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世界に「男」などいない、人里はなれたマリネ、マンPのGスポット、愚民博覧会、誰よりも本を愛す、湿潤革命、酒は百薬の長介、中国以外全部沈没、

五月九日

妊娠出産期は、体液や血、お乳やよだれなど、ぬるぬるする濡れたものとひたすらつきあって行く時間であるといえるが、それら身体的な現実は、忌避されてこそ、現代都市の高度に情報化された社会が成り立っているという実感がある。
乾いているからこそモノは交換され、価値は数値化されるが、濡れてぬるぬるしたものは交換できない。

中村祐子『マザリング 現代の母なる場所』「第一章 言葉を失った私と、あなたへの私信」(集英社)

午前十時四二分。紅茶、ミックスナッツ。寒い。寒暖差のボディブロー。ひさしぶりにダウンジャケットを着ながら書いている。しばらく暖かかっただけに残念だ。薬剤性鼻炎はもうそれほど深刻ではない。ナザール断ちに成功したと言っていい。ナザールには恨みはない。歯の根元の痛みはまだある。いまのブラックニッカを飲みきったらとうぶん晩酌はやめにする、と決めた。酒は悪友。悪友というのはたまに顔を合わせるからいいのだ。そういえば僕は酒を飲まないためにイスラム教徒になろうかと本気で考えたことがある。井筒俊彦に心酔していた時期が長かったので『クルアーン』にも興味があった。古典アラビア語を学ぼうと思って昔やっていたFacebookでダマスカス大学の学生に片言英語で直接メッセージを送って知り合いになったものの、そのあとやたら「入信を勧める」メッセージが来るようになって、日本人ムスリムまで紹介されて、ちょっと気後れしたので、途中から何も返信しなくなったのを覚えている。この種の過去の非礼を挙げだすとキリがない。僕という人間の半分は非礼で出来ていて、もう半分は非情で出来ている。こんな人間と知り合ってしまった人間には同情を禁じ得ない。さくやひさしぶりに一句作った。

 春の夜の ちんぽこをいじりながら ニーナ・シモン

岸田秀『古希の雑考 唯幻論で読み解く政治・社会・性』(文芸春秋)を読む。
この人の本は見付け次第すぐに買ってすぐに読む。最初に読んだのは『性的唯幻論序説』でそれから『ものぐさ精神分析』を読んだ。岸田によれば、「人類は本能が壊れたため、この世界の中でどうしていいか判らず、滅亡しても不思議はなかったが、本能の代替物として自我というものを作り、自我をよすがとして辛うじて生き残っている動物」(本書「家族という文化装置」)である。その自我は現実的根拠がなく、幻であり、ひじょうにもろくて崩れやすい。だから人(あるいは人の集団)はこの自我がおびやかされることを何よりも嫌う。岸田はこのテーゼを人事百般に応用する。「アメリカのイスラエル贔屓」という素人目には不可解な現象も彼の手にかかればそれほど不可解な現象ではなくなる(本書「アメリカはなぜイスラエルを支援するのか」)。はじめ私は彼から「直観だけを頼りに持論を展開している知的野蛮人」といった印象を受けたが、それはいまも変わっていない。はっきり言って(当人も認めているが)ほとんどの著作は『ものぐさ精神分析』の二番煎じ三番煎じであるのだが、岸田ファンはそういうものでも喜んで読む。おしなべてファンというのは贔屓の作家に対して「新規性」など求めないものである。「いつもの名調子」を期待しているのだ。細かい自説批判なんか求めていない。それは学者のやるべきことであってエッセイスト(雑文書き)のやるべきことではないからだ。エッセイストは何よりもまず読者を楽しませなければならない。忍耐を強いてはいけないのである。
きょうはこのあとパスタ食って新聞読んで文圃閣に行く。やはり週一度は太陽の下で長時間歩きたい。でないと気が滅入りやすくなる。ほんらい私は野生児であって山野を跋渉しながら逞しく生きたいのだ。少なくともそうした自己規定に陶酔していることだけは確かである。「俺はうじうじした本の虫なんかじゃない」というポーズを取りたがっていることだけは確かである。メメント森進一。おふくろさん殺人事件。長嶋茂雄財団理事長殺人事件。
【備忘】26000円

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