朝靄(あさもや)の気配
漆黒の夜がじわりじわりと明けはじめて、空がゆっくりと白んでくる。朝靄(あさもや)の時間がおとずれた。
早起きは苦手なのだが、たまに朝方の早い時刻に起きられることがあって、この朝靄に出くわすと、えもいえない気持ちになる。
今回は、この気持ちの正体を明らかにしたい。
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瞼がひらく。そこに意思はない。おのずと、瞳がしかるべき動きをとる。
すぐ後に、無意識の奥からゆっくりと意識が顔を出し、世界が拓けていく。
カーテンの隙間から、白く淡い光が、静かに差し込んでいるのを認識する。まだ部屋は暗いはずだが、視界の先はうっすら白味がかっていて、なんだか透き通っているようにもみえる。
次に呼吸がひとつ。呼吸は私の胸を撫で下ろすようにして、一直線にお腹まで駆け降りて行く。全身に酸素が行き渡り、生き返るような心地がする。そして再び鼻から肺へ、目一杯の空気を吸う。呼吸の一回一回に癒されるような感覚がある。
この空間はなんだろう、幻の中に浮いているような感じだ。空間を彷徨っている。もちろん、身体は寝具に収まっているのだが。
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私の朝靄はこんな感じでスタートする。寝る前に感じていた翌日のプレッシャーをすっかり忘れて、けたたましいアラームの音に無理やり起こされるのでもなくて、素の、生まれたての自分がそこにはいる。
この雰囲気を的確に描写した曲がある。ORANGE RANGEの「sunrise」である。
こんなことを言うと怒られそうだが、ORANGE RANGEの曲には珍しく、柔らかくてコンセプチュアルな曲だ。歌詞だけでなく、曲も是非味わってほしい。えもいえない朝靄の音色が聞こえるはずだ。
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午前5時。始発電車を目指して家を出る。
家のすぐ前の坂道をくだると、道沿いにある住宅の隙間から、坂下の街に朝靄がかかっているのが見える。
坂をくだり切ると、一軒の農家と20haほどの畑がお目見えする。ここに来ると、農家の庭に放し飼いにされているニワトリが、「コケコッコー」と鳴くのが恒例になっている。
ニワトリに言わせればもう朝なのだろう。でも世間はまだちっとも目覚めていない。
少し歩くと朝靄がかかった鶴見川にでくわす。私以外に歩いている人は一人もおらず、川の流れる音だけが静かに聞こえている。
ふと、朝の匂いがする。少し湿っぽいが、澄んでいるような気がして、大きく息を吸ってみる。空気が美味しい。
よくみれば、朝靄の鶴見川の中にアオサギが鎮座して、一点を見つめている。その姿がやけに恭しい。
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始発電車がホームに乗り入れてくる。互いに朝靄の空間を共有しているからか、車掌さんとの一体感を感じる。
電車は丘を走っているので、窓からは、朝靄の街が一望できた。そして、住宅のひしめく向こう側も丘になっている。いつもは斜面に家がびっしりと並んでいるのだが、今は朝靄にぼやかされている。
一望している家々に住んでいる人のうち、何人とこの朝靄の気配を共有し合っているのだろうか。
そんなことを考えていると、朝靄は徐々に気配を消し始める。そして視界がクリアになってくる。
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やがて、誰もが享受する「朝」になる。朝は活発だ。人々が動き出す。世界の歯車がギーコギーコと忙しなく回り出した。
朝靄の時間が終わって、「急に世界が動き出す感じ」は「sunrise」にもある。これがまた素敵なので紹介する。
朝になると、ムチを打たれるように力を絞り出し、人が動き出すのである。朝靄の心地よい空間は限られた時間であっという間。
本当はずっと朝靄の中に居たいが、そうもいかない。私たちは、多少頑張って、動き出す。やがて朝靄にいた「素の私」はいなくなり、少しだけ「他所行きの私」が現れる。
そして今日も「おはようございます。」
-おわり-
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