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安曇野いろ「海の声」

唐招提寺御影堂襖絵

2021年 11月 25日

長野県立美術館の東山魁夷「唐招提寺御影堂障壁画展」を見てきた。

68面の障壁画が一堂に展示され、静かで壮大な世界がそこに拡がっていた。

「濤声」は果てなく広がる緑青色の海と白波、黒い岩と青い松の木が点景となり、アクアマリンの流れの中に浮かんでいた。
息を呑むような大きさ。波の音と静けさが一体となって、見る者の身を包む。
襖の中から、海が溢れ出て来る。いつしか高い場所から海を見下ろしていることに気づく。すっかり絵の中に取り込まれて、海鳴りと風の音を聴いていた。潮の香がして、湿り気が体にまといついていた。
細部に目を凝らす。壮大でいて繊細。光や水の粒子まで描かれているのがわかる。粒子のひとつぶひとつぶに心を奪われていると、いつしか、体の芯まで潤っていた。

ふいに、五浦海岸の六角堂の風景が蘇り、轟く波の音を聞きながら思索をしたという岡倉天心のことが思い浮かんだ。海は新しい生命を生み出す場所。壊しては吞み込み、また吐き出す。繰り返す波を眺めるうち、古い殻が弾けて飛び、その中から新しい思考が生まれる。新しいものはみな、彼方からやってくる。

唐招提寺を開いた鑑真和上は、なんども海に挑み、失明しながらも、ついには志を貫いて日本にたどり着いた。鑑真和上のことを思って襖絵を見る。中国と日本。ふたつの国。それを繋げる海。ひとつになる思い。濤声が響き渡る。魁夷の障壁画は、中国の風景と日本の風景を、ひとつの宇宙へと導いていく。
海、空、雲、山。
ひとはおおいなるもの、海、空の彼方にある真理に近づこうとする。
海や空は、ひとを受けいれてくれるかと思えば拒絶し、拒絶したかと思えば、ふいに赦しもする。真理は一瞬だけ垣間見える光のように捉えがたい。凡人の目にもその光が見えるように、感じられるように、すぐれた作品が導き手になってくれるのだろう。

ひとめぐり展示を見たあと、何度も戻って、「濤声」の前に立った。
なんど巡って来ても、音がする。無音の中の音。
心に降ってくる音だろうか。
こんな襖絵に囲まれて過ごしたら、思考は、どんな場所にたどり着くのだろうか。

「山の雲は雲自身の意思で湧き昇り流れるのではなく、
また波は波自体の意志で打ち寄せ、響きをたてているのではない。
宇宙の根本的なものの動きにより、生命の根源からの導きによるものではないだろうか。
この障壁画も私が描いたのではなく、描かされたものである」
 東山魁夷の言葉である。

音もあり、湿り気も香りも色もと
五感すべてで感じることができる絵は、もはや絵というより世界の一部なのだと思いながらの展覧会だった。

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