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12世紀~14世紀 北条時政の家臣団。鎌倉幕府の将軍・執権、「元寇」前の得宗家。北条義時・泰時の家臣団と軍団

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北条義時公の肖像。

「鎌倉殿の御恩は山よりも高く、海よりも深い。」‐1221年・北条政子‐

<結局は平ノ清盛の描いた平氏政権が、貴族化を良しとせず形を変えて実現したということでしょうか。>

[北条政子] (1156~1225)鎌倉御台所・「尼将軍」。北条時政の娘。源ノ頼朝の室。兄弟に宗時、義時、時房、阿波局(阿野全成の室)。婚約者に山木兼隆。1160年伊豆蛭が小島に源ノ頼朝が配流される。息に頼家、実朝、大姫、三幡姫。


 鎌倉幕府の変遷


源ノ頼家 <第二代将軍:1202~1203>(1182~1204)万寿。鎌倉幕府二代目「将軍」。頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年家督継承。北条氏により老臣13人合議制を導入され権限を失墜。1202年征夷大将軍に就任。1203年舅の比企能員と北条氏討伐を計画するが失敗し能員は戦死。伊豆修禅寺に幽閉され、翌年殺害される。22歳。嫡男に一幡。<母・政子の密告により息子ともども討たれる。>

源ノ実朝 <第三代将軍:1203~1219>(1192~1219)千幡・右大臣。鎌倉幕府三代目「将軍」。頼朝の三男。母は北条政子。北条時政を政所別当(初代・執権)に任命。畠山重忠事件勃発。江間義時台頭。和田義盛事件にて政所別当兼、侍所別当に義時。右大臣任官に鶴岡八幡宮にて拝賀の儀を執り行った際、甥の公暁に刺殺される。28歳。

(1221年「承久の乱」後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣。)
(持明院派閥)


九条頼経 <第四代将軍:1226~1244>(1218~1256)藤原頼経。関白・道家の息。北条泰時により将軍・実朝の死後、頼朝の遠縁として鎌倉に迎えられる。2歳~27歳にかけて将軍職。1244年名越光時と結び幕政を掌握せんとするが、京都に追放される。

九条頼嗣 <第五代将軍:1244~1252>(1239~1256)九条頼経の息。1244年父・頼経の跡職を継承。6歳~14歳にかけて将軍職。1252年三浦家と結んでいたため退位させられ、帰京。

宗尊親王 <第六代将軍:1252~1266>(1242~1274)皇族から迎えられた将軍。10歳~24歳。後嵯峨天皇の皇子。母は平棟基の娘。北条家に謀反の疑いで解任。息に惟康親王。

惟康親王 <第七代将軍:1266~1289>(1264~1326)源ノ惟康・惟康王。3歳~26歳。宗尊親王の長男。母は近衛兼経の娘。蒙古襲来時の将軍。安達氏の「霜月騒動」に連座し京都に追放される。

久明親王 <第八代将軍:1289~1308>(1276~1328)一品式部卿。14歳~33歳。後深草天皇の皇子(6男)。惟康親王の娘婿。1289年北条家により追われた惟康親王に代わり将軍就任。実権は北条貞時にあり。1308年追放される。息に久良親王。

守邦親王 <第九代将軍:1308~1333>(1301~1333)33歳。久明親王の長男。母は惟康親王の娘。8歳で将軍に就任。幕府滅亡の際に出家。三ヶ月後に病死。

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初代 北条直方(なおかた・なおつね?) 坂東の平ノ忠常を討伐するため、私兵200余人を率いて京都を出立、相模鎌倉に根拠を置く。子孫は伊豆に土着。頼信の息・源ノ頼義と婚姻を結ぶ。 二代・平ノ維方三代・平ノ盛方(朝廷に反し没落)。<なおつねと読むと書いている書物もあり>

維方の弟で伊豆山権現別当・聖範の息、平ノ四郎・時方が四代継承。
五代・北条介時兼。弟に四郎・時家。

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鎌倉幕府の歴代執権・連署・北条(得宗)家 伊豆国北条庄を拠点とする。先祖の平ノ(北条)直方から源氏の縁者(外戚)。

☆惣領職「得宗」。  ☆執権職<在任期間>
☆嫡流家の元に、かつて時政が保護した平家残党の内衆が軍事力として育ち、他の北条一門とは隔絶した力を「得宗」に持たせた。」

⇔↓初代執権
 北条時政 <執権1203~1205>(1138~1215*)平ノ・四郎・遠江守・従五位下。「鎌倉北条氏初代」。伊豆田方郡北条の豪族。時家の息。娘婿に源ノ頼朝。1156年「保元の乱」に伊豆目代・藤原経房に捕縛される。1160年「平治の乱」に捕縛された源ノ頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられる。1170年伊豆大島にて源ノ為朝の反乱を鎮圧。1177年京都大番役に上洛。山木兼隆との縁組に失敗。1180年頼朝の挙兵に応じる。1185~1186年京都守護。1193年曽我兄弟事件を利用し工藤氏を追い伊豆支配を確立。1200年「遠江守護」甲斐源氏を圧倒する。1203年将軍・頼家の急病に遺言を捏造「関西38カ国を千幡、関東28カ国を一幡の管轄とする。」とし、一幡を擁する比企能員との対立が表面化。1204年「遠江守護」就任。北条政子の命で比企氏追討の御家人が招集される。千幡(実朝)を後見し政所別当。後妻・牧ノ方の娘婿に平賀朝雅。1205年畠山重忠を謀殺。義時に地位を譲り隠居。78歳で死去。<後妻の牧ノ方との縁で平家の生き残りを保護。><伊豆北条家の領地の南方に南條・天野。北方に長崎・仁田。西方に江間。江浦湊を支配。><母は伊豆掾・伴ノ為房の娘。伴氏が三河伴氏と同族ならば、戦国の後北条氏の時代に江戸城主となる富永氏と三河の富永(設楽)氏は、鎌倉時代に分立していたことになります。大伴(富永)氏と源氏、平氏の不思議な縁。>

(1221年「承久の乱」)

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⇔↓☆2代執権
 北条義時 <執権1205‐1224>(1163~1224)江間・小四郎・陸奥守・前陸奥守・右京権大夫・従四位下。時政流。法名「得宗」。以降の嫡流を得宗家と呼ぶ時政を初代とし、義時を「得宗2代」。1205年父・時政と平賀朝雅の実朝暗殺計画を阻止。父を追い惣領職。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。<室に毒殺されるという。><翌年、北条政子と大江広元も死去。幕府創成の世代が去る。>
▽初代連署 北条時房 <連署1225-1240>(1175~1240)正四位下・相模守。時政流。

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↓☆3代執権
 北条泰時 <執権1224‐1242>(1183~1242)江間・太郎・頼時・左京権大夫・正四位下。義時流。「得宗3代」。六波羅探題職<北・1221~1224>。幕府を鎌倉の中心、若宮大路に面した宇都宮辻子に移動。叔父・時房(佐介・大仏の祖)を執権補佐(連署)に据える。有力御家人を評定衆に迎え合議制を確立。三浦氏と協調路線。1232年最初の武家の法律「御成敗式目」を制定。弟に(名越)朝時、(赤橋・極楽寺)重時、政村、(金沢)実泰、(伊具)有時。

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⇔▽初代得宗家令 尾藤景綱 (*~1234*)平ノ景綱・次郎・左近将監・入道道然。尾藤知景の息。得宗家内衆。1224年得宗家家令(家宰)。得宗・泰時を補佐。泰時により初代「家令」(のちの内管領職)。室は泰時の次男・時実の乳母。武蔵太田荘を開発。1234年隠居。<北条時実の乳母父。>
▽☆北条時氏 <*>(1203~1230)武蔵太郎。「得宗4代」病の為28歳で逝去。1224年上洛。六波羅探題職<北・1224~1230>。「承久の乱」に足利義氏とともに東海道軍。六波羅後任は北条重時。28歳で病没。息に経時、時頼。

↓☆4代執権
 北条経時 <執権1242‐1246>(1224~1246)弥四郎・正五位下・武蔵守。「得宗5代」。時氏の嫡男。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。泰時の孫。3歳で宇都宮泰綱の娘と婚約。将軍・藤原頼経の加冠で元服。1242年祖父・泰時の死により執権。頼嗣を将軍職に擁立。1246年一門の名越光時が元将軍・九条頼経を擁立する計画を未然に防ぐ。妹(檜皮姫)の婿に頼嗣。1246年病気により引退、弟・時頼に執権職を譲る。
▽2代連署 北条重時 <連署1247-1256>(1198~1261)従四位下・陸奥守。極楽寺。

⇔↓☆5代執権
 北条時頼 <執権1246‐1256>(1227~1263))正五位下・「得宗」・相模守・戒寿。「得宗6代」兄・経時が発病し急遽執権職を継ぐ。「寛元の政変」・「宝治の合戦」で三浦氏を滅し北条勢力の拡大に努める。得宗専制政権を確立。執権職を北条重時(泰時弟)の息・長時に譲るが実権は得宗家がもつ。評定衆、引付衆の北条家独占。弟に時定。息に時宗、時輔、宗政、宗頼。

⇔▽6代執権
 赤橋長時 <執権1256‐1264>(1229~1264)武蔵守・従五位上。分家筋。「家督(時宗)幼稚の眼代」。時宗が継承するまでの中継ぎとして就任するが、病をえて引退。息に義宗。<執権職と得宗権力が分離。>

▽3代連署 北条政村 <連署1256-1264>(1205~1273)従四位下・相模守。

⇔▽7代執権
 北条政村 <執権1264‐1268>(1205~1273)伊賀・陸奥四郎・相模守・正四位下・左京権大夫。北条義時の息。母は伊賀氏。北条義時の息。時宗が継承するまでの中継ぎ。息に時村、政長。
▽4代連署 北条時宗 <連署1264-1268>従五位下・相模守・左馬権頭。

⇔☆8代執権
 北条時宗 <執権1268‐1284>(1251~1284))「得宗」・相模太郎・相模守・正五位下。「得宗7代」1274・81年「元寇」の国難勃発。評定衆形骸化。得宗家御内人の寄合が幕府最高機関。御内人代表の内管領が鎌倉幕府侍所所司(次官)を兼任。1284年34歳で没。1285年時宗の外戚・安達氏が内管領・平ノ頼綱により滅ぼされる「霜月騒動」。弟に時輔、宗政、宗頼。息に貞時。

▽5代連署 北条政村 <連署1268-1273>(1251~1284)正四位下・左京権大夫。伊賀。

▽6代連署 北条義政 <連署1273-1277>(1242~1281)従五位下・武蔵守。塩田。


(1274・1281年の「文永・弘安の役」=「元寇」を契機に各国守護職の北条家独占化。)

⇔☆9代執権
 北条貞時 <執権1284‐1301>(1272~1311)平ノ貞時・「得宗」・左馬権頭・相模守・従四位上。「得宗8代」14歳で執権職。1285年安達泰盛の息・宗景が源氏を称した為、貞時の命で内管領・平頼綱が討伐する「霜月騒動」。得宗家内管領平頼綱の実権拡大するが、1293年貞時23歳に「平禅門(頼綱)の乱」にて誅殺し、実権を掌握。平ノ頼綱の弟・長崎光綱を内管領に据える。出家し執権職を従兄弟・師時に譲る。41歳で没。息に高時、泰家。

▽7代連署 北条業時 <連署1283-1287>(1241~1287)極楽寺業時・正五位下・陸奥守。極楽寺流。

▽8代連署 北条宣時 <連署1287‐1301>(1238~1323)大仏宣時・従四位下・陸奥守。大仏流。

⇔▽平ノ頼綱 (1241~1293)新左衛門尉・入道杲円・禅門・侍所所司。重盛の息・平ノ資盛の子孫。長崎盛綱の息。(得宗執事・平ノ盛時の養子となる?)。母は貞時の乳母。得宗家内衆。弟に長崎光盛。甥に長崎光綱。従兄弟に関ノ国定。北条時宗の執事。1271年侍所所司。1284年得宗家内管領。幼少の得宗・貞時を補佐。1285年安達泰盛を討伐。将軍を惟康親王から久明親王に交代。京都朝廷の後深草上皇の院政、伏見天皇の親政に介入。1293年成長した執権・貞時により排除される。息に宗綱、(飯沼)助宗、高頼。<貞時の乳兄父の関係。><「諸人 恐懼の外、他事なし。」という恐怖政治。足利義教、織田信長の先駆けです。>

⇔▽10代執権
 北条師時 <執権1301‐1311>(1275~1311)平ノ師時・西殿・右馬権頭・相模守・従四位下。北条宗政の息。時宗の甥。北条時宗の養子となる。高時が継承するまでの中継ぎ、貞時が死亡する3カ月前に37歳で急逝。息に時茂。<内管領との抗争でしょうか。相次ぎ急死するのは毒殺か?。>

▽9代連署 北条時村 <連署1301-1305>(1243~1305)伊賀時村・従四位下・武蔵守。伊賀流。


(1305年「嘉元の乱」北条宗方の乱)

▽10代連署 北条宗宣 <連署1305-1311>(1259~1312)大仏宗宣・従四位下・陸奥守。大仏流。

⇔▽11代執権
 大仏宗宣 <執権1311‐1312>(1259~1312)北条宗宣・従四位下・陸奥守。分家筋。(時房)大仏流。宣時の息。得宗家内管領・長崎高綱(円喜)に実権を握られ引退。在職1年足らずで死去。弟に宗泰、貞房。息に維貞。<内管領との抗争でしょうか。相次ぎ急死するのは毒殺か?。><義時の弟・時房の系統の出世頭。>

▽11代連署 北条熙時 <連署1311-1312>(1279~1315)伊賀熙時・正五位下・相模守。伊賀流。

⇔▽12代執権
 北条熙時 <執権1312‐1315>(1279~1315)伊賀熙時・相模守。伊賀(北条)為時の息。高時が継承するまでの中継ぎ、内管領・長崎高綱に実権を握られていた。在職3年で37歳で急逝。息に茂時。<内管領との抗争でしょうか。相次ぎ急死するのは毒殺か?。>

▽12代連署 北条貞顕 <連署1312-1315>(1278~1333)金沢貞顕・従四位下・修理権大夫。金沢流。

⇔▽13代執権
 極楽寺基時 <執権1315‐1315>(1286~1333)北条基時・(赤橋)・普恩寺・相模守・入道信忍・正五位下。北条氏一門衆。鎌倉幕府13代執権。分家筋。時兼の息。高時が継承するまでの中継ぎ、内管領・長崎高綱に実権を握られていた。在職1年で譲位。連署・金沢貞顕が補佐。1333年化粧坂守備戦にて自害。息に仲時。<内管領との抗争でしょうか。>

⇔☆14代執権
 北条高時 <執権1316‐1326>(1303~1333)平ノ高時・成寿丸・左馬権頭・正五位下・修理権大夫。北条貞時の息。母は安達時顕の娘。父・貞時の死により9歳で家督。「得宗9代」14歳で執権職。外祖父・安達時顕。連署・金沢貞顕が補佐。実権は内管領・長崎高綱(円喜)とその息・長崎高資に掌握されていた。1324年後醍醐天皇の倒幕計画を防ぐ。1331年側近の長崎高頼・丹波長朝に円喜誅殺を指示するが失敗。1333年御家人筆頭の足利高氏が反逆し東勝寺にて自害する。31歳。息に邦時、時行。

⇔▽長崎高綱 (*~1333)平ノ高綱・入道・円喜。内管領。得宗内衆。伊豆田方郡長崎郷出身。長崎光綱の息。平ノ頼綱の弟・光盛の孫にあたる。執権・貞時が死に際して、高時の補佐を託した。幼少の得宗・高時を後見。御内人専制政治を確立。息に高貞、高資、盛親。

⇔▽15代執権
 金沢貞顕 <執権1326‐1326>(1278~1333)北条貞顕・従四位上・修理権大夫。分家筋。顕時の息。弟に顕実。高時が病気と出家で執権を辞し、内紛勃発。長崎高資の要請で邦時が継承するまで中継ぎ就任するが、1カ月で辞職した。六波羅探題職<北・1310~1314>。息に貞将。

▽13代連署 北条維貞 <連署1326-1327>(1285~1327)大仏維貞・従四位下・修理大夫。大仏流。

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⇔16代執権
 赤橋守時 <1326*7~1333>(1295~1333)北条守時・従四位上・相模守。得宗分家筋。久時の息。弟に英時。最後の執権となる。実権は高時、長崎高資が掌握していた。1333年妹(登子姫)婿の足利高氏が反逆。新田軍と鎌倉巨福呂坂で激闘し自害。39歳。

▽北条茂時 <1330-1333>(*~1333)伊賀茂時・正五位下・右馬権頭。伊賀流。


≪個人的感想≫ 鎌倉北条氏といえば、NHKでみた北条時頼が宿をかりた貧乏御家人・佐野源左衛門常世が「いざ鎌倉へ」で恩賞をもらう一所懸命がテーマのドラマ。佐野は上野国の下佐野郷なのでしょうか、源ノ常世(経世とか、恒興とか字があてられるのか、入道恒世という入道名なのか?)。上野国と源氏いえば、新田氏(大新田)とか岩松氏とか思い浮かびますが、関東源氏で飯富氏も気になるところです。三十余郷を取り戻すとなると新田な気がしますね。大新田経世に繋がるのでしょうか。足利の世になり、敗者・新田が関わる伝説も、記録を変えられたのかな。
とにかく、貧乏武士の「いざ鎌倉」の心意気と、「鉢の木」の盆栽を犠牲にしても暖をとらせてあげようという心遣い。鎌倉武士の美学が感じられる話しです。
時頼は質素で政道もまっすぐで理想的な執政者という印象です。
あと小学生の時に読んだ『日本の歴史』のマンガで、「元寇」が紹介されていて、時の執権だった北条時宗の印象が強烈に残っています。
 時宗が没してからの幕府の後半部分はいったい誰が政権を握っているのかよく理解できない感じで、京都<将軍<執権<得宗<内管領 と複雑化しすぎ。
幕府は鎌倉の権力争いの「内憂」に目が行き過ぎている間に、京都での「外患」が育ちすぎて滅亡した印象です。

 謀略で天下を取った北条氏はあまりすきではありませんが、鎌倉社会といえば中世バリバリの封建領主たち、
地方に目を向ければ、魅力的な武士団や、鎌倉守護大名達がきっとイマス。
 「承久の乱:1221」を中心に幕府・朝廷・地方の守護大名の動向に注意して、九州・四国・中国地方と、近畿・東海地方と、北陸・中仙・関東・奥州地方の、各地域ごとに注目して鎌倉時代をみていきたいと思います。


<北条氏の系譜・北条家一門衆> 1028「平ノ忠常(長元)の乱」に関東下向。


☆惣領職「得宗」。☆執権職<在任期間> 梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛を滅ぼす。

☆☆北条時政 (1138~1215)四郎・遠江守。伊豆国田方郡北条の豪族。北条時家の息。母は伊豆為房の娘。室は伊東祐親の娘、足立遠元の娘、駿河大岡(牧)の娘。1180年山木(関)兼隆を襲撃。京都守護。1189年奥州征伐軍に従軍。1193年「曽我兄弟の仇討ち」に加担。1203年源家以外の御家人として初受領「遠江守」。駿河・伊豆・遠江守護。将軍・源ノ頼家との対立激化。1203年比企能員を天野遠景、仁田忠常に命じ謀殺。1205年畠山重忠を謀殺。将軍・実朝暗殺、平賀朝雅の将軍擁立を計画し、政子・義時により阻止される。娘婿に稲毛重成、平賀朝雅、三条実宣、宇都宮頼綱、足利義兼、畠山重忠、坊門忠清、河野通信、大岡時親。曽我時致の烏帽子親。<ここまでの事をしたら1205年に隠居ではなくて暗殺されてるかもですね。得宗家の建前上1215年とか。>

北条時綱 (*)北条時政の弟。<北条時方の息で、祖父が時家とする系図もあります。>

牧ノ宗親 (*)藤原宗親・(大岡)・大岡舎人・大舎人允・諸寮助・三郎。池ノ禅尼の弟。元・平ノ頼盛の家臣で駿河大岡荘代官。北条時政は娘(牧ノ方)婿。元・平ノ頼盛の家臣。北条時政と政子の命で頼朝側室の亀ノ前のいる伏見広綱居館を襲撃。頼朝の叱責を受ける。息に大岡時親。<藤原道隆の子孫のようです。><源氏の世に、のちの得宗被官として力をえる平・長崎一門を保護。>

▽大岡時親 (*~1205?)藤原時親・牧ノ・備前守。駿河大牧の牧。駿河の豪族。時政の後室・牧ノ方の弟。牧宗親の息。叔父に牧政親。北条時政の娘婿。1205年畠山重忠討伐に軍功。のち北条(江間)義時と政権抗争。<藤原道隆の子孫のようです。>

▽平賀朝雅 (*~1205)武蔵守。北条時政室、牧ノ方の娘婿。北条時政により実朝暗殺後の将軍に擁立する計画が立てられるが、北条義時により阻止される。1203年比企討伐軍。1204年畠山重保と対立。1205年畠山討伐軍。<武蔵をめぐり畠山一門と犬猿の仲。結局は北条家が漁夫の利。>

北条時定 (*~1193)平六・左衛門尉。北条兼時の息。北条時政の従兄弟。1182年頼朝挙兵に従う。1186年京都代官。義経追捕使。源ノ行家、源ノ有綱を捕縛。49歳。

(伊豆・駿河・遠江国)
▽吉川友兼 (*)駿河守護・北条時政に従う。1200年梶原景時の謀反の際に駿河国清見関にて上洛中の梶原景時一門を滅ぼす。

▽飯田家義 (*)駿河守護・北条時政に従う。1200年梶原景時の謀反の際に駿河国清見関にて上洛中の梶原景時一門を滅ぼす。


<北条氏の第壱世代>
北条宗時 (*~1180)三郎。北条時政の嫡男。1180年源ノ頼朝の挙兵に従い、山木兼隆屋形襲撃に軍功。大庭景親との「石橋山の合戦」に、伊東祐親の家臣・小平井久重の矢に当たり戦死。


(1221年「承久の乱」②)

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☆☆江間義時 (1163~1224)北条義時・(伊東)・小四郎・相模守・陸奥守・右京権大夫・右京大夫・前陸奥守。法名「得宗」。以降嫡流を得宗家と呼ぶ☆「得宗2代」。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。北条時政の息(次男)。母は伊東祐親の娘。源ノ頼朝の監視役・伊東祐親の娘婿。比企朝宗、伊佐朝政、伊賀朝光の娘婿。1181年「石橋山」江間衆100余騎。武芸に優れ、1181年頼朝の命で身辺警護担当(親衛隊)。1185年源ノ範頼に従い豊後国渡海軍。九州渡海に先陣の四将、原田種直軍を破る。1185年頼朝主催の鎌倉義朝供養に供奉。1205年畠山重忠討伐軍。平賀氏没落後、御家人首座(執権)。1212年「和田の乱」の軍功により相模土肥領を得る。大隈守護〈得宗領:1217~1224〉。<室に毒殺されるという。><頼朝が最初に惚れた伊東氏の娘は離別させられて江間小四郎に嫁いだことになってますが・・。>

↓北条時房 (1175~1240)大仏時房・(佐介)・五郎・式部丞・武蔵守・相模守・時連。北条時政の息。足立遠元、葛西時清の娘婿。将軍・源ノ頼家の側近。1189年奥州征伐軍に従軍。1203年鎌倉寺社奉行就任。1205年畠山重忠討伐軍。1212年「和田の乱」の軍功により上野飯富荘を得る。1221年「承久の乱」に泰時とともに上洛。六波羅南方奉行。北条泰時を補佐し連署。1234年北条経時の元服式に列席。義時の遺児・北条泰時の鎌倉入りに協力する。

遠江政範 (1189~1204)北条政範・遠江左馬助。北条時政の息。母は牧ノ方。3代将軍・源実朝の側近。源実朝の室となる坊門信清娘の輿入れのため上洛。京都で急死。16歳。

(準一門) 主:源ノ頼朝 1177年北条政子(1157~)21歳と婚姻。


▽伊賀光季 (*~1221)(二階堂)・太郎左衛門尉・光末。伊賀朝光の息。母は二階堂行政の娘。北条義時室(伊賀の局)の兄。大江親広とともに京都守護。1221年「承久の乱」に息の光綱とともに戦死。家督は北条泰時(江間頼時)に後見され息・季村が継承。息に光綱、季村。

⇔足利義兼 (*1154~1199)(源ノ)・三郎・義称・上総介。足利義康の息。母は藤原範忠の娘。1181年北条時政の娘と婚姻。

⇔阿野全成 (1153~1203)(源ノ)・醍醐禅師・隆起。義朝の息(7男)。頼朝の弟。北条時政の娘(阿波局)婿。義経の同母兄。北条氏との息に時元。実朝暗殺事件の際に時元は義時により討たれる。

⇔畠山重忠 (1164~1205)(平ノ)・庄司・次郎。重能の息。1181年頃北条時政の娘と婚姻。息に重秀、重保。娘婿に島津忠久。

⇔稲毛重成 (*~1205)(平ノ)・小山田。有重の息。北条時政の娘婿。息に小沢重政、娘婿に宇都宮頼綱。<重忠との関係が近すぎたか。>

⇔河野通信 (1156~1222)四郎・通信。通清の息。北条時政の娘婿。息に得能)通俊、通政、通広、通久、通宗、信綱。

⇔宇都宮頼綱 (1172~1259)弥三郎・伊予守・越中守。成綱の息。母は平ノ長盛の娘。養父に小山政光。1181年頃北条時政の娘と婚姻。息に時綱、泰綱。  


<幕府内抗争 北条家 動員の御家人>1203~1221年頃

<内部抗争粛清組> 北条家と対立し滅亡。

⇔畠山重忠 (*)次郎。1203年比企討伐軍。
榛谷重朝 (*)四郎。1203年比企討伐軍。
平賀朝雅 (*~1205)武蔵守。北条時政室、牧ノ方の娘婿。北条時政により実朝暗殺後の将軍に擁立する計画が立てられるが、北条義時により阻止される。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。
三浦胤義 (*~1221)九郎・左衛門尉。1205年畠山討伐軍。1205年北条時政討伐軍。1221年「承久の乱」上皇軍、反北条家。
和田義盛 (*)左衛門尉。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。
▽和田常盛 (*)兵衛尉。1203年比企討伐軍。
▽和田景長 (*)小四郎。1203年比企討伐軍。
土肥惟平 (*)先次郎。1203年比企討伐軍。


(1221年「承久の乱」鎮圧幕府軍・反朝廷軍)


小山朝政 (*)左衛門尉。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。1213年「和田義盛の乱」鎮圧軍。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。

小山朝長 (*)左衛門尉。1221年「承久の乱」鎮圧軍。東山道軍。
長沼宗政 (*)太郎。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。1205年北条時政討伐軍。

結城朝光 (*)七郎。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。1205年北条時政討伐軍。東山道軍。

▽結城朝広 (*)七郎。1221年「承久の乱」鎮圧軍。北陸道軍。
宇都宮頼綱 (*)弥三郎。1205年畠山討伐軍。
八田朝重 (*)筑後・左衛門尉。1205年畠山討伐軍。
三浦義村 (*)平六・兵衛尉・駿河前司。1203年比企討伐軍。1205年畠山討伐軍。1205年北条時政討伐軍。1221年「承久の乱」鎮圧軍。東海道軍。

後藤信康 (*)左衛門尉。1203年比企討伐軍。
工藤行光 (*)二階堂・小次郎。1203年比企討伐軍。
加藤景廉 (*)次郎・大夫判官・入道覚蓮。1203年比企討伐軍。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。

加藤景朝 (*)太郎。1203年比企討伐軍。
仁田忠常 (*)四郎。江間義時とともに育つ。1203年比企討伐軍。北条家と常に行動を共にするが、北条時政により討たれる。

葛西清重 (*)兵衛尉・壱岐・入道定蓮。1205年畠山討伐軍。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。

千葉常秀 (*)境・平次兵衛尉。1205年畠山討伐軍。
千葉胤信 (*)大須賀・四郎。1205年畠山討伐軍。
千葉胤通 (*)国分・五郎。1205年畠山討伐軍。
千葉義胤 (*)相馬・五郎。1205年畠山討伐軍。
千葉重胤 (*)東・平太。1205年畠山討伐軍。
▽千葉胤綱 (*)千葉介。1221年「承久の乱」鎮圧軍。東海道軍。
足利義氏 (*)上総三郎・武蔵前司。北条泰時の婿。1205年畠山討伐軍。1213年「和田義盛の乱」鎮圧軍。1221年「承久の乱」鎮圧軍。

↓安達景盛 (*)九郎・右衛門尉。1205年畠山討伐軍。息に義景。
中条家長 (*)藤・右衛門尉。1205年畠山討伐軍。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。

中条義季 (*)苅田・平・右衛門尉。1205年畠山討伐軍。
狩野* (*)狩野介・入道。1205年畠山討伐軍。
宇佐美祐茂 (*)右衛門尉。1205年畠山討伐軍。
波多野忠綱 (*)小次郎・中務丞。右衛門尉。1205年畠山討伐軍。1213年「和田義盛の乱」鎮圧軍。

松田有経 (*)次郎。右衛門尉。1205年畠山討伐軍。
土屋宗光 (*)弥三郎。右衛門尉。1205年畠山討伐軍。
河越重時 (*)次郎。1205年畠山討伐軍。
河越重員 (*)三郎。1205年畠山討伐軍。
江戸忠重 (*)太郎。1205年畠山討伐軍。
渋川* (*)武者所。1205年畠山討伐軍。
小野寺秀通 (*)太郎。1205年畠山討伐軍。
下河辺行平 (*)庄司。1205年畠山討伐軍。
園田* (*)七郎。1205年畠山討伐軍。
大井実春 (*)兵衛・次郎・入道。1205年畠山討伐軍。1221年「承久の乱」に鎌倉留守居。

品川清実 (*)長野・三郎。1205年畠山討伐軍。<畠山一門では?>
天野政景 (*)六郎・和泉前司。三浦義澄の娘婿。1205年北条時政討伐軍。

武田信光 (*)石和・五郎。1221年「承久の乱」鎮圧軍。東山道軍。
小笠原長清 (*)次郎。1221年「承久の乱」鎮圧軍。東山道軍。
佐々木信実 (*)加治・太郎。1221年「承久の乱」鎮圧軍。北陸道軍。

鎌倉幕府 北条家の家臣団と軍団


⇔↑伊賀朝光 (*~1221)所右衛門尉。北条義時の後室・伊賀の局の父。1203年比企討伐軍。<すでに北条家家人(内衆)?。>

尾藤知景 (*)次郎。1203年比企討伐軍。息に北条家初代家令の尾藤景綱。<すでに北条家家人(内衆)?。のちの安東氏?。>

金窪行親 (*)太郎。1203年比企討伐軍。<すでに北条家家人(内衆)?。>


<北条氏の第弐世代>  1224年「伊賀氏の乱」
(義時流)

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☆☆ 江間頼時 (1183~1242)北条泰時・太郎・相模太郎・武蔵守・駿河守・左京権大夫・修理亮。☆「得宗3代」。六波羅探題職<北・1221~1224>。北条義時の嫡男。母は阿波ノ局。三浦義村の娘婿。のち安保実員の娘婿。1212年「和田の乱」に将軍御所守備。戦功により陸奥遠田郡地頭。1221年「承久の乱」上洛軍総大将。六波羅探題北方奉行。1224年父の氏により鎌倉入り。弟・政村を擁立する伊賀の方と伊賀一門を掃討。執権職就任。1234年北条経時の元服式に列席。娘婿に三浦泰村、足利義氏、北条朝直、池頼清。息に時氏、時実、公義。60歳で没。<伊豆、駿河守護。>
名越朝時 (1193~1245)北条朝時・次郎・式部丞・式部大丞・越後守・周防守・周防権守・遠江守・入道生西。北条一門衆。執権・北条義時の息。鎌倉幕府執権・北条泰時(頼時)の弟。母は比企姫前(比企朝宗の娘)。母方の実家で「比企能員の乱」が起きる。1211年3代・源実朝の勘気により失脚。一時父・義時から駿河富士郡に蟄居を命じられる。1212年「和田の乱」に将軍御所守備。1221年「承久の乱」上洛軍。1234年北条経時の元服式に列席。大隈守護〈1225~1245〉。弟に重時、有時、政村、実泰。大友能直の娘婿。北条時房の娘婿。息に光時、時章、時長、時幸、字兼、教時、時基。娘婿に足利泰氏、宇都宮泰綱。<母方の比企氏の遺領を継承。>
極楽寺重時 (1198~1261)北条重時・陸奥三郎・修理権亮・駿河守・相模守・陸奥守・入道観覚。北条一門衆。北条義時の息(3男)。母は比企姫前。兄に泰時、朝時。弟に有時、政村、実泰。1230年重病の北条時氏に替わり六波羅探題北方奉行。幕府連署。讃岐守護〈1247-1251〉。信濃・若狭・和泉守護職。苅田義季の娘婿。息に為時、☆赤橋長時、時茂、業時、義政、忠時。娘婿に安達泰盛、宇都宮経綱。64歳。

☆☆伊賀政村 (1205~1273)北条政村・陸奥四郎・左京権大夫・相模守。北条一門衆。北条義時の息。母は伊賀氏。三浦義村の娘婿。7代執権職。弟に金沢実泰。母の伊賀ノ方の一門の計略により、1224年「伊賀の乱」勃発。伊賀氏により北条惣領に擁立される。兄・泰時の赦免により連座は免れる。北条時頼、長時の死により、幕府七代執権職。北条時宗を後見する。息に時村、政長、政頼、宗房、政方。娘婿に北条実時、宗政、業時、時茂、安達顕盛。

▽四方田景綱 (*)滝口。北条政村家臣。息に得宗御内人となる時綱。
金沢実泰 (1208~1263)北条実泰・陸奥五郎。北条一門衆。北条義時の息。母は伊賀氏。天野政景の娘婿。1221年「承久の乱」上洛軍。幕府小侍所別当職。27歳にて出家。息に実時。56歳。<子供女系の金沢。娘が11人。大江広時室など。>

陸奥有時 (1200~1270)北条有時・(伊具)・陸奥六郎・大炊助・民部少輔・駿河守・入道蓮忍。北条一門衆。北条義時の息。母は常陸国・井佐朝政(稲葉光資の娘とも)の娘。1221年「承久の乱」上洛軍。幕府評定衆。讃岐守護〈1268-*〉。陸奥国伊具の領主。息に時基、兼時、有泰、時景、通時、有義、有秀、時秀、兼義、国時、時盛、政有、宗兼、頼任。<子供男系の伊具。>

陸奥尚村 (*)北条尚村・時尚・陸奥七郎。北条一門衆。北条義時の息。母は伊賀氏。1243年将軍結番衆。1271年出家。兄に泰時。<時尚と尚村を別人とする系図もあります。>

北条時経 (*)小四郎。北条一門衆。北条義時の息。母は伊賀氏。兄に泰時。

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