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〜第3章〜 The Lambの制作 (1)Headley Grangeでの曲作りと、ピーター・ガブリエルの脱退騒動


さて、Selling Englandのアルバム制作を終え、ツアーも始まり、次のアルバムへの意識が出てきたとき、彼らは「次はダブルアルバムにする」という決定をするわけです。これが実際いつ頃のことかははっきりわからないのですが、マイク・ラザフォードがこのようなコメントをしているように、Selling Englandのリリース後、恐らくツアー中の事だったのでしょう。

Selling England had been our longest album to date but that had made it sound quiet on record: the longer an album was, the more grooves there would be in the vinyl, making the volume lower. For this reason we'd decided to make our next album a double one; this also had the advantage of allowing us to spread out and get more musical variety on.
Selling Englandはこれまでで最も長いアルバムだったけど、そのためにレコードでは静かな音になってしまった:アルバムが長くなればなるほど、レコード盤の溝が多くなり、音量が小さくなるからね。そのため、次のアルバムは2枚組にしようと決めていた。その方が、僕らの自由度と音楽的なバラエティを得られるという利点があったからね。

Living Years / Mike Rutherford

スティーブ・ハケットなどは、ダブルアルバムの理由について"not quite sure why(どうしてかわからない)"と語っていたそうですが、ラザフォードの記憶が正しいなら、恐らくSelling Englandの「静かな音」の反省から、次はいっそダブルアルバムにしようということが、少なくともピーター、マイク、トニーあたりのメンバーでは共通認識になっていたのではないかと思われます。

The idea of having a concept came later when we the thought we might as well give the double album a bit of a story.
コンセプトを持つというアイデアは、その後、2枚組のアルバムにちょっとしたストーリーを持たせたらどうかと考えた時に出てきたものだよ。

Living Years / Mike Rutherford

そして、ダブルアルバムにすることを決めた後に、「ならコンセプトアルバムにしよう」ということになったという流れだったようです。

Selling Englandは、73年9月28日にリリースされ、そのツアーは、新マネージャー、トニー・スミスのマネージメントの元、73年10月に本国イギリスから始まりました。このときのツアーは、イギリスからアメリカ・カナダに向かい、74年1月にイギリスに戻って再び国内ツアーを行ってからベルギー〜ドイツ〜スイス〜イタリア〜フランスと巡り、2月12日までの間に合計64公演のライブを行うのです。さらにその後3月からは2度目の北米ツアーが実施され、これが5月6日までのわずか2か月と少しの間に47公演と、合わせて100回を超えるギグを行ったわけです。そしてこのときの2回の北米ツアーで、かなりの手応えを彼らは感じていたのですね。

このとき、彼らはヨーロッパツアーが終わる1974年2月12日と、次の3月1日に始まる2度目のアメリカ・ツアー間のわずかなオフの間に次のアルバムのリハーサルを始動することを計画したのです。ところが、20代の彼らであっても、さすがにこの殺人的スケジュールは実現できなかったのです。

こうして彼らは1974年5月6日にアメリカツアーを終了した後、ほんのわずかな休暇をとってから、次のアルバムの制作に着手することになったわけです。

Headley Grange

次のアルバムのリハーサルを行うため、彼らが向かったのは、Headley Grange という、ロンドン中心から南西に80Kmほど離れた地にある、18世紀に建てられた一軒家でした。ここは、現在は歴史的建造物として保存されているようですが、当時はレッド・ツェッペリンが賃貸していた物件で、1970年の Led Zeppelin III の大部分はここで制作、録音されています。後にツェッペリンが他のバンドに又貸しするようになり、それをジェネシスが借りたわけです。とくにこの建物の階段の踊り場にセットしたジョン・ボーナムのドラムを録音したWhen the Levee Breaks(Led Zeppelin IV収録)の音響効果は当時語り草になっていたらしく、レコーディングにも適した場所だったようです。また、こういう一軒家がバンドのリハーサルに適していたのは、周囲に民家がなく、深夜までセッションしても苦情が来ないという利便性もあったのでした。

Headley Grange

そして、この建物にはもうひとついわくがあったのでした。ロバート・プラントは、この建物を「幽霊屋敷」と表現しており、「あそこは出る」と明言していたそうです。ジミー・ペイジに至っては、この建物内で、当時傾倒していた黒魔術の儀式を行ったらしいという噂もあったのです。実際、ジェネシスのメンバーも夜中にひっかき音が聞こえた等の証言をしています。そういうかなり老朽化した怪しい状態の建物だったのでした。また、ジェネシスがはじめて到着した際、前に使ったバンドが酷い状態で放置したままで、邸内に人糞が落ちていたり、またものすごい数のネズミが生息していたり等で、彼らは到着後に自分たちで掃除することからスタートせざるを得ないような状況だったのでした。実は、いつ Headley Grange に彼らが入ったのかは正確な記録が残されていません。5月6日に北米最後のギグをニューヨークで行ってから帰国して、少し休んでから集まったのだと思いますが、このとき、最初についたラザフォードが一番良い部屋をゲットしたのに、後からトニー・バンクスが奥さんを連れてきたので、その部屋を彼らに譲ったとか、フィル・コリンズが結婚前のアンドレアとその連れ子の女の子を招待したら、屋敷が汚すぎて「呼ぶんじゃなかった」と後悔したとかの話があるので、メンバーもある期間のうちに三々五々集まっていったのだと思います。それが5月の中旬くらいで、彼らが屋敷を掃除したり楽器のセットをして、音楽制作をはじめられるようになったのが恐らく5月下旬頃からではなかったかと思われます。

ところが、幽霊の噂や邸内の荒れた状況は別として、彼らにとってはThe Lambのリハーサルに再び「合宿」というスタイルをとったことが、結果的にメンバーの精神状態にかなり影響を与えたのではないかという評価が案外あるのです。というのは、チャーターハウスを卒業したばかりの頃とは違って、もうだいぶ大人になっていた彼らは、バンド以外のプライベートを持つようになっていたからです。ここでも筆頭は、奥さんとの問題をかかえたピーター・ガブリエルでした。Selling Englandのツアー中に不倫した奥さんは、この頃ピーターが新たに購入したバース郊外の家(ジェネシス脱退後に引きこもる家)にひとりで暮らしており、まもなく臨月を迎える状況でした。また、スティーブ・ハケットも、最初のドイツ人の奥さんとの結婚が破綻に際しており、子どもの帰属などを巡って微妙な時期だったのです。このときあまり家庭の問題を抱えていなかったのは、結婚直前だった、フィル・コリンズに、奥さん同伴のトニー・バンクス、そしてまだ独身だったマイク・ラザフォードだったのです。

こうして彼らは、7月半ば頃までの予定でリハーサルをスタートしたわけです。


The Lamb コンセプトの決定

「次のアルバムは2枚組のコンセプトアルバムにする」という合意は既に得られていたわけですが、その内容についての議論がいつ始まったかというのも、正確な記録がありません。Headley Grange に移動前なのか、移動後なのかもよくわからないのです。ただ、いずれにしても、これが最初の彼らの揉め事となるわけです。

コンセプトとして合議にかけられたのはマイク・ラザフォードが提案した案と、ピーター・ガブリエルの案でした。

My idea was to use The Little Prince by Antoine de Saint-Exupéry, a book I'd studied in French at school and which I have a fascination with even now. I loved the fact that it was a children’s story that was actually for grown-ups and quite profound.
僕のアイデアは、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子さま」を使うことだった。童話でありながら、実は大人向けで、奥が深いところが気に入ってたんだ。

The Living Years / Mike Ruthreford

この、従来型プログレバンドのコンセプトアルバムのテーマの域を出ていない「星の王子さま」というアイデアに対して、ガブリエルは全く異なる創作アイデアを披露したのでした。

Gabriel, who, like Robert Fripp, has his ear on the pulse of the times and has noticed the accelerating departure from the concepts of classic progressive rock much more than the other band members, really flinches. The singer thinks Rutherford's idea is all too harmless as well as twee. On the contrary, Gabriel pleads for a radical departure from the earlier fantasy and science fiction worlds that have characterised not only some GENESIS pieces but sometimes entire albums by the competition from the progressive rock camp.
ガブリエルは、ロバート・フリップと同様、時代の流れに耳を傾け、他のバンドメンバーよりもずっと、古典的なプログレッシブ・ロックの概念からの逸脱が加速していることに気づいていたが、本当にたじろいだ。このシンガーは、ラザフォードのアイデアはあまりに無害で、しかもツッコミどころ満載だと考えた。それどころか、ガブリエルは、プログレッシブ・ロック陣営の競争相手であるジェネシスのいくつかの作品だけでなく、時にはアルバム全体を特徴づけてきた、以前のファンタジーやSFの世界からの根本的な脱却を訴えている。

The Lamb Lies Down on Broadway (Genesis 1974-1975): History of the Enigmatic Cult Album

そして、そのストーリーと歌詞について、これまでの合議・合作というジェネシスの方法を変えて、ストーリーと歌詞をひとりで全部書くと主張するのです。

Peter and Tony must have come to blows at some point, because Tony in particular does not want Peter writing all the words. But Peter’s argument is: if it is going to be a story album, it should be one person writing the story, and therefore the album.
ピーターとトニーは、ある時殴り合いになったに違いないね。 というのも、特にトニーはピーターがすべての歌詞を書くことを嫌がっていたんだ。でも、ピーターの言い分は、ストーリー・アルバムにするのであれば、ストーリーを書くのは1人であるべきで、だから特別なアルバムになるんだ、というものだったんだ。

Not Dead Yet / Phil Collins

実際にバンドのメンバーはそれ以前に合宿中の車のガソリンを入れるたびにもらえるスタンプカードが誰に帰属するかという問題で殴り合い寸前になったというエピソードを持っていて、「殴り合いになった」というのは、フィルのジョークだと思います。ただ、それほど険悪になりながらも、このときの議論はどういうわけかピーターが他のメンバーの賛同を取りつけるのに成功したということなのです。この議論内容についてはどの資料にも詳細がなく、いつの間にかピーターの案で行くことになった感じを受けるのです。やはりこの時点で彼らは「アメリカで売れる」ことを大きな目標としており、その共通認識が合ったように思います。そこで、メンバーも最終的にピーターの「ニューヨークを舞台とする物語」にかけてみるような心理になったのかもしれません。

こうして、いよいよ Headley Grange での制作がスタートするわけです。

We set up the gear in the main living area, while Peter installs himself at a ropy old piano that’s gathering dust in another room. The four of us jam, he jots down his lyrical ideas, and I record everything on my trusty Nakamichi cassette recorder.
僕らはメインリビングで機材をセットアップし、ピーターは別の部屋で埃をかぶっている古ぼけたピアノの前に座った。僕ら4人はジャムをし、彼は歌詞のアイデアを書き留め、僕が愛用のナカミチのカセットレコーダーですべてを録音したんだ(*2)。

Not Dead Yet / Phil Collins

このとき、作曲隊の4人は前作からの延長で、ミュージシャンとして充実した時期にあり、ジャムりながら曲を作っていく作業は、冒頭からかなり好調にスタートしたようなのです。ところが、ここで、大問題が発生するのです。


ピーター・ガブリエルの脱退騒動

きっかけは、Headley Grange にいたピーター・ガブリエルに、かかってきた1本の電話(*1)でした。発信者は、前年に映画「エクソシスト」を世界的にヒットさせた、ウイリアム・フリードキン監督その人でした。

He'd read a quirky story that Pete had written, which had been on the back of the Genesis Live album (it had been about a woman on a tube train who unzips her skin) and he now wanted to engage Pete as a writer and ideas man in Hollywood.
彼は、ピートが書いた、ジェネシスのライブアルバムの裏面に掲載された風変わりな物語を読み、そのときピートをハリウッドの作家、アイデアマンとして起用したかったんだ。

The Living Years / Mike Ruthreford

フリードキンは、アルバムのストーリーを読んだだけでなく、Selling Englandの北米ツアーでのステージも見ていたのです。彼は大ヒットした「エクソシスト」の次作(*3)を構想する段階で、それまで映画とはあまり関係なかったスタッフを集めて企画を作ろうとしていたようでした。ただフリードキンは、ピーターをメインのシナリオライターに起用する考えはなく、ちょっとしたアイデアマンとして、かなり「軽い気持ち」でのオファーだったようなのです。ところが、チャーターハウスを卒業後映画の学校に通うはずで、バンドのために一度は映画の道を諦めたピーター・ガブリエルにとっては、まさに「舞い上がるような」オファーだったのでした。そこで、ガブリエルはメンバーに提案するのです。

He ask: “Can we put the album on hold? Give me time to do this, then I'll be back.” He doesn’t say he’s leaving.
彼は言ったよ「アルバムは保留にしておいてくれないか? このために時間が欲しいんだ。終わったら戻ってくる」と。彼は、自分が脱退するとは言わなかったんだ。

Not Dead Yet / Phil Collins

Pete’s the most wonderful bumbler. It often looked like he would never decide on things — but for all his ‘ers’ and ‘ums’, he usually knows exactly what he really wants. Eventually, the rest of us began to get a bit fed up with his indecision and gave him an ultimatum, and at that point Pete left the band.
ピートは素晴らしく不器用な奴なんだ。「えー」とか「うーん」とか言っている割には、自分が本当に欲しいものはちゃんとわかっているんだよ。結局、他のメンバーは彼の優柔不断さに少しうんざりし始めて、彼に最後通牒を突きつけてしまい、その時点でピートはバンドを脱退したんだ。

The Living Years / Mike Ruthreford

We all say, “Sorry, Peter, 'fraid not. You're in or you're out.”
僕らはそろって言ったんだ「悪いがピーター、残念だけどダメなんだ。残るか脱退かだ」。

Not Dead Yet / Phil Collins

こうしてピーターは、Headley Grange を出て自宅に帰ってしまうわけです。ところが、これに驚いたのは当のフリードキンでした。彼は、自分がジェネシス解散のきっかけになることを恐れて、ピーターへのオファーを撤回してしまうのですね。当時の誰もが、ジェネシスはピーター・ガブリエルのワンマンバンドだと思っていたわけですから、フリードキンも自分がピーター・ガブリエルを引き抜いたらバンドは解散するに違いないと思うのは無理のない話なのです。

一方、ピーターの離脱を知った、カリスマレコードの社長トニー・ストラットン・スミスとマネージャーのトニー・スミスは、連絡を受けてさっそくピーターの説得に動き出し、わずか3日後にピーターはバンドに復帰することになるのでした。

I knew we'd got a great, strong-sounding album and Pete’s leaving had left me feeling completely deflated. The songs had such effective moods: ‘Back in New York City’, which was aggressive and crude; ‘In the Cage’, which was claustrophobic and suffocating; ‘Fly on a Windshield’, which had real size and power. To have written songs like that and then to have lost our singer felt like a real bummer — so when Pete came back three days later the feeling was mainly one of relief.
素晴らしい、力強いサウンドのアルバムができたと思っていたのに、ピートの脱退ですっかり意気消沈してしまったんだ。攻撃的で粗野な Back in New York City 、閉所恐怖症で息苦しい In the Cage 、本物のサイズとパワーを持つ Fly on a Windshield など、曲には効果的なムードがあった。そんな曲を作っていたのに、シンガーを失ったことは、本当に残念なことだったよ。だから、ピートが3日後に戻ってきたときは、ホッとしたというのが一番だった。

The Living Years / Mike Ruthreford

マイク・ラザフォードの記憶では、ピーター・ガブリエルがいなかったのはわずか3日間とのことですし、この時点までに、4人の方はかなり良い感じで曲作りが進んでいたわけです。ところが、ここに至って彼らは、わずかな間でしたが様々なことを考えるのです。新しいボーカリストを探さなければいけないといって、ボーカリストのリストを作ってみたり、フィル・コリンズは「いっそ、インストゥルメンタルバンドとしてやっていけば」と言って他のメンバーに否定されたり等など。いずれにしても、4人のメンバーはピーター・ガブリエルがいなくなっても自分たちは解散せずにまだやっていくんだという意識をこの時点で確認するようなことになったのでした。そういう意味では、すぐに戻ってきたとはいえ、このときのピーターの離脱騒動は、彼らの歴史上かなり重要なターニングポイントでもあるわけです。

But while Pete's return wasn’t something that any of us gloated about, at the same time we knew it would never be the same again. For the first time we felt that someone wasn’t pulling in the same direction as the rest of us. It wasn’t ‘one for all’ anymore. We didn’t put it into words but there was a feeling that if Pete wasn’t into the group in the same way as we were, something fundamental had changed.
でも、ピートが戻ってきたからといって、僕らは誰もほくそ笑むなんてことはなくて、同時に、もう二度と同じようにはできないだろうと思ったよ。初めて、ある奴が残りの僕らと同じ方向を向いていないことを感じたんだ。もう"One for All "じゃないってね。言葉には出さなかったけど、もしピートが僕らみたいにグループに入り込んでないんだったら、何かが根本的に変わってしまったような気がしたんだ。

The Living Years/ Mike Ruthreford


Headly Grange から次の場所へ

こうしてすったもんだしながらも、彼らは7月の中旬くらいまでのほぼ2か月間、Headly Grange での作業を進めるのです。

From the start we realized we'd got a big job on our hands and knew we couldn’t waste a lot of time arguing. It also became clear very early on that we'd only get the album made if Pete was working on the lyrics full time while the rest of us were working on the music.This bothered Tony more than it bothered me, but Pete’s mind was elsewhere.
最初から、自分たちは大きな仕事を抱えていることを自覚していたし、議論して時間を浪費するわけにはいかないと思っていた。また、ピートがフルタイムで歌詞を書き、残りのメンバーが音楽を担当しなければ、アルバムを作ることはできないということも、かなり早い段階で明らかだった。このことは、僕よりトニーの方が気にしてたけど、ピートの心は別のところにあったんだ。

The Living Years / Mike Ruthreford

ここで、曲の方はほぼ出来上がったと見て良いでしょう。ということは、この時点でピーター・ガブリエル担当のストーリーも、かなりラフだったかもしれませんが、骨子はほぼ完成していたはずなのです。というのも、楽曲隊は、ガブリエルが考えたストーリーがなければ、曲も作れないはずですから。

Pete came up with many different versions of the storyline for The Lamb and I didn’t buy any of them, if I'm honest. It was a journey, really, not a concept, but it never did hang together in my mind. I read the principal version of the story all the way through without making much sense of it at all (as I told Pete).
ピートは The Lamb について、いろいろと異なるバージョンのストーリーを考え出したけど、正直に言うと、僕はそのどれにも賛同できなかった。あれは、コンセプトというよりは、本当は旅だったんだろうけど、僕の中では決してまとまることは無かったよ。(ピートにも言ったけど)まったく意味がわからないまま、主要なバージョンのストーリーをずっと読んでいたんだ。

The Living Years / Mike Ruthreford

とはいえ、他のメンバーにとっても、あのストーリーが意味不明だったのは間違いないのですが、それでも彼らはピーターに説明されたシーンのイメージなどを聞きながら、それを曲で表現するということを着々と進めていったのでしょう。そしてその過程で、一部の曲では、ガブリエルが作曲に参加することもあったりしたわけです。

一方、骨子はほぼ決まっていたとはいえ、まだこの先ピーターはいろいろな部分をいじったり書き直したことは間違いないはずです。そのため、後で曲が足りなくなって、トニー・バンクスがほぼ即興のような形で作った曲があとで追加されたりしたわけです。

また、ジャケットのアートワークをヒプノシスに依頼するミーティングが、この Headly Grange で行われたのがほぼ確実で、かなり最近になって、ヒプノシスの元メンバーから、このときガブリエルから提供された手書きのストーリー資料(*4)の存在が明らかにされているのです。この点からも、Headly Grange での2か月間で The Lamb の基本部分はほぼ完成していたと見て良いのだと思います。ただ、ガブリエルはこの時点では、ほとんど歌詞のほうには着手できていなかったようなのです。

そして、この2か月の間に、11月のアルバムリリースとその後のツアー日程などがどんどんとフィクスしていたはずで、いよいよ締め切りが設定された状況のなかで彼らは動きはじめるのです。

本来 Headly Grange で合宿したというのは、最初は一部でもレッド・ツェッペリンのようにここで録音するつもりもあったのではないかと思います。ところが、全体の遅れによって、ここでは全く録音に進むことが出来ず、彼らは場所を変えて録音作業をすることになるわけです。このとき何故 Headly Grange での作業を延長して録音をしなかったのか、その理由は特に明らかになっていません。普通に考えれば、Headly Grange に次の予定がすでに入っていたのかもしれませんが、もしかしたら別の理由があったのかもしれません。いずれにしても、彼らは Headly Grange よりさらに遠方のウェールズの地で再び「合宿」しながらレコーディングをするという選択をするわけです。ところが、この選択がピーター・ガブリエルに新たな「苦難」を与えることになってしまうのでした。

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【注釈】

*1:Headley Grange には電話が無かったために、「ピーターは小銭をたくさんポケットに入れて街の電話ボックスまで自転車を走らせてフリードキンに電話した」という記述が、あちこちの資料にありますが、実際 Headley Grange に電話はあったのでした。ピーターが Headley Grange の室内で電話をしている写真が存在しています。フリードキンからの最初の連絡も資料によって「電話」と「電報」という2種類の記述があるのですが、Headley Grange に電話があるのであれば、実際は「電話」の可能性が高いと思われます。ピーターがわざわざ街の電話ボックスに出かけてフリードキンに電話したのは事実ですが、これはその会話をメンバーに聞かれたくなかったからでしょう。

*2:このときフィルが録音したテープの一部はブートとして出回っており、今はYouTubeでも聴くことができます。Headly Grange での2か月間で、ほぼすべての楽曲の骨子が完成してしていたであろうことがよく分かります。また、一部の曲にはピーターのボーカルも入っているのですが、歌メロも歌詞もほとんどフィニッシュにはほど遠く、この時点ではまだ全く出来上がっていないことがよくわかります。


*3:ウイリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」の次の作品は、「恐怖の報酬」(1977年公開)で、1953年のフランス映画のリメイク作品です。サントラはタンジェリン・ドリームが担当しています。構想段階ではSF作品の予定で、そのためにピーター・ガブリエルに声がかかったようなのですが、結果的に過去のリメイク作品となって、残念ながらこの作品はあまりヒットしなかったのでした。音楽は初期の段階からタンジェリン・ドリームが担当することが決まっていたようで、ピーター・ガブリエルには本当に脚本のアイデアマン程度の期待しかしていなかったのは明らかだったようです。

*4:ヒプノシスへのジャケットアートワーク依頼時に提供されたピーター・ガブリエルの直筆資料が比較的最近になってヒプノシスの倉庫から発見されたようです。Early Genesisyphian toilと名付けられた資料には、実は2パターンのエンディングが記載されていたそうです。この点から、Headly Grange の段階では、まだストーリー自体も最終フィクスではなかったと思われます。ちなみにGenesisyphianとは、Genesis と Sisyphean(「終わりのない」という意味、ギリシャ神話を語源とする用語)をくっつけた造語。「初期のジェネシス終わりなき労苦」のような意味だと思います。


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