〜第1章〜 The Lambにいたる時代背景
ジェネシスが The Lamb Lies Down on Broadway(邦題:眩惑のブロードウェイ) の制作とリリースを行った1974年とは、前年10月に発生した第4次中東戦争とその余波である第一次オイルショックの影響が世界経済を揺さぶった年です。まさに世界的な激動の年として記録されている年なのです。ところが、ジェネシスの母国イギリスは、オイルショックのだいぶ以前、すでに60年代から続く長い不況にあえいでいたのです。
ここでは、ちょっとジェネシスの音楽そのものから離れて、実際に彼らが活動していた時代の世相を概観してみたいと思います。ちなみに、ピーター・ガブリエルは、なぜThe Lambの物語を着想したかについて、後に以下のように語ったことがあります。
やはり、それまでとは異なる変化が起きていることを彼が感じていた結果の物語だと思うのです。そして、その感覚の背景になった時代はこんな状況だったのです。
「英国病」のイギリス
70年代のイギリスを解説するためには、1940年代の終わり頃の政治状況から話を始める必要があります。この頃、政権与党だった労働党は、「ゆりかごから墓場まで」と言われる高福祉の経済政策を実行しました。ところが、高福祉を実現するためには、高い税金が必要となります。そのため、1970年代になる頃には、イギリスの所得税の最高税率は83%、不労所得の最高税率が付加価値税を加算すると98%にもなるという、異常な水準になっていたのです。この間、ずっと労働党政権だったわけでなく、保守党が政権を奪取したこともありました。ところが、この二大政党の政策の違いがさらなる混乱をもたらしたのも歴的事実でしょう。たとえば、高福祉政策を導入した労働党は、石炭、電力、ガス、鉄鋼、運輸などの産業を相次いで国有化したのですが、50年代に保守党が政権を奪還すると、鉄鋼、運輸は民営化されるのです。ところが60年代に労働党が再び政権につくと、これをまた国有化するなど、混乱としか言いようのない政策変更がありました。しかも国有化された産業は、次第に経営改善努力をしなくなり、産業が弱体化していったのです。こういう状況のなかで、労働者によるストライキの頻発、ヒッピー文化に感化された若者の就労意欲の減退などもあり、60年代以降、国内は不況にあえぐような状況がずっと続いており、70年代に入ってもその状況はさらに悪化していったのです。この60〜70年代のイギリスは、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人」と揶揄され、まさに「英国病」の時代だったわけです。ちなみに、ジェネシスの5thアルバム、Selling England By The Pound(邦題:月影の騎士) のタイトルは、労働党のマニフェストから借用したもので、このアルバムは、イギリスの国内問題を扱った曲が含まれているなど、「イギリスらしさ」がテーマのアルバムだったのです。それまであまり現実社会の問題を採り上げることが無かったジェネシスが、こういうアルバムをリリースした背景にも、やはり彼ら、特にピーター・ガブリエルの現実に対する問題意識の芽生えがあったのだと思います。
「黄金の60年代」のアメリカ
一方アメリカは「黄金の60年代」と言われるように、60年代は堅調に景気が拡大しており、世界のどの国もアメリカの経済成長を目標にするような時代だったのです。ただ、60年代後半から泥沼化したベトナム戦争等もあり、70年代に入ると、徐々に景気が減速しインフレが顕著になっていきます。71年に有名なニクソンショックというのがあり、金融政策の抜本的な転換が行われました。日本もそれまで1ドル360円の固定相場から変動相場(当初は1ドル308円でスタート)に移行したのがこの年なのです。73年にはベトナムからアメリカ軍が完全撤退することになり、戦争という面では少し明るい状況になりましたが、大都市はあまり良い状態ではありませんでした。特にThe Lambの舞台となったニューヨーク市は、アンディー・ウォーホルやジョン・レノンに代表されるように、世界トップの文化発信地という認識はありましたが、一方で市の財政は破綻寸前であり、人種暴動、ギャング戦争などの犯罪に苦しむ大都市だったのでした。特に70年代の状況は相当に酷く、ニューヨーク市は、10年間で80万人以上もの人口流出が起きていた時期なのです。
ちなみに、ジェネシスのメンバーが初めてニューヨークを訪れたのは、1972年12月のことです。ニューヨーク入りする前日に、ボストンの大学でバンド初となるアメリカでのギグを行い、その次の日にニューヨークのフィルハーモニック・ホールで演奏したのです。その後もFoxtrotツアーや、Selling England By The Pound のツアー時に複数回ニューヨークは訪れており、最後は73年5月6日に、Selling Englandツアー最終日をニューヨークで終えたのです。この複数回の訪問の際のニューヨークの印象が、ピーター・ガブリエルのインスピレーションの源になっているのだと思います。
世界を襲ったオイルショック
長年の不況に苦しむイギリス、70年代に入って、好景気が明らかに減速してきたアメリカ、ここにさらに大きな打撃を与えたのが、1973年10月〜77年3月まで続いた第一次オイルショックです。これは、同月に勃発した第4次中東戦争に端を発し、中東の産油国が原油価格を70%もアップし、さらにイスラエルとその支持国に対する経済制裁(=原油の禁輸)などが行われた事による世界的なエネルギー危機です。このとき、わずか3か月で原油価格が4倍にも高騰したわけですね。これは当時日本を含め、世界中の国に強烈な影響を与えました。特に、それまでずっと不況の影響下にあったイギリスは、ここでさらに深刻な経済停滞、物価上昇、通貨の下落などに見舞われたわけです。
「英国病」の時代とロックの隆盛
ところが、不況下の60年代、70年代のイギリスで、一貫して業績を拡大していたのが、レコード業界だったのです。これは、60年代に世界的にレコードを売りまくったビートルズと、それに続いたロックミュージシャンに負うところが大きいのは明らかです。ビートルズはご存じの通り、イギリスの外貨獲得の功績で1965年に受勲したわけですが、彼らは量的な拡大だけでなく、質的な変化ももたらしました。この象徴と言えるのが、67年にリリースされた、コンセプトアルバムの金字塔 Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandですね。実際は Rubber Soul あたりからその萌芽はあったのですが、一般的にはやはりSgt. Pepper's が、それ以後のロックの質的な変化を促したと理解されていると思います。具体的には、アルバム指向の始まりです。つまり、Sgt. Pepper's の成功によって、それまでシングル盤を中心に回っていた音楽市場が、アルバム中心に変化していくのです。イギリスで、シングル盤とアルバムの売り上げ金額が逆転したのが69年とのことですから、この質的変化はかなり急速に起きたと考えて良いでしょう。こうして、イギリスのロックミュージシャンは、基本的にまずアルバムを作ってリリースするということが、普通になっていったわけです。
こうして、右肩上がりに売上が増えて、潤沢な資金を持つことになったレコード会社ですが、一方で、このアルバム中心に転換していく時代に、それまでのマーケティングが全く役に立たなくなるのです。結局レコード会社も「何が売れるのかさっぱりわからない」という状況になってしまったわけです。そして、そのとき何が起きたかというと、レコード会社は、目星をつけた若いミュージシャンに資金を投下して「好き勝手なことをやらせた」のですね。このような状況下で頭角を現したのが、あまたのプログレ系のバンド、ミュージシャンだったわけです。ジェネシスも、小規模レーベルではありましたが、トニー・ストラットン・スミス率いるカリスマレーベルと契約し、そのレーベルの資金を使いながら、基本「好き勝手なこと」をやっていたわけです(そのためメンバーが知らないうちに、バンドは多額の負債をレーベルに対して抱えることになる)。一方リスナーも変化していました。この時代、ヒッピー文化の影響を受けた大学生を中心とした若者のリスナーが一気に増えたのでした。若手ミュージシャンが、レコード会社から供給された資金を背景に、それまでとは異なる「芸術としてのロック」を作ろうとして、それを大学生を中心とした「知識階級」的な若いリスナーが熱狂的に支持するという構図が、ブリティッシュ・プログレが成立したひとつの流れだったわけです。(もちろん、これはプログレだけでなく、クイーンなども結局はこの流れで登場したバンドだったわけですが)
1973年〜74年の音楽シーン
もともと、コンセプトアルバムというスタイルは、Sgt. Pepper's 以前からありましたが、ビートルズがこれを一気にポピュラーにしたわけで、その後数々のコンセプトアルバムが作られるわけです。その中でも、プログレ勢はこのスタイルに親和性が高かったのでしょう。多くのプログレ・コンセプトアルバムがリリースされるようになるのです。そしてこれが、1973年にピークを迎えるわけです。この年リリースされたアルバムを見れば一目瞭然ですね。
【1973年リリースのアルバム】
1月 The Six Wives Of The Henry VIII(邦題:ヘンリー8世の6人の妻たち) / Rick Wakeman
3月 The Dark Side Of The Moon(邦題:狂気) / Pink Floyd
3月 Larks' Tongues in Aspic(邦題:太陽と戦慄) / King Crimson
4月 Yessongs / Yes
4月 Aladdin Sane / David Bowie
4月 Desperado(邦題:ならず者) / Eagles
5月 Tubullar Bells / Mike Oldfield
7月 A Passion Play / Jethro Tull
7月 Berlin / Lou Reed
9月 Photos Of Ghost(邦題:幻の映像) / PFM
10月 Selling England By The Pound(邦題:月影の騎士) / Genesis
10月 Tales From Topographic Oceans(邦題:海洋地形学の物語) / Yes
10月 Quadrophenia(邦題:四重人格) / The Who
10月 Pin Ups / David Bowie
11月 Brain Salad Surgery (邦題:恐怖の頭脳改革)/ EL&P
全部がコンセプトアルバムではありませんが、アメリカ人のルー・リードや、イーグルスもこの年コンセプトアルバムをリリースしていたわけです。
ところが、コンセプトアルバムなら何でも良いと言うわけでもなく、この年リリースされたアルバムの中でも、キリスト教受難劇をモチーフとしたジェスロ・タルの A Passion Play、「神の啓示」的なコンセプトを持った イエスの Tales From Topographic Oceans などは、評論家筋から酷評されることになったのです。一方、アメリカでも大ヒットした Brain Salad Surgery は、「人間が技術に支配されたディストピア」的なコンセプトがあり、これが大成功していたという事実があります。この事だけで、「神話的」「おとぎ話的」コンセプトが廃れつつあったと決めるのは、ちょっと乱暴だと思うのですが、ただ、そのようなコンセプトアルバムは、特に評論家筋から好意的に見られなくなっていたという時代の空気は、ピークとも言える73年にはすでに出始めていたというのは間違いないでしょう。
そして、1974年になると、その傾向はさらに加速しているように見えるのです。
【1974年リリースのアルバム】
3月 Starless and Bible Black(邦題:暗黒の世界) / King Crimson
4月 Diamond Dogs / David Bowie
5月 Journey to the Centre of the Earth(邦題:地底探検)/ Rick Wakeman
7月 Welcome Back My Friends To The Show That Never Ends...Ladies and Gentlemen(邦題:レディス&ジェントルメン) / Emerson, Lake & Palmer
9月 Wish You Were Here(邦題:炎〜あなたがここにいてほしい) / Pink Floyd
10月 Red / King Crimson
10月 War Child / Jethro Tull
11月 The Lamb Lies Down on Broadway(邦題:眩惑のブロードウェイ) / Genesis
12月 Relayer / YES
特に74年は、キング・クリムゾンが解散するという象徴的な出来事があった年です。後の1992年にロバート・フリップはこのように語っています。
拡大する音楽市場のなかで、レコード会社が売上主義に走り、売上のために作品やスターを作り上げようとする、そういう姿勢に嫌気が差したということなのでしょう。結局当初「何をやっても良い」といって好きにさせてくれてたレコード会社が、今度は「もっと売れる物をつくれ」的に迫ってくるのが、アーチストとして納得いかなかったのではないかと思うのです。(まあこれは、デビュー盤以降どうしてもそれを超えるセールスを出せなくなってしまったキング・クリムゾンを率いたロバート・フリップの個人的な意識も一部入っているような気もしないではないのですが…)でもこれが、徐々に逆風が吹き始めていたプログレ勢の象徴みたいなこととして認識されるわけです。
2枚組コンセプトアルバムの決定
さて、ざっと時代の流れを見てきたわけですが、ジェネシスが、後に The Lamb Lies Down on Broadway としてリリースされる 6th アルバムの構想をはじめたのは、74年4〜5月頃です。まだ Red の発売前で、キング・クリムゾンの解散は正式にアナウンスされてなかった時期ですが、先の引用のように、ジェスロ・タルや、イエスのコンセプトアルバムがあまり評価されずに、ツアーにまで影響を与えたという事実はすでに認識していたはずです。一方で74年の同じ時期に Brain Salad Surgery をひっさげてアメリカをツアーして大成功していたEL&Pのニュースも伝わっていたのではないかと思います。そして、そういう状況の中で、彼らは次の作品をコンセプトアルバムにするという決定を行うわけです。
つまり、このときまだ彼らは、まだ「プログレ・コンセプトアルバムの衰退」的な意識はそれほど持っておらず、メンバーは全員やる気に溢れていたのでしょう。ただ、冒頭のピーター・ガブリエルの発言が示すように、このときにこういう問題意識を持っていたのは、恐らくガブリエルだけだったのだと思います。そのため、その次にそれを「どんな内容にするか」というところで一悶着起きることになるのです。
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