見出し画像

「都会で変わらないで」系の流行歌の事とか、エゾクロテンの毛皮の事とか、「此木以不材得終其天年」の事とか

二月五日

親がきて、買い物に行ってきたので、書くのが遅れた。どこいっても人で混雑。すっかり消耗しました。まだ地方都市で消耗しています。
先々週読んだヴァルター・ベンヤミンはボードレール論でエドガー・アラン・ポーの短編『群衆の人(The Man of Crowd)』に触れ、これをいみじくも「探偵小説のレントゲン写真」と評していた。ポーのこの作品は終始なにも犯罪らしいことが起こらず、ただ追跡だけがある。群衆はつねに都会的匿名性をまとった得体のしれないカタマリである。そんな群衆のイメージは人々を心許なくさせ、「無常感」を抱かせないではおかない。
愛や別れを主題とする流行歌は、群衆と「ある特別な人」とを効果的に対比させることで、人々を感傷にひたらせてきた。「人ごみに流されて変わってゆく私を」(荒井由実『卒業写真』)、「ラッシュの人波にのまれて消えてゆく後ろ姿が」(竹内まりあ『駅』)、「東京で変わってくあなたの未来は縛れない」(斉藤由貴『卒業』)、「ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」(太田裕美『木綿のハンカチーフ』)といったフレーズで喚起される「切なさ」の本質を成しているのは、人々に潜在する「群衆内不安」ではないかと思う。それは、群衆のなかに「あの人」が私を忘れて消えてゆくことへの「不安」であり、また私が匿名のなかに埋没してしまうことへの「不安」でもある。「時間の流れ」のなかで変わらないものなどほとんどないことに人はつねづね耐えがたさを感じている。不安にさいなまれている。その不安を群衆に仮託した歌が人々の琴線に触れたり涙腺を刺激したりするのは、そのためだ。ひところ私は『木綿のハンカチーフ』をユーチューブで繰り返し聞いていたが、まいかいかならず「いいえ草に寝転ぶあなたが」のくだりで涙ぐんでいた。わんわん泣くこともあった。いい年して目を赤く泣き腫らしていた。情緒不安定だった所為もある。でもこの詞をあの筒美メロディで歌うのはやはり「ずるい」。反則だ。夏の光と夏の風のなか、河川敷の坂になった草原のうえで白い半袖シャツの男子が寝転がっている。「懐かしさ」の余り哀しくなる。隣の爺さんのヤニ臭とガサツ音に苦しめられている今のこの殺伐とした状況からみれば、なんと眩しい光景だろう。なんてイノセンスなんだろう。もう二度と戻っては来ない「あの青春」。楽園喪失の哀切感で死にたくなる。言わずもがなだけど、「草に寝転ぶ」ような彼氏が僕にいたことはない(惚れていた男はいたが)。にもかかわず、ただただ「懐かしい」のだ。全然おかしなことではない。こういうことはよくある。「懐かしい未来」なんて語義矛盾もどこかで通用しているようだから。

金曜日に引き続き、フェリックス・ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか』、スラヴォイ・ジジェク『真昼の盗人』を読む。「動的編成」「脱領土化」「モル的」「分子的」「リゾーム」とかいった彼特有のテクニカル・ターム(というか哲学的ジャーゴン)が断りなしひっきりなしにぞくぞく頻出するが、ふしぎと五里霧中チンプンカンプンとはならない。没入して読み進めていると必ず閃きが起こる。胃の腑に砂金が落ちる。フェリックスの呻きと反抗の通奏低音を聞き分けないといけない。そして僕もその呻きと反抗を独自に模倣しようと意志しなければならぬ。彼のカオス的理知性に貫かれた言語は、「即時の反逆」を呼びかけている。その必死の呼びかけにこちらもなんとか必死に応答しようとするとき、点と点が繋がって線になる。というより点が垂直的になって僕の方に伸びて来る。既存の偏りある抑圧的権力関係網を内側外側から食い破るには「正攻法」ではまったくだめで、「ここでロドスだここで飛べ」式の幾度にも渡る執拗な認知的・行動的跳躍によって、何ものに従属せず何ものをも従属させない「反規定的心性」を、周囲へとゲリラ的に伝播させていかないといけないのだ。「労働」「家庭」「教育」「医療」「学問」などほとんどあらゆる分野に見られる「記号への隷従性」をどのように浮かび上がらせるか。そしてどのようにしてそれを「混乱」させ「解体」させるか。フェリックスとともに今後考えていこう。まだフェリックスの言語が脳内に反響していて興奮冷めやらぬ感じだ。

『選択』一月号は今日で読み終えると思う。エゾクロテンについて書かれた記事を繰り返し読んだ。かつてこの動物の毛皮を取るため乱獲された。品質がべらぼうにいいからだ。断熱性能と防水性能に優れた毛皮をもつ動物を毛皮獣と呼ぶ。ちなみにシベリア・カムチャッカを中心に産出されたクロテン毛皮を「ロシアンセーブル」といい、陸産のものでは「世界最高級」とされている(いわゆる「世界三大毛皮」といえばセーブル、チンチラ、リンクスとされているが、いずれも私の生涯には縁が無さそうなので詳しい解説はしない)。エゾクロテンは夏毛と冬毛が違う。夏毛はほぼ焦げ茶で冬はクリーム色だ。つぶらな瞳で愛らしい風貌をしているがキタキツネとも喧嘩するほど気性が荒い。かわいい顔して負けん気が強いといえば、阪神タイガース中野拓夢の顔が思い浮かぶ。分かる人だけ分かればいい。
それにしても、ラッコやビーバーなんかもそうだったが、たまたま良質の毛皮を持っているというだけでホモ・サピエンス(賢い人)に捕獲されまくるのだから、地上とは理不尽極まるところである。労働力や素材としての利用価値がゼロのほうが、人間に殺されたり酷使されなくて良い。
「商丘の大木」という『荘子』の寓話を思い出す。ある隠者が商丘という土地に出掛け、そこでとても大きな木を見つけた。近寄ってみたところ、枝は曲がりくねり、幹は空洞化し、葉には毒があり、しかも悪臭を放っていて、なんの役にも立たぬ酷いものだった。隠者はそこで学んだ。この木がいままで誰にも伐られずこんな大木にまで成長できたのは、この木がとことん役立たずだったからだと。
私もそんなそんな悪臭を放つ大樹になりたい。そして毒の果実を落とし、人々にかじらせたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?