〜第5章〜 アルバム全曲解説 (6)A面-6 The Grand Parade of Lifeless Packaging
LPのA面最後となるこの曲は、アルバム制作の最後の最後、つまりロンドンのアイランドスタジオに戻ってから、ピーター・ガブリエルが曲が足りないと言い出して、それを受けたトニー・バンクスが、急遽ひとりで作った曲です。前曲 In The Cage がその後もライブの定番曲となるほどの名曲だったわけで、A面はそこで終わっても良かったとも思うのですが、ピーターは、敢えてもう1曲追加する必要があると考えたのです。ところが、ストーリー的にはこれは本当に必要だったのか?というような話で、物語的な必然性というよりは、恐らくピーター・ガブリエルとして、何か主張したいメッセージが別にあったのではないかと思われる曲なのです。
【テキスト】【歌詞】とその内容
In The Cage の最後は、鍾乳石の檻が融けてレエルの肉体だけが高速回転するという状態で終わるわけですが、次にそれを受けた【テキスト】は、あっさりとこう始まります。
めまいがおさまると、そこはもう洞窟ではなく、何故かピカピカに磨き上げられたビルの玄関ホールなのです。ちょうど会社の受付のような場所です。そして受付に座っている女性は、ドリームドールのセールスレディだと説明されています。普通会社の受付に、セールスレディが座っているというのは、あまりない光景ではないかと思いますが、まあいいでしょう(笑)
そしてそのセールスレディの物売りの口上が歌として始まるわけです。
ここは会社のオフィスではなく、工場の入口だったようです。セールスレディは、drooping lady(皮膚の垂れ下がった女性)だそうで、今だとちょっと問題がある表現かもしれませんがw、年季の入った女性セールスレディのイメージです。ちなみに、ここで notes and coins(紙幣と硬貨)という言葉が歌われるのですが、これが完全なイギリス英語なのだそうです。windshield のように、敢えてアメリカ英語を使ってきたのに、思わずイギリス英語が出てしまった場所だと指摘されています。本来レエルのようなアメリカの人間ならば、紙幣は dollars か bills 、硬貨は change と言うはずだそうです。この辺やはり時間切れで推敲する時間が無かったのでしょうか…。
さて、【歌詞】におけるセールスレディの口上はほんの一部だけなのですが、【テキスト】では、彼女の口上がかなりくわしく記述されています。ちょっと長いですが引用します。
これは、工場に整然と並んでいるドリームドールを前にしたセールスレディの売り口上です。Grand Parade というのは、「大行進」というのが直接的な意味ですが、もう一つ街の目抜き通り、メインストリートを指す言葉でもあります。これは軍隊が街の中心をパレードすることが語源のようで、この用語はどちらかというと植民地を背景としたイギリス英語寄りの言葉らしいですが、アメリカ人でも普通に理解出来るもののようです。ここで、ドリームドールは工場に並べられているだけで、「行進」しているわけでも、工場のラインから次々送り出されているわけでは無く、ただフロアに並んでいるだけなのですが、恐らく「メインストリート」という意味合いも含めてGrand Paradeという言葉が使われたのだと思います。
結局このドリームドールとは、SFによく出てくる人造人間の事だと思うのですが、ここでは、人間そのもののことのように扱われているのです。すべての品質が同じではなく、値段やサポートの違いで「栄養失調」の個体がいるけど、「平均的には問題ない」、だから「いろいろ選ばなくても平均的にはOK」「行動の限界はあらかじめ決められている」といいながら、「他者からの作用によって道から外れる可能性」もあるというエクスキューズが入っており、人造人間でありながら、結局人間そのものと同じであるというようなイメージで語られているわけです。
この口上は、オルダス・ハクスリーの1932年のディストピア小説「すばらしい新世界」(原題:Brave New World)にインスパイアされているのではないかという指摘もあります。この小説の「孵化場・調整部長」という登場人物のスピーチが元ネタだという指摘です。ただ、そこまでドンピシャリのものではないようです。この小説は、ジョージ・オーウェルの「1984」と並び称されるディストピア小説なのだそうで、やはりピーターが読んでいて、参考にした可能性は高いと思われますし、そこにカート・ヴォネガット・ジュニアの文章の雰囲気をふりかけると、こんな文章になるのかもしれません…。
そして、この整然と展示されているドリームドールの間をレエルは歩き回ります。すると…
何とそのドリームドールの中に、昔のギャング仲間や兄のジョンを見つけてしまい、再び恐怖に襲われて、ここから逃げ出すことになるわけです。
ちなみに、この曲の【歌詞】は、こういうストーリーがあまり語られておらず、何か抽象的な言葉が多いような気がします。
再び突然登場する兄ジョンは、額に9というスタンプを押されて、ドリームドールの列の中にいるわけです。
これらの歌詞は、ストーリーとのシンクロが弱いというか、後から無理矢理追加した割には、ストーリー的に重要な情報がほとんど歌われていない感じがするのです。これもピーター・ガブリエルの時間切れの産物のような気がしています。
何故兄のジョンはNo.9なのか?
さて、ここで再び登場するbrother Johnですが、そもそも、どうして名前がジョンなのかという議論があります。確かに主人公はレエルというかなり凝った名前が当てられており、これは以前も書いたようにピーターもかなり考えた末のネーミングだったのですが、その兄がジョンというのは、これは手抜きではないか(笑)と思ってしまうところもあります。そもそも、自分自身の幻影なんだから、名前なんかどうでも良いということで、敢えてありふれた名前にしたという意図かもしれないのですが、それ以外にもいくつか指摘されています。ただ、その内容はせいぜい「スティーブ・ハケットの弟がジョンという名前だった」とか「ジョン・レノンをイメージしたのではないか?」程度の話なので、それほど深い根拠の説では無いようです。実は、「ジョン・レノン説」の根拠として、このNo.9をあげる人もいるのです。というのも、ジョン・レノンは自らのラッキーナンバーを9と考えていて、Revolution No.9 なんて作品もあったわけですから。ただ、そうだとすると、ここは、ありふれた名前であるジョンというのが最初にあって、「ジョンといえばジョン・レノン、レノンと言えばNo.9だよな」みたいなノリで歌詞が作られた可能性もあるのではないでしょうか…(笑)
もうひとつ、ここのNo.9について指摘されているのは、やはりキリスト教との関連です。ピーターはかつて Supper's Ready で666を引用しました。666というのは、「ヨハネの黙示録」に登場する数で、キリスト教では「獣の数」、「悪魔の数字」といわれる数です。一方、9というのは、3の3倍ということで、キリスト教で言う三位一体との関連で「神の完全性」を示す数字だという解釈があるそうです。一方、666と9は同じ物を意味してるという真逆の説もあるのですね。これは数秘術的な解釈でして、6+6+6=18 1+8=9 ということで、666と9は同じものを意味しているというような説なのですが、どうでしょうねえ(笑)
とにもかくにも、この兄ジョンの額の9という数字については、本当にここだけに出てくるもので、その後の伏線にも何にもなっていないというものですので、それほど深い意味はないのではないかと思うのですが…。
結局ピーター・ガブリエルはこの曲で何を訴えたかったのか
このパートの【テキスト】冒頭の、When all this revolution is over という記述の revolution が、ピーター流のダブルミーニングではないかという指摘があります。一義的にはここでの revolution は、洞窟の中で高速で回転していたことを指している(上の引用ではあっさりと「出来事」と訳しました)わけですが、文字通り「革命」、つまり人類が文明化するために通ってきた道を表しているという指摘です。洞窟というのは、石器時代の人類が住んでいた場所の象徴で、そこから後に文明が築いた工場へワープすることを「革命」になぞらえているのではないかというわけです。そして、この Grand Parade という言葉のチョイスが、もう一つのキーになるようです。イギリス人ならば、この言葉からすぐに目抜き通りのショッピングモールや商店街などを連想するようで、これが「文明社会の消費主義」について、批判的な態度を示したのではないかという解釈があるのです。
当時、ガブリエルと妻のジルは、社会に対してかなり批判的なスタンスを持っていたらしいのですね。これは「ヒッピー時代」のカウンターカルチャー的な態度なのだと思います。ピーターはヒッピー中心世代の10歳ほど下ではありますが、まだそういう雰囲気や思想を色濃く引きずっていたのでしょう。そして、74年当時も、依然としてこういう態度は文化人的にファッショナブルな事だというコンセンサスがあったのだと思います。
こうして、過去の「革命」が成功して近代が訪れたにもかかわらず、現代を生きる自分たちは「自由意志」をもたず、外部環境によって形作られて、最終的には社会によって計画された「標準的な生産物」となってしまう。こういう社会についての文明批判的なメッセージを、この曲の【テキスト】と【歌詞】にこめたのではないかというのです。
そして、当初のThe Lambのストーリーには、このようなパートはなかったはずなのですが、ストーリーを構成するうちに、どうしてもそういうメッセージをストーリーの中に忍び込ませたくなったのかもしれません。
【音楽解説】
この曲は、トニー・バンクスが思いついた2つのコードから作られた「行進曲」です。わたしも、初めてこの曲を聴いてからほぼ50年間、これは大量のドリームドールが行進しているシーンを表しているのだとずっと思い込んでいました。最初は整然と行進している雰囲気ですが、曲が進むにつれてどんどんとエスカレートしていき、最後はそれが暴走して破綻するみたいなイメージを音で上手く表現したものだという印象を受けていたわけです。(EL&Pの Karn Evil 9 3rd Impression のエンディングのシンセサイザーのシーケンスがどんどん速くなって暴走するイメージと通ずるものを感じていたんです…)
ところが、【テキスト】をよく読むと、ドリームドールは全く行進していないばかりか、工場のラインから次々と吐き出されてくるようなイメージでもないのです。むしろ、工場のフロアに整然と並べられいて、その間を走り回っているのは、レエルだけなのです。だれも行進していないのに、どうして「行進曲」になるのでしょう。これはやはり Grand Parade of Lifeless Packaging という言葉のイメージから、トニーが曲を急いで作って、それが作られたときには、まだピーターのストーリーや歌詞のテキストが完成していなかったからなのではないかとも思ったりします。【テキスト】【歌詞】ともに、他の曲よりもちょっと練りが足りないような印象を受けるのです。この曲が作られた時点では、もう本当に残された時間が短くて、焦りに焦っており、その影響が出ているのではないかなあと…(個人の感想ですw)
そのためか、この曲については「取るに足りない」曲であるとレッテルを貼る評論家もいます。まさに、アルバムに必要なかった曲だというのです。ただ、わたしはこの行進曲が静かに抑えた感じで始まり、曲が進行するごとに、どんどんとエスカレートする状況が目に見えるような感じで聞こえておりまして、情景をサウンド化するという試みの中では、それほどダメな曲とも思えず、個人的には結構好きな曲なのですが。
ちなみに行進曲のリズムを刻むのは、トニー・バンクスが弾くRMI368
エレクトリックピアノで、In The Cageの冒頭でコードトーンを奏でたのと同じキーボードが使われていますが、今度はエレピらしい音色がチョイスされています。
一方、この曲のもうひとつの特徴としては、ボーカルに加えられたブライアン・イーノのエフェクトがあります。ここは明らかにイーノのシンセサイザー(*1)によりイコライジングされたちょっとあまり聞いたことがないエフェクトのボーカルとなっています。また、to the factory froor という歌詞のところで、急にエコーがかかって、なにか広い空間(ドリームドールが並んでいる広大な工場の空間)のイメージを醸し出すなど(これはイーノというより、プロデューサーのジョン・バーンズの仕事ではないかと…)、ちょっと面白いエフェクトがいろいろ加えられているのですが、イーノの参加だけでなく、さらにこういう処理を加えたのも、元の楽曲が、あまり練られておらずちょっと弱いというイメージが合ったからこそなのかもしれません。ただ、トニー・バンクスは、自分だけで作った曲というのもあるのでしょうが、このアルバムの中のお気に入りの曲としてこの曲をピックアップしているのも事実なのですね。
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【注釈】
*1:ブライアン・イーノが主にこのアルバムで使用したのは、EMSのVCS3というシンセサイザーだそうです。アルバムにもクレジットされたEnossification とは、イーノのこのシンセサイザーのフィルターを使った音源の加工のことです。
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