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生きるのに飽きている<人びと>

六月十六日

「沢尻エリカがブーたれて総スカン」の一件だと、私はたまたま、それをテレビで見たんだな。沢尻エリカの主演映画が公開間近で、「あちこちにプロモーションで顔を出さなきゃいけない」という状態になっている時期の一瞬で、テレビの生番組で「やる気がでない態度」をモロ見せにしているのを見た――たまたま、私のテレビが映っていたので
それで私が思ったのは、「よっぽどつまんない映画でつまんない役をやらされたんだな」ということで、「なんでこんなの、事務所は受けちゃったんだろ。ああ、バカらしい」と思いながらやっていて、それが終って「ああ、せいせいした」と思うのも束の間、「公開です。プロモーションです」で、またあっちこっちに引っ張り回されて、同じようなことを聞かれて、身にしみない同じようなことばっかり言わされて、「もう、いい加減にしろ!」でキレてしまった――その不機嫌を正直にも丸出しにしてしまったんだと、思った。

橋本治『最後の「ああでもなくこうでもなく」:そして、時代は続いていく――』(マドラ出版)

正午起床。りょくちゃ、ちょこ、うずらのたまご。梅雨入りで長歩きが難しい。今日も駄目かもしれない。駄目といえば湯浅も駄目だろう。九回に二本打たれて逆転って、おまえはバッピか。なにもかもが駄目だ。隣の爺さん問題(TJP)は、爺さんが死なない限り解決しないだろう。やつはまだとうぶんくたばりそうもない。どうしようもない奴に限って長生きするのが世の常。五〇歳以上の人間に一律の人頭税を課すればいいのに。長生き税。もっとも俺からすれば二十歳以上の人間はみんな死に損ないなんだが。厭世的な人間をもっと増やした方がいいよね。まあともかく一軒家を探したほうが良さそうだ。

ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(今村仁司・他訳 筑摩書房)を読む。舐めるように通読した。もうひとつの主著とされる『消費社会と神話と構造』は読んでいないが、訳者の一人である今村仁司いわく、本書のほうが思想的には重要らしい。俺もなんとなくそう直観する。なにもかもがシミュレーションと化した平面的な<世界>ではもはやどんな「反体制的言論」もガス抜き的に消費される商品に過ぎない。どんな「過激」もけっきょくは「資本主義」を肥え太らせるだけだ、というこれまた陳腐な批判もまた同様(ジョセフ・ヒース/アンドルー・ポター『反逆の神話:「反体制はカネになる」』早川書房)。そんななかでも「死」は象徴交換的な破壊力を持ちうるんだ、とボードリヤールは言いたげだが(「誤読」でもいい)、三島由紀夫のあの劇場的な割腹自殺もけっきょくマスコミに好個の話題を与えただけだったことを思うとどうしても空しい気持ちになる。どいつもこいつも「三島の死」をネタにして書きまくったし喋りまくった。「三島市場」が賑わえば賑わうほど三島の「暴力的訴求力」が薄れていく。すくなくとも三島が嫌悪していた(らしい)、戦後民主主義下のからっぽでニュートラルな日本(日本人)が、ドラスティックに変わることはなかった。三島もそんなことははじめから期待してはいなかっただろう。彼もまた「俗衆」と同じくらいに薄っぺい精神しか持ちえなかったからだ。なにしろ「三島由紀夫」を模倣的に演じることでつねに頭が一杯だったのだから。だから私は「自殺」にはもはや何の希望も見出さない。「精神病」や「絶望死」による微々たる混乱も<現社会システム>は「織り込み済み」なのである。「人々」にとってもはや何も驚くべきことは存在しない。日々報じられる「事件」にいちいち驚いたり怒っているように見えても、それは惰性による対他もしくは対自的な表層演技であり、それは、「大変なことが起こったぞ」と慌てふためくことの出来る<非日常>への渇望の表れに過ぎない。議事堂襲撃事件であれ元総理射殺事件であれ、何が起こっても多くの人は「またか」としか思っていない。日常とはこの「またか」に浸食されながら生きることなのである。この凡庸なニヒリズムと終わりなき倦怠を埋める「何ものか」がどこかにあるだろうか。あるとすればそれは、「無化」をひたすら志向することのうちに、あるかもしれない。徹底的な堕落。生存の拒否。宇宙論的怠惰。「現象」圏からの離脱。<生物の集団自決>。

午後八時、友人と温泉。九〇分ほど湯に浸かる。ほぼ貸切で極楽でした。

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