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ラプソディ・オンデマンド、コジン的な事はセイジ的な事である、あいかわらず学がない、GACKT動員、

五月一日

流行によって魅力が作られて行くように、正義もまた、流行によって作られる。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午前十時二四分。緑茶。卵かけ納豆ご飯(パックから出してたからか卵の白身がすこし凍っていた)。離床後、百均で買った数字チャーム(9と3と8)を探してたんだけど見つからなかった。探し物というのはだいたいあるはずのないところから見つかるかそうでなければ探したはずのところから見つかるものである。モノはときどき自分から移動する、という説があるが俺はそうは思わない。探し物は何ですか、見付けにくいものですか、黒眼鏡。このごろネックレス作りが面白いんだ。恥ずかしいから首にはほとんどかけないんだけど。「お洒落」は滑稽と紙一重で、この紙一重にこそ「お洒落」の本質がある。それは「自己愛表現における命懸けの飛躍」なのである。けっして大袈裟なことを言っているつもりはない。いずれ「お洒落論」でその点を詳述したい。キーホルダーをはじめこれまでずいぶん「佐野グッズ」を作ってきた。きょうから五月だってさ。桐島部活やめるってよ。思えば遠くへ来たもんだ。いい年していまだに三十日まである月と三一日まである月がわからない。覚え方があるらしい。ニシムクサムライだっかかフジサンロクオウムナクだったかスイヘーリーベ―ボクノフネだったか。モーパッサンの短編が読みたくなってきたんだ。貪欲な男が老婆を酒漬けにして殺すやつ。モーパッサンは本国フランスでよりも翻訳紹介された諸外国でのほうが人気があるらしい。「モーパッサン全集」と検索すると春陽堂のものがいちばんよく出てくる。かなり古い。訳文が節くれだっていそうだな。俺の経験上、翻訳は新しいもののほうがいい。がいして文は清新だし誤訳も少ない。昨日の読売新聞によれば、いま「盛らない写真」が若者のあいだで受けているという。「盛る」ってそもそもどういうことなのよ。アタイはもう若者じゃないから分からない。就職が決まって髪を切ってきたときもう若くないさと君に言い訳したね。私は自分や他人の顔をみるたび「ああ顔って残酷だな」と痛々しい気持ちになる。「剥き出しの人格」をそこに見てしまうんだ。エマニュエル・レヴィナスのことをいま思い出した。

吉川祐介『限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話』(朝日新聞出版)を読む。
著者は、不動産系のユーチューバーとしても知られているようだ。財産価値のほとんどない土地を「将来値上がりするよ」と高値で売り付ける「原野商法」について書かれた章は興味深く読んだ。七十年代に土地投機ブームというのがあって、そのころはいまでは詐欺と認識されているこうした売り方も、ごくありふれたものだった。当時の新聞紙面にはその種の悪質な物件広告がたくさん見られる。いつの時代にも騙す奴はいるし、騙される奴もいる。
このまえ俺は、日本中の空き家を政府が買い取り(必要なら修理修繕し)それらを日本にいるすべての人間に無償で与えよ、と書いた。首相官邸のホームページでもこのアイディアを送信した。これは俺がいままでやった政策提案のなかでも最もラジカルで合理的なものだ。言うまでもなく土地は誰のものでもない(空気が誰のものでもないのと同じである)。だから土地の所有権など俺は基本的には認めない。土地への課税も認めない。この地上はどの生物によっても所有されることはない。でも現実には何ものかによって地上はすでに分割され所有されている。このことにまず怒りを覚えなければならない。ただ、個人間で行使される暴力を最小限に抑制し、富を「再分配」するためには何かしらの暴力独占機関がどうしても必要になる。いっぱんにそうした機関を擁する統治組織のことを「国家」という。「法の下の平等」の実現もそうした「国家」の強制力なしでは極めて難しいだろう。だから私は「国家」を肯定する。情緒的民族共同体としての「国家」は肯定しないが、「中立的」な再分配機能を主とした「国家」は肯定する。
そろそろ昼食。ブナシメジを炒める。私の彼氏はヤクルトチンポ。毛が伸びすぎるとあるのかないのか分からない。ああこりゃこりゃ。もう疲れました。【備忘】13000円。

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