事物との関係性や精神力動を考察し、その後ろに在るものを読み当てたくなる機能が勝手に働き出します。

そのようなとき、私は「まるで見定められているようだ」と相手に不快な思いを抱かせているかもしれません。ごめんなさい。こればっかりは生存戦略上、致し方なく身に付けたスキルであって、これをしてどうにかこれまで世間を渡ってきたもので悪気など全く無いのです。確かに周囲が良い方向へ向かえばこそと濫用している自覚はあります。しかし、決して悪徳なことに用いる意図はありません。そもそも悪徳って不合理で非効率なのでINTJの生活信条にはそぐわないですし。この場を借りて身の潔白を訴えたい。

■例えばその②「顔の表情が失せ焦点がどうも合ってない時」

例えば、顔から一切の表情が失せ、目の焦点がぼんやりして合ってなさそうなとき。一言でいえば「白昼夢」を見ているような感じでしょうか。このようなときは、意識が別のところに飛んで、目の前に映る視界とは異なる視覚世界に没入しているところです。ただ、その視覚世界が、相当にクリアで緻密で臨場感あふれる光景で。ちょっと気を抜くと目の前のことを差し置いて脳内に展開される視覚世界に入り込み、そっちに意識も感覚も感情も持っていかれてしまいます。現実と非現実のあわいを行き来するように、現実を現実的に捉えきれない感覚に囚われることが有ります。

というわけで、私にとっての「INTJの殺意の目」は概ねこのような状態にあることを指しています。

上記のときの鋭い視線や冷めた表情が他者には攻撃的な印象だと受け取られ、結果的に自分自身に不利益を与えてしまう。そのような因果を導き出すことも出来るかもしれません。ただ、それ以上にリアルに自分の身に危険を及ぼしかねない、そんな危なっかしい代物が私にとっての「殺意の目」であったりします。

■「INTJの殺意の目」には危険が孕んでいる

私がこの状態にあるとき、大抵、息をつめています。奥歯をグッと噛みしめ息することを忘れています。我にかえり「いま呼吸止まってたわ。」と息苦しさで慌てて息をつくことがまま有ります。無意識のことなので気を付けようが無いのですが、短時間であっても累積による長期的な健康リスクは有るのではないかと推測します。脳に酸素が行かないと作業の能率は低下しますし、血圧など循環器系統にも良くないことでしょう。どっぷり入り込み深刻になり過ぎると心拍も速まり動悸も出てしまいます。そのため、対策として自己流で深呼吸や胸郭を拡げるストレッチを心がけています。が、真剣みが足りず一向に続きません。

また、意識が内的世界へ耽溺してしまうと「いま、ここ」に足を付けていられなくなり、内面に横たわる虚無や無力感と向き合わざるを得なくなります。自分にとってそれが結構しんどかったりします。なので私は仕事でも休暇でも、しょぼいタスクを詰め込んでそれらを切れ目なくこなすことによって現実世界に錨を下ろし虚無の波にさらわれないようにしている節があります。

私が妄信的に好んでいる、いわゆる役割とか任務とか責任とか信念みたいな類も、突き詰めればそんな曖昧で不安定な自分に対する耐震補強工事のようなものに過ぎないと思っています。よって私の場合に限っては、それらは口ほどに立派なものでは決してないのです。

それと車の運転。私にとって車は自転車代わりです。毎日、いつでも気軽に運転するがあまり、しょっちゅう意識がお留守になるので注意が必要です。そうゆうときは、脳内ではリアルな映像やストーリー、仕事のシュミレーション等がつらつらと流れ、運転は完全に「オートマチックモード」で無意識によって制御されています。どうゆう仕組みかよくわかりませんが、一応、事故や違反を起こすことなく済んでいるので上手いこと身体が反応してくれて安全走行できているのだと思われます。

ですが意識が戻ると、「今の左折ちゃんと巻き込み確認してたか?」「道路状況きちんと目視していたか?」と全く自覚の無い自分が怖くなることがしょっちゅうです。万一、事故を起こしたとき「意識がお留守だったもんで…」なんて絶対に言えないし、とても償いきれないし、冗談ではなく本当に身を亡ぼしかねない…。つくづく心して自動車運転に臨まなければと念じるのですが、それにしたって自分が常に心してゆけるのか一抹の不安は消えないのです。

というのも、学生時代すでにやらかしており、正直、自分に自信が無いのです。学生時代、通学路を自転車で走っていると、想像の世界にどっぷり呑まれ、意識は完全にどこかへ飛んでしまい、角を曲がり切れず自販機に突っ込んだことが有りました。また、前方を歩く人に後ろから自転車で突っ込みそうになったことも…。幸い寸前のところで急ブレーキをかけたため大事には至りませんでした。しかし、当然ながら相手の方は、驚いてこちらを向かれ、私は物凄く怖い形相で睨み付けられました。あの頃の私は「本当に自分、大丈夫か?」と自分を疑わずにはいられない何とも心許ない状況でありました。

■内向的直観(Ni)が「殺意の目」を引き起こす

これらビジョン、想像、洞察、シュミレーション、妄想といったものをひっくるめて私は「内向的直観」(Ni)だと把握していますが、そのNiは私に「INTJの殺意の目」を引き起こさせ、ついにはこの身を滅ぼしかねない事態まで引き起こしかねない、私にとってそんな存在です。しかし一方で、私はこのNiによって生きる指針を定め、暗中のなかカンテラ代わりにして手探りでここまで歩を進めてきたのだと認識しています。そうゆう意味では、Niに対する確信が私を私たらしめているのであり、それ故のミスや屈辱や不協和もついて回りますがそれもひっくるめて私なのだと受け止めています。

私が想定する「INTJの殺意の目」についてまとめてみました。案の定、Niの慢性的過大評価、バイアスに満ちたひとりよがりなものになってしまいました。つまりはNi依存、これにすがっている限り仕方無いですね。というわけで、毎度ながら、まとまりを欠いた内容で失礼いたしました。

以上、長文、駄文にもかかわらず最後までお付き合いをいただき有難うございました。





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