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書いて楽になるなら、恐慌、

二月七日

青年時代(またその後も)、私の想像力は一方では空想科学小説、他方ではギリシア古典により培われた。そのせいで、いま目の前にあるものが私にはいつも現実の些細でつまらない断片のように見えてしまう。まことにヨーロッパ文明の基礎となっている文献の一つにおいてボエティウスが語っているように、諸々の天に比べれば地球は広がりを持たない点でしかないのだ。それなのに、このことに思いを致す人の方が、忘れることにした人より非「現実」とされるのは何ともおかしなことである。

スティーブン・R・L・クラーク『ポリス的動物:生物学・倫理・政治)』(古牧徳生・訳 春秋社)

午前十時五分。紅茶、チーズをのせたレトルトのビーフカレー。チー牛か。朝からカレーといえばイチロー。日米通算4367安打。「強迫さん」が昨夜からやや強めに出ている。爺さんの出す音が気になる。その存在が気になる。俺のなかに無断で入ってくるな。でもなぜかいまそこまで苦しくはない。集合住宅暮らしはこれが最後だと決めているからか。糞ジジイと書かずに爺さんと書く日の俺はわりと機嫌がいい。「殺さないだけで立派な親孝行」という川柳をむかしどこかで聞いた。これを少しいじるなら「殺さないだけで立派な隣人愛」。とにかく「聞き流すための努力」をしないことが肝要だ。そんなことは出来ない。音が気になったときはきちんと誤魔化しなく「イラッ」とすること。ただ殺したり殴ったりするのは良くない。なんとなくだが私はそういうことは良くないことだと思う。「どうせあんな汚い老人は十年後には死んでいる、ろくな死に方はしない」と思って怒りを鎮めろ。自分の平凡な邪悪さに辟易する。ちょっとピスタチオ食いに行くわ。待ってて。
きのうは午後三時から二時間ほどコハ氏と閑談。人里離れたどこかに小屋を作りたい野望などを伝える。小屋の名前はもう決まっている。厭人庵。「ニート・引きこもり」系のマガジンは五か月以内には出せそう。マガジンというよりジンに近いものになりそうだけど。蒸留酒じゃなくてZINEね。
さっきあまり苦しくないとか言ったけどやっぱ苦しいわ。「自分はそれなりに静かに暮らしているのに」という思いが強いからこそ「被害者意識」が膨張してしまうのかもしれない。「引き合わない」と。とすればもう静かに暮らすのを止めようか。連日ロックフェスでも開こうか。落語の「三軒長屋」をいま思い出した。あれは志ん朝が一番いい。また「ドゥン」が聞こえてきた。もうだめだ。まじで絞め殺したい。落ち着け落ち着け。いまは図書館通いよりも厭人庵を作ることの方を優先すべきではないか。いっそのこと隣の爺さんに相談しに行こうか。「隣人のがさつさに我慢できなんいですよ」と。いぜん爺さんが送電を停止され、俺が金を貸したときに、「困ったことがあったら何でも相談して」とか言ってたからな。あのとき「おなたが隣にいることが最大の困りごとなんですよ」と口から出そうになったことが昨日のことのように思い出される。
『シャーウッド・アンダーソン全詩集』(白岩英樹・訳 作品社)というのをぱらぱら読んだ。彼の『ワインズバーグ・オハイオ』は何度読んだか分からない。間違いなく俺が最も愛する小説。あの「グロテスクな人々」は私だ。私は彼の詩は読んだことはない。詩よりも散文を好むのは現代日本の読者に広く共通して見られる悪癖といえる。(心に余裕が生まれれば)プロジェクト・グーテンベルクのサイトで原文を読んでみたい。

醜悪な殻のなかに何百万もの生が閉じ込められている。そして、この手にはそれをすべて切り裂けるナイフが握られている。そんなことを考えてみるのもなんらかの価値があるだろう。

という抜き書きがノートにあった。やはりいまの俺のなかには殺気が満ちている。マスターいつもの。阿部寿樹。

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