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1977年はジャパニーズ・フュージョンの始まりの年

 洋楽のフュージョンは、1976年のジョージ・ベンソンの大ヒットから、一躍ミュージックシーンの主流みたいな感じになり、次々といろんなミュージシャンがヒットを飛ばすようになったのだと思います。

 一方日本では、以前も書いたように、四人囃子が1976年に発売した、ゴールデン・ピクニックスというアルバムに、ちょっとフュージョンの香りがしましたが、まだそんなにフュージョンっぽいことをやっていたミュージシャンは多くなかったと思います。

 ところが、翌年1977年にとても重要なアルバムがリリースされているんですね。それがプリズムのファーストアルバムと、高中正義の2ndソロアルバムです。

 プリズムというバンドについては当時全く無名だったのですが、四人囃子を脱退した森園勝敏が加入したバンドだということで、注目を浴びたのですね。わたしもそういう興味でアルバムを買ってみたくちでした。ところが、そこに和田アキラというとんでもなくテクニカルなギタリストがいて、びっくりするわけです。

レコードはA面、B面ではなく、ソフト・サイド、ハード・サイドと分けられており、ソフト・サイドは、四人囃子のレディ・ヴァイオレッタの延長のような、軽快なサウンド、ハード・サイドがリターン・トゥ・フォーエヴァーばりのハードフュージョンとなっていました。ただ、四人囃子の流れでこのアルバムを聴いた人はみんな思ったと思うんですよね「森園勝敏どこにいるんだよ!」と。だって、全曲和田アキラの曲だったわけでして…。

 このファーストアルバムは、初回プレス分があっという間に完売したとか、目黒の杉野講堂で行われたデビューコンサートに目黒駅から長蛇の列ができたとか、そういう話題もあったわけです。これも、森園勝敏の人気だけでもなく、いよいよ日本にも本格的なフュージョンバンドが登場したとか、突如現れたスーパーギタリストとか、そんな興味が一気に集まったのではないかなと思います。

 ところで、日本のフュージョンというと、もう一人忘れてはいけないのは高中正義ですよね。彼も、76年、77年の2年間で3枚ものソロアルバムをリリースしているのです。今ファーストアルバムとかを聴くと、プリズムより前からフュージョンぽい音楽で先を行ってた感じがあるんですよね。

Seychelles / 高中正義 1976

 ただ、どういうわけか、当時わたしのまわりには、ミカバンド解散後の高中のソロを聴いてる奴がほとんどいなくて、わたしは当時プリズムしか聴いてなかったんですよね。そんなわけで高中正義は、80年にBlue Lagoon で大ブレークするまではほとんど聴いていなかったのでした。

 でも、改めて認識したのですが、77年の2ndソロアルバムTAKANAKAにはこの曲、Ready To Flyが収録されているんですよね。

Ready To Fly / 高中正義 1977

この曲は、77年当時はシングルカットされておらず、そんなにOAされていなかったと思うのですが、今聞けば、すでにこの時点で、高中フュージョンともいえるサウンドがほぼ完成している感じがしますね。ちなみにこの曲は、1980年のBlue LagoonのシングルのB面としてシングルカットされたのが最初のようです。

 こうして1977年は、まだごく一部という感じですが、日本人ミュージシャンによるフュージョンミュージックが離陸した年だったのです。これが、翌78年になると、渡辺貞夫の大ヒットで、一気に日本のフュージョンブームが爆発することになるのですね。77年の日本のフュージョンを牽引していたのは、いずれもロック系のミュージシャンだったのですが、まさか次にブレイクするのが、ジャズ界の大御所だとは、このとき全く想像だにしていなかったのでした。


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