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どうしようもないクズたちへの挽歌、イオニア式ペニス、赤信号は一人で渡りたい、タンクトップ一枚で街を歩きたい、ゴビ砂漠のど真ん中で放尿したい、

五月十日

読書の場合も、とりあえず我々は野次馬であることが一番必要であると思います。野次馬でなくなった時は、これは大体そろそろ読書生活とおさらばということになるんじゃないか。つまり古典読みと読書生活とは違うんです。論語読みではあって読書家ではない。

谷沢永一『読書人の壺中』「雑読学序説」(冬樹社)

午前十一時三五分。玄米緑茶、パン。パンと言えばげんざい敷島製パンの「超熟」が自主回収されている。「超熟」は焼いてバターを塗ると美味しい。今度買おう。朝の七時から訪問者があってやや寝たりない。俺がどれほど睡眠を愛しているかいい加減わかってくれ。今日あたり洗濯しないといけないかしら。きのう午後、文圃閣へ行ってきた。さいしょは誰もいなくて、気分よく物色できたけれども、さすがにずっと自分一人だけだとちょっと心細さを感じる。体調によっては「昼間からこんな紙くずに囲まれて俺は何をやってるんだ」という虚無感に侵襲されてしまう。古書店の空気は特殊だ。一歩足を踏み入れただけで分かる。古書店というところは死んだ誰かの蔵書なんかが集まるところなので死者の気配が常にある。いぜん私が「付喪神感」と呼んだものの正体はきっとこれだ。いま古書友達(古書友)がほしい。古書好きが俺のまわりにはほとんどいない。というか本を読む人間がほとんどいない。なんで? を読む以外に当に楽しいことなんてほとんどないでしょ。本を読む快楽を知らない人間など俺にとってはどうでもいい人間だ。本を読む快楽を知っている人間としか酒を飲む気がしない。書店で若い男を見かけるたびナンパしたくなる。本を読んでいる男子学生はなんであんなにセクシーに見えるのだろう。同類愛のせいで男をみる審美眼が緩くなっているんだろうか。本好きの男に悪い男はいない、と俺はここで断言する。俺が言うんだから間違いない。買った本は、『旧事諮問録』(上下)、『「青鞜」女性解放論集』、平澤一『書物航游』、石原孝哉『幽霊のいる英国史』、開高健『孔雀の舌』、『穎原退蔵著作集 第十三巻』、桑原武夫『伝統と近代』、エドワード・W・サイード『パレスチナとは何か』、深沢七郎『人間滅亡的人生案内』、ロジェ・カイヨワ『戦争論』の十一冊。締めて一六五〇円。帰途、また金沢城公園を通った。やはり円安のせいかforeign touristsが目立っていた。とくに白人が多かった。ところで欧米系のババアってよくサングラスかけてるね。あの「ちょい悪感」は嫌いじゃない。「跳ねっ返り感」と言ってもいい。北陸のババアがあれをやると浮きそうだね。ちょっと催してきた。雲古してくる。

斎藤環/佐藤優『なぜ人に会うのはつらいのか(メンタルをすり減らさない38のヒント)』(中央公論社)を読む。
対談本。この副題はいらないだろう。元「外務省のラスプーチン」にはあまり興味はないが、斎藤環のファンなのでいちおう読んだ。「コロナ禍」に出されたものなのでリモートワークとか三密とかへの言及が多い。斎藤は人と会うことに含まれる暴力を繰り返し指摘している。暴力という言葉はいささか強すぎるのではないか、と思う人がいるかもしれんけど、俺は斉藤の言いたいことがよく分かる。他人は多かれ少なかれつねに侵襲的で圧迫的な存在だ。「やさしさ」や「気遣い」さえある種の強制力を孕ませている。このことに自覚的な人はそれほど多くない(困ったことだ)。ひきこもりや対人恐怖(社会恐怖)の当事者は多分このことにかなり自覚的だろう。世の中には自称「人間嫌い」や自称「コミュ障」がたくさんいる。私は自分はそのいずれにも入らないとは思っている。というか私はそもそも他の人間には何も期待していない。だから失望もできない。「人間嫌い」を自称している人たちはきっといまだに人間を信じているのだ。私は「人間嫌い」を愛着障害の一種だと認識しているがこれについてはまた他日。私は人と会って喋ったりすることをわりと楽しめる人間だ。ただ心が狭いのでイラつかされることは多い。とくに「いい年」して何も知らない人間は苦手だ。知への欲望が薄い人間は苦手だ。そういえば私はある時期から「相手の目を見ること」が不得意になった。他人の眼は基本こわい。会うことの暴力性はこの眼を抜きにしては語れないのではないか。眼はその「他者」が実在していることを証明する。だから人の眼を見ながら嘘をつくことはそれほど簡単なことではない。一流の詐欺師になるにはまず他人の眼の実在的迫力をかわすことを覚えなければならない。もうそろそろ納豆ごはん食って、新聞読んで、図書館に行く。ぽむぽむぷりんぐす。MーO。備忘29000円。

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