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落語は世界文学である

五月十二日

ガンさんという学生がいた。彼は、噂によると、三年ばかり前に、横山大観画伯の門前で三日間も座りこみ、弟子にしてくれるようにたのんだがダメだったという経歴の持ち主で、働きもしないし、仕送りもないのに絵をかきつづけているのだ。不思議に思っていると、べつの学生が、二日おきに血を売って生活していると教えてくれた。いわれてみると、なるほど、ガンさんの顔色は日ごとに青ざめていくように思われた。やがて、ガンさんは一週間ばかり姿をあらわさなくなった。学生たちは、
「ガンさんは血を売りすぎてフラフラとして倒れ、その倒れた所が馬の腹の下だったので、馬にけられて入院したという話だぜ」
と噂をしていた。

水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』(新潮社)

午後八時半。ワンダ・ランドフスカヤによるJ・S・バッハの平均律クラヴィーヤ曲集(Das wohltemperierte Klavier)第二巻を聴きながら本稿着手。書くときはさいきんこればかり聴いている。ロマン派的な喜怒哀楽の波がなくていい。プレリュードとフーガの繰り返し。天上的。さっき香林坊まで行って本を三冊買ってきた。酒をやめて浮いたぶん一か月やく六千円は定価本購入に使うつもりだからポイントカードくらい作った方がいいかもしれない。ポイントカードだの割引券だの、そういうのは無頼派っぽくないどころか所帯沁みていてケチ臭くて、あまり持ちたくはないのだけど、本に関してだけはいいか。本の奴隷ですから。購った本は、柄谷行人『世界史の構造』、ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』、アルフレッド・シュッツ/トーマス・ルックマン『生活世界の構造』。どれも前から読みたかったもの。ほんらいの目的だったジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』がなかったのが残念です。
いまもうすでに夜型生活にはいっているので、火曜日まで図書館通いはやめにする。いまから十二時間以上眼を覚ましていなければならない。
平岡正明『志ん生的、文楽的』(講談社)を読む。落語愛好者としては堪らない一冊で、五日かけて熟読した。平岡正明の著作を読むのはこれが最初だ。アナキズム研究者の栗原康が平岡ファンだと聞いて前から興味はあったがなかなか読むには至らなかった。五代目古今亭志ん生も、八代目桂文楽も、かつてユーチューブで片っ端から聴いた。志ん生を褒める紋切り型といえば「天衣無縫」だが、志ん生のばあい、その存在自体が落語なのである。老齢により滑舌がなかば崩壊しても、高座に上がり口をただぱくぱく動かしているだけで、笑いがとれた(じっさい高座で寝たという「伝説」もある)。いっぽう文楽は、「大仏餅」の口演中、神谷幸右衛門の名が出てこず、「勉強しなおしてまいります」といって高座を降り二度と落語をやらなかった、「完璧主義者」として知られている。きのう文楽の落語(「船徳」「寝床」「鰻の幇間」)をひさしぶりに聴いてあらためて感嘆した。語りの艶っぽさ、端正さ、ときどき垣間見せる「狂気」。「これぞ話芸」と唸らずにはいられない。一つの噺を練りまくらずにはいられない文楽はそれゆえrepertoryがきょくたんに少なく(「全部が十八番」とどこかで語ったとか)、<豊富な持ちネタも芸の内>といわんばかりの六代目三遊亭圓生とは対蹠的である。僕は寄席にいったことはないが、平岡の言う通り、落語はもっぱら「声」で楽しむものだ。そもそも僕は「昭和の名人落語」が好きなのであり、いまの落語にはこれっぽちの興味もない。となると古い音源しか頼るものはない。しかしきめ細かいのか破天荒なのかわからない彼の落語読解にはいちいち舌を巻かされた。「つるつる」の旦那がいかに悪意的で品性下劣かを論じる平岡の筆に俺は「義侠心」を感じた。「王子の幇間」に出て来る野幇間平助の嫌な奴っぷりを語るのにトニー谷を引き合いに出すあたりにも感服。<落語批評>においてこれほど「心の襞」に入り込んでみせた文章に、僕はこれまで接したことがなかった。なるほど、彼に言わせれば落語は「世界文学」なのだから、あらゆる<読み解き>をいちおうは許容するのだ。ほかに、「酢豆腐」に出て来る知ったかぶりの若旦那を与太郎の変種と断定したり、フグに当たって死んだ「らくだ」のごろつきが誰かという問題を巡っていきなり老舎の『駱駝祥子』が持ち出されたり、厳密な学問的考証にこだわる学者が聞いたら卒倒しかねない「とんでも仮説」が多数ある。手元に長く置いておくに値する。ちなみに僕のとりわけ好きな演目は「青菜」「穴泥」「後生鰻」です。ぽちゃん、ああ今日はいい功徳をした、鞍馬から牛若丸が出でまして、その名も九郎判官、ああ義経義経。
いまから一時間ほど深夜の逍遥。

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