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あまりにも何も起こらない日常に私たちは包囲されている、発狂しても泣いても、何も変わりはしない、

一月三十日

我われにとって重要なのは、考える主体、そこで自身を位置づける主体、そういう主体のいかなる形成よりも前に、何かが算え、何かが算えられ、その算えられたものの中に算えている人がすでに含まれている、そういう次元を我われはここで見ているということです。主体がそこで自らを認めなければならなくなるのは、つまり算えている人として自らを認めなければならなくなるのは、その後にすぎません。小さな子供が「僕には三人の兄弟がいる。ポールとエルネストと僕だ」と言うのを聞いて笑っている人の素朴な誤りを思い浮かべてみましょう。子供がこう言うのはまったく自然なことです。まず三人の兄弟、ポール、エルネストと自分が算えられます。最初の「私」、つまり算えている「私」のことを考えなくてはならなくなる次元が現れるのはその次です。

ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念(上)』「Ⅱ フロイトの無意識と我われの無意識」(ジャック=アラン・ミレール・編 小出浩之・他訳 岩波書店)

午前八時一五分。コーヒー。俺はコーヒーとはあまり相性はよくない。飲むとにわかに空腹感が起こる。冬はとくに。紅茶ではあまりそうならない。さっきまで布団の中でイギリスのTVコメディ「Mr.ビーン」をユーチューブで見ていた。ときどきビーンがカルロス・ゴーンにしか見えなくなって困る。コメント欄の先頭に「ビーンを見ると日頃のストレスが減る」というイギリス語による平凡なコメントがあった。我が意を得たり。しかしこんな傍迷惑ジコチューな中年男を見ながら痛快を覚えてしまう俺はなんという人間なんだ。病院のやつなんか「クソマジメ」な人間はたぶん素直に笑えないだろう。俺もほんとうはビーンみたいに振る舞いたいんだよ。ビーンもフロイトの言う「文明の抑圧」の産物と言えるかも知れない。笑いは本質的に「反抑圧」であり、そもそもはじめから「攻撃性」を多分に含んでいるものである。だから「ブラックジョーク」の類を好まない素振りを見せたがる人間のほうが「健全」だと言える。そういえば先週、ChatGPTに「面白いブラックユーモアおしえて」とためしに質問してみたらいわゆる「ポリコレ優等生」的な回答でうまくかわされた。それでいいんだよ。ずっと前に講談社+α文庫から出ている『ユダヤ・ジョーク集』というのを読んで度胆を抜かれたことをいま思い出した。「まだウブだった」と言えばそれまでなんだが。いまそれが手元にないのが残念だ。「アメリカ人の脳」のジョークを見つけたのはたしかこの本でだったと思う。
「松本人志はもう終わった。彼をテレビで見ることはもうないだろう」と「人々」が口にするようになっている。九十年代の彼の芸には「毒」があった。その「毒」はもう「一般受け」しなくなっている。なぜならげんざいの我々は清潔感(見た目)が何よりも重視される「ホワイト社会」の中にいて、こんごますますその傾向は強くなるに違いないから。これがオタキングこと岡田斗司夫の見立て。ビートたけしやマツコ・デラックスの毒舌にはもはや何の破壊力も認められないし、エガちゃんも気が付けば「(実は)いい人戦略」に余念のない凡庸な芸人に成り下がっている。ハマコーみたいな「どぎつい」代議士も今ではもうほとんどいない。みんな何だかんだいって「愛されたい」のである。というか「愛される」ように努力し続けられないような人間は「公人(準公人)」として生き延びることは出来ないのだ。

そろそろご飯炊けるな。いまからモヤシ炒めるぜ。そのあと二時間くらい散歩して、風呂はいって、酒を飲んで、午後六時には床に就きたい。はやく夏休みにならないかな。

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