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若者の地球離れ、肉離れ、エガちゃん離れ、

四月三十日

ただ考えない者だけが結論に達する。考えるとはためらうことだ。行動の人はけっして考えない。

フェルナンド・ペソア『[新編]不穏の書、断章』(澤田直・訳 平凡社)

明日は午前中に母親が来るというからおそらく日記を書く時間がない。だからいまのうちに書いておく。「午前中は寝てるから正午くらいに来て」といくら強調してもいつもだいたいそれより一時間は早く来る。何故だろう。この無神経さには苛立たされる。もっともこのくらい無神経じゃないと子供なんか作れないよな。見習うつもりはありませんけど。もういまさら喧嘩するつもりはない。ほとんどまいにち「世界」と喧嘩してるから。「きのう」図書館に行ってきたよ。愚民で溢れかえっていると思ってたがそうでもなかった。
菅付雅信『物欲なき世界』(平凡社)を読む。
若者の車離れ、若者の恋愛離れ、若者の結婚離れ、若者のマイホーム離れ、若者の新聞離れ、若者の読書離れ・・・こういう「若者の〇〇離れ」言説が猛威を振るうようになって久しい。なかにはそれなりに「統計的根拠」があるのもあるのだろうけど、私はその種の「若者論」にはきょくりょく近寄らないようにはしている。なんとなく鬱陶しいからね。「物欲は代替物」という遠藤諭の言葉に、「言い得て妙」と思った。たしかに人がモノを欲しがるのは、「賢く見られたい」とか「お金持ちだと認められたい」とか「流行に敏感だと思われたい」とかそういう願望を満たしたいからだ。そこそこ成熟した消費社会にあっては、生理的欲求を満たす為だけにものを買っている人間なんてほとんどいない(それはとても「みじめ(非文化的)」なことだ)。遠藤によると、成熟がもっとすすんだ今日では、そうした願望はモノではなく、行動とかエンゲージメント(たとえばSNSにおける「いいね」などのリアクション)などで表現されているという。本書とはあまり関係ないが、斎藤環によれば、人に会わないと欲望は減退するらしい。だから、ひきこもりの人の欲望はそうでない人の欲望にくらべて極端に低い、と。この低さを精神科医としての彼は危険視する。欲望の減退はひきこもりを強化させることはあっても弱めることはない。彼はひきこもりの回復の指標は消費活動の程度だとも語っている。二十代後半の一時期、僕はほとんど誰とも会わず、ひきこもりに近い生活をしていた。確かにそのころ欲望はいちじるしく減退していた。古書店にさえ行かなかった。世にいう「人間らしさ」の正体は欲望なのかもしれない。欲望というものは観点によって「善」にもなれば「悪」にもなるので、扱いが非常に難しい。おそらく「欲望」を離れようとするのも「無欲と思われたい」といった欲望であり、たぶんこの種の欲望は近年強まりつつある。バーコードおやじのバスがガス爆発したらしい。これは回文ではない。貝塚森太郎三十五号。めめんと森山直太朗。PPPP。エガちゃんバイアグラ飲み過ぎた。エガちゃんバイアグラ飲み過ぎた。これは回文ではない。シェルドン・ノイジー。

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