自分をどう磨けば、人間的に成長できるのか―禅「瓦を磨いて鏡となす」
禅問答「瓦を磨いて鏡となす」。「南岳磨甎」とは
古典や人生哲学を読んで、人の生き方をアタマで理解しているときは、立派な人間になったように錯覚してしまうのですが、いざ自分を磨くとなると難しいです。
そんなことをある経営者の方と話をしていたら、そういうときには、自己修練とはどうあるべきなのか、ある禅問答を思い浮かべて、自分なりに答えが出るのを待つようにしている、とのことでした。
教えてもらったのが、瓦を磨いて鏡となす。「南岳磨甎(なんがくません)」として知られている問答。
自ら瓦を磨く師匠。弟子に何を教えたかったのか
こんな内容です。
凡人はいくら勉強しても「鏡」にはなれないのか
問答にはまだ続きがありますが、ここまで触れたところで、経営者の方は次のように話されたのです。
いくら瓦を磨いても鏡にはなれない。
坐禅をしているだけでは仏になれない.
師匠の南岳懐譲は、このように馬祖道一に諭しています。
その額面通りに問答を受け止めてしまうと、この世に生きて、仕事をして生活を営んでいる凡人の我々も、いくら勉強しても人間的に成長しない、鏡にはなれない。そういうことなってしまいます。
では、人として、瓦のままで終わらずに鏡になるには、なにをどう改めたらいいのか。
その経営者は次のように言葉を続けました。
人から学んだことを素直な気持ちで受け止める。力いっぱい吸収し、それを仕事や人生で実践していく。活かしていく。
自我にとれわらないように、磨き続けることで、人格・人間力を向上させることで、瓦だった自分が、「鏡になることができる」はずです。
瓦だから鏡になれないと、中途半端にあきらめてしまわないこと。
禅の解釈としては、正解ではないのかもしれないけど、実社会で生きていくうえで、私にはとても参考になる解釈でした。
坐禅の姿に執著していると、真理には到ることはできない
参考まで、馬祖道一と南岳懐譲和尚の問答の続きは、次のような内容だそうです。
坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい。
この言葉が刺さりますね。
真理を極めようとしているつもりでも、それはカタチにとらわれた行動や思索に終始していて、本質的なアプローチができていない。そんな自分の姿が見えてきます。
下手をすると、人からそのことを指摘されても、気づかないでいる。
自分磨きの落とし穴かもしれません。
なお、「平常心(へいじょうしん・びょうじょうしん)」ということを最初に説いたのが、馬祖道一禅師です。南岳懐譲和尚の跡を継いた名僧として知られています。
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