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自分をどう磨けば、人間的に成長できるのか―禅「瓦を磨いて鏡となす」

禅問答「瓦を磨いて鏡となす」。「南岳磨甎」とは

  古典や人生哲学を読んで、人の生き方をアタマで理解しているときは、立派な人間になったように錯覚してしまうのですが、いざ自分を磨くとなると難しいです。

 そんなことをある経営者の方と話をしていたら、そういうときには、自己修練とはどうあるべきなのか、ある禅問答を思い浮かべて、自分なりに答えが出るのを待つようにしている、とのことでした。

 教えてもらったのが、瓦を磨いて鏡となす。「南岳磨甎(なんがくません)」として知られている問答。

自ら瓦を磨く師匠。弟子に何を教えたかったのか

 こんな内容です。

 中国は唐時代のこと、馬祖道一(ばそどういつ)という、後に偉くなるお坊さんがいました。その坊さんがまだ若い時の話です。

 仏になろう(悟りをひらこう)と必死になって修行し、日夜、座禅をしていた。あるとき師匠の南岳懐譲(なんがくえじょう)が通りかかり、馬祖道一にこう尋ねました。
「お前さんはずっと坐禅を続けているが、何のために坐禅をしているのかね?」
「はい、仏になるために坐禅をしています」
その答えを聞くと、師匠の南岳懐譲は、地面に落ちていた瓦を手に取り、馬祖の横で黙々と磨きはじめました。
「あの、お師匠さま……何をしているんですか?」
「瓦を磨いているんじゃ」
「磨いて、それでどうするのですか?」
「鏡にしようと思ってな」
「お師匠さま、お言葉ですが、いくら瓦を磨いても鏡にはならないと思うのですが……」
すると、師匠の南岳懐譲はこう言い放ちました。
「では、お前は坐禅をして悟りをひらくと言っているけれども、(いくら瓦を磨いても鏡にはならない)、いくら坐禅をしても仏にはなれないぞ」
「……それじゃ、どうすればよろしいのですか」
と尋ねると、南岳懐譲はこう問いかけてきたのです。

「人が駕(馬車)に乗って行くとき、車が止まったら、車を打つのがよいか、牛を打つのがよいか」。
 馬祖道一はその問いかけにグッと詰まってしまったのでした。

 

凡人はいくら勉強しても「鏡」にはなれないのか

 問答にはまだ続きがありますが、ここまで触れたところで、経営者の方は次のように話されたのです。

  いくら瓦を磨いても鏡にはなれない。 
    坐禅をしているだけでは仏になれない.
   師匠の南岳懐譲は、このように馬祖道一に諭しています。
  その額面通りに問答を受け止めてしまうと、この世に生きて、仕事をして生活を営んでいる凡人の我々も、いくら勉強しても人間的に成長しない、鏡にはなれない。そういうことなってしまいます。

  では、人として、瓦のままで終わらずに鏡になるには、なにをどう改めたらいいのか。
 その経営者は次のように言葉を続けました。

 人から学んだことを素直な気持ちで受け止める。力いっぱい吸収し、それを仕事や人生で実践していく。活かしていく。

 自我にとれわらないように、磨き続けることで、人格・人間力を向上させることで、瓦だった自分が、「鏡になることができる」はずです。
 瓦だから鏡になれないと、中途半端にあきらめてしまわないこと。

 禅の解釈としては、正解ではないのかもしれないけど、実社会で生きていくうえで、私にはとても参考になる解釈でした。

坐禅の姿に執著していると、真理には到ることはできない

  参考まで、馬祖道一と南岳懐譲和尚の問答の続きは、次のような内容だそうです。

「人が駕(馬車)に乗って行くとき、車が止まったら車を打つがよいか、牛を打つがよいか」。
 という問いかけに馬祖道一が答えられずにいると、南岳和尚はこう言われた。
「お前さんは坐禅を学び、坐仏を学びたいのであろう。しかし、坐禅を学びたいのなら、禅というものはそんな格好の上にはないのだ。
 また、坐仏を学びたいというのなら、仏さんはそんなにじっと坐ってばかりいるものではない。
 無住法(決まった形のない仕方)において、取捨してはならぬ(わざとらしくないのがいい)のだ。
 お前さんのように格好ばかり仏さんでは、かえって仏を殺すことになる。また、坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい」。

 これを聞いた馬祖道一は(すべてを理解し)、醍醐(美味しいもの)を飲むような思いがしたという。

 坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい。

 この言葉が刺さりますね。
 真理を極めようとしているつもりでも、それはカタチにとらわれた行動や思索に終始していて、本質的なアプローチができていない。そんな自分の姿が見えてきます。
 
 下手をすると、人からそのことを指摘されても、気づかないでいる。
 自分磨きの落とし穴かもしれません。


 なお、「平常心(へいじょうしん・びょうじょうしん)」ということを最初に説いたのが、馬祖道一禅師です。南岳懐譲和尚の跡を継いた名僧として知られています。

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