自分がミソジニーだと気づいた話

私は学生時代男女差別を感じたことがなかった。幼少期は気が強くて、虫や石が好きで、数学がダントツにできたが誰も女の子なのに何てことは言わなかった。男女どちらにも良い友達がいたし、周りの人や家族は私の進みたい道を応援してくれた。
大学に入るとクラスに3人しか女性はいなかったが、特に不自由はなかった。むしろ目立つし先生にもすぐ顔を覚えてもらえるから、ネットワーキングの面では得をしていたと思う。

男女差別なんてど田舎の話で自分には関係ないと思っていた。どうしてクラスに3人しか女性がいないのか、真面目に考え向き合ったことはなかった。

就職は海外に行って、いっそう男女差別とは無縁の生活に恵まれた。理系でも男女比が半々に近くバリバリ活躍する女性が当たり前の環境では、自分がマイノリティではないと感じることができた。

違和感を感じ始めたのは帰国後である。
ちょうどアラサーと呼ばれる年齢に差し掛かり、友達の結婚、出産ラッシュが始まった。あんなに頭が良くて仕事のできる友達が育休で1年半も仕事を休んでいると聞いた時はショックだった。彼女は、なんだかんだ夫は育休取れないしあてにならないからしょうがないよねーと笑っていた。

職場でも、数少ない同年代の女性と話すとキャリアへの影響を最小化するにはどのタイミングで子どもを産み育休を短くすませるか、という話題になることがある。男性はそんなこと気にしなくていいんだろうなあ。

同時に堪えたのは付き合っていた恋人に言われたことである。転勤先についてきてくれないか。
ついていく?私にキャリアを諦めろと?子どもの頃からめちゃくちゃ勉強してきて日本をリードする人材であるこの私に?(ちょっと盛ったかな)
別れたことより、男のために仕事を辞めるという選択肢を大した覚悟なく提示されたことにたまらなく惨めさを感じた。

この頃から自分の生きづらさを社会に転嫁したくてたまらなくなった。同時に専業主婦に対して見下しの気持ちを明確に持つようになった。
あなたたちみたいな男女非対称性社会に迎合する存在がいるから日本はいつまでも変わらないのだ、自分から男性の下に付きたがる愚かな女が私の足を引っ張っているのだと。

本を読み勉強することは重要である。私は自分のこの醜い感情が"エリート女性のミソジニー"というありふれた現象だと学んだ。
気づいたからといってその感情が消えるわけではないが、一段階メタな視点に上がれたことで多少醜さは薄れた気がする。

思えば私は学生時代からずっとミソジニーだった。男性の同級生や先輩、教育達から巷の女とは違う、数少ない特別な優秀な女だと見られることを喜んでいた。
優秀な女は稀な存在だなんて、それこそ女性蔑視に他ならないのに。
自分は男女差別から最も遠い人間だと思っていたのに、気づかないうちに男女非対称に歪んだ社会に染まっていたのだ。これも社会学ではよく知られたあるあるな振る舞いらしい。

日本には制度にせよ人々の意識にせよ確かに理不尽な男女非対称性が存在して、その影響を私よりずっと強い形で幼少期から受けてしまった人達がたくさんいて、だからこそ私のクラスには女性が3人しかいなかったのだ。

三十路になってやっと気づくのもアホだと思うが、まあ一生気づかないよりよかったと前向きにとらえよう。やはり勉強は大事だ。
勉強しないといろんなことに気づけないまま人を傷つける。
無知は悪だ。

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