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薔薇を咥えた憂鬱な鸚鵡、

十二月十日

マス・コミ文化は、新聞、雑誌、出版のような固体から出発して、映画によって流動体となり、さらにラジオ、テレビの発達普及によって気体化の方向にむかいつつあるともいえるであろう。ただし放送文化は、今のところ電波に制限があり、許可制になっていることは、大きな難点である。逆にこれを裏からみれば、波長をにぎっているということは、一つの利権となっているわけだ。

大宅壮一『昭和怪物伝』「水野成夫」(角川書店)

午後十二時二〇分起床。コーヒー、フルグラチョコレート。さだまさしの「驟雨」を聞きたくなったのでいまユーチューブで流している。この漢字をググらずに読める人はそういないだろう。意味まで知っている人はたぶんもっと少ない。これは自慢だが俺は中学ニ年のころには「薔薇」も「憂鬱」も「鸚鵡」もすらすら書けていた。「多画数漢字マニア」だったから。いまでも俺はそのころの矜持を引きずっているから、手で書けない漢字はパソコンでもぜったいに書かない。この「しゅうう」という曲、俺的には「さだまさしベスト3」には入れたい。彼はただの漫談家じゃない。シンガーソングライターでもあるのだ。このごろの俺はやたら「何処か遠い町へ行きたい」。むかしから「ジェリー藤尾願望」と名付けているもの。

井上光晴『死者の時』(角川書店)を読む。
長編「死者の時」と短編「ガダルカナル戦詩集」が収録されている。総じて暗い。戦争が主題で、被差別部落のことなんかも扱われているので仕方ないともいえるが、それにしても暗い。「作者好みの深刻癖やスゴミズムみたいなもの」(平野謙の解説文)にややウンザリしてしまった。ただ、「あの時代の暗い経験をゴマカシなく描き切るんだ」といった小説家の<意地>のようなものは感じた。なにかとユーモアを求める丸谷才一であればたぶん五分で投げ出しただろう。俺はよほどのことが無い限り一度読み始めたものは最後までちゃんと読むことにしているので(読者の鏡だ!)、それがどんな「労作」であろうが、苦言を洩らすことにはあまりためらいを感じない。
「死者の時」を終始貫いているこの陰湿な重苦しさはおそらく、銃後として生きる市井の人々の漠然とした疚しさによってもたらされている。「息子や夫はいまごろ戦地でどうしているだろう」といった心配は、「自分だけこうやってのうのうと生きていていいのだろうか」という自己嫌悪とつねに隣り合わせだ。「生きているのか死んでいるのかも分からない」という宙吊りの心理状態に堪えかねた女たちは、戦死者霊媒を業としている戸部宗輔のもとに向かう。嘘でもいいから「苦しまずに死んだ」といった声を聞きたいのだ。特攻隊員として待機中の長男を持つ宗輔はそのことを知り過ぎている。その苦衷を描く作者の筆はなかなかに冴えている。宗輔にはもう一人、昌作という次男がいるが、彼は肺を患っていて、だからやはり「のうのうと生きていることの疚しさ」に煩悶している。その苛立ちが「霊媒会」なるものを開いている父親に向けられることになる。
井上光晴はきっと、「苦しいなかにも笑いがある」といった強かな楽天性を嫌っていた。少なくとも小説家としてはそんな呑気さを拒もうとしていた。その点では田中美津と対照的だ。彼女はなにかと「不幸と快感は同居できる」と主張する。むかし自身が受けたチャイルド・セクシャル・アビューズについて書くときでも妙にさばさばしている。深刻な方向には流れない。こればかりは「気質」なんだろうな。こんな曖昧な概念にあまり頼りたくはないけど。

もう飯食うか。サバを温める。三時半には入れそう。「ぱぴぷぺぽ」のなかにひとつだけ仲間はずれがあります、なんでしょうか、というクイズに俺はいまだに悩まされている。

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