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ぼくという人間とは

ぼくは人生が終わってる

終了してるんじゃないけど、スタート地点に立った記憶がないし、立てた記憶もない。

常に何かしらの劣等感に苛まれてて、そんなぼくは”普通”のみんなより一歩引かないといけないという強迫観念があったから、スタート地点に立てなかったのかなって今思った。

人生をプレイするのが上手い人やそれなりにできる人は、今コースの上にいて、走ってたり歩いてたり、コースをぶっ壊して新しいコースを開拓してる。
一方、コースから外れた人や走れなくなった人は、人生オワタ希死念慮爆発状態になってるって解釈をすると、

ぼくは他人から見たら、まだコースは外れてないんだと思う。
外れてないけど、ちゃんとコースに立ててもないから僭越ながら人生オワタ組にカテゴライズさせてもらってる。

ぼくは普通になれないから困ってるんだけど、みんなこのトピックに困らされてるイメージあるよね。
“普通”が定義されたらノーベル賞受賞できるかも、人文科学省みたいな?今テキトーに考えたからあるか知らないけど😅

普通について考えると、考えても考えても答えが出ないし、みんながぼくより優れてるみたいな気持ちになってきて落ち込む。というか鬱になるよね

でもこんなに考えても答えが出ないのって、答えがないか、ぼくの脳みそのスペックじゃ答えを出すのに足りないってことだよね?

じゃあ考えるのを辞めるようにする!無駄ってことだもんね?そしたら鬱になる要因一個減るかな?

とにかく、ぼくには普通を考える才はなかったってことだ❗️💦

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