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25歳

『松樹千年翠』(松寿千年翠)

この言葉は、高校の卒業式の日、「〇〇にピッタリの言葉だと思う。」とクラスの友達に言われてもらった言葉だ。
その日から僕はこの言葉が大好きになった。

松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)は中国の禅宗史書の『続伝灯録』に収録された言葉で、「松の木は千年もの長い年月を経ても風雪に耐え、その瑞々しい緑色を保ち続けている」という意味です。松は海の近くなど厳しい環境においてもしっかり根を張ることから、長寿の象徴と考えられています。
また、祝い事の際には「
松寿千年翠」と当て字で書かれることもあります。小林太玄和尚が書いた作品などが有名です。

変わり続けることが変わらない強さを手に入れる

桜は春になると、綺麗な花を咲かせ、多くの人を引き寄せる。春の桜は日本を代表する景色でもある。また、夏には太陽に向かって咲く向日葵がある。秋には、紅葉が赤く染まり、多くの人たちを魅了する。
冬にも山茶花やスイセン、クリスマスローズが花を咲かせる。
もちろん、見頃というものがある木や花は人に褒められたくて、注目を集めるために咲くわけではない。そこには何一つ、作為はない。
だからこそ僕たちはそんな儚さや、美しさに目や心を奪われるのかもしれないし、古代から日本人はそんな風景に心を動かされてきたんだと思う。

だが、反対に常緑樹の多くは、見頃があるわけではなく、1年を通して、緑の葉をつける。松もその一つだ。

松は夏の猛暑の中でも、冬の吹雪の中でも、その針葉を天へと向けて変わらずに佇立している。
それは
あたかも、時代や流行に流されることのない確固とした「自分」を持った存在のように感じられる。移ろいやすい世の中にあって、黙とした不変の緑を保ち続ける松。
そんな松の姿に節操と生命力を見出し、寂然として佇む風格を讃えたのが「松樹千年の翠」という禅語である。
秋が過ぎ、葉の落ち果てた落葉樹の中で、しかし松の緑は変わらない。
人の真価があらわれるのも、そんな冬のような逆境や苦境に立った時。
葉を落とすように屈っしそうになる中、それでもすくっと立ち続けることのできる人は、松のような不変の強さを持った人。
重たげな雪が積もっても、やがてその雪は陽の光によって融けていく。
春がくることを信じ、じっと待ち続けることができる強さこそ、松の強さである。
年月を越えて変わらずに緑である松は、いつも変わらないようでいて、実際には生え代わりを続けている。
古くなった葉は茶枯れて散り、春には萌黄色の新芽が伸びる。
まったく変わらなければ、それは松ではなくて偽物の造花。
目立たなくても、松の内では活き活きとした躍動が続いているのである。
常に変化を続けることで、松は不変の姿を保っている。
変わらないということは、変化をしないとは違うのだと思う。

卒業式の日に友達からもらったこの言葉に、こんな意味があったことを僕は、全く知りませんでした。
素晴らしい言葉をくれた友達には感謝しかないし、こんな人間になりたいと思う。

松に込められた想い


『松』は『松竹梅』という言葉があるように長寿の象徴でもある。
また、神さまが迷わないための目印、依り代として門松が新年には飾られたりと元々、縁起物として日本に古くからあり、神さまが宿る木としても知られている。
さらには、能の舞台においても松の木が描かれているように、伝統芸能の世界でも大事にされています。

実は、僕の母の名前にも『松』の字が入っています。
小さい頃、母から
「お母さんが生まれたときはね、身体が未熟だったんだ。だから今でいうNICUに入っていたの。それもあって、お父さん(僕にとってのおじいちゃん)が長寿の象徴である『松』の字を付けたんだよ。」と名前の由来を教えてもらったことがある。

受け継いだもの

僕にとって『松』は母親みたいな存在だ。
以前の記事で父についても書いた。

僕には父から受け継いだものと同時に、母からも松の強さを受け継いでいるはずだ。

決意

今日、僕は25歳になりました。
あっという間に25歳になってしまったという気持ちがあります。
小学生のとき、大人がやけにカッコよく見えて、遠い未来のように感じてた。高校、大学と進み、成人式を迎えた。20になっても、25はまだ先の世界だった。就職して、新社会人になって、3個上の先輩はクラスのリーダーをやっていた。自分も3年後にはクラスのリーダーができるようになるのだろうか。会社の、部署の中でも一人前とみなされて、自分でできることも増えて、任されることも増えていくのだろうかと不安と期待が入り混じっていた記憶がある。
今、僕はそんな風になれただろうか。
小学生のときに憧れたカッコいい大人に僕はなれているだろうか。
部署が変わってしまったから、何とも言えないけれど、僕は一人前になれたのだろうか。
答えはきっと、自分が一番よく知っている。
理想と現実は違う。
僕はまだまだまだまだまだ…足りない。
足りないことだらけだ。
周りは「若い、若い。」「これからだよ。」
「人生100年だとしたら、あと75年ある。」
「24時間だとしたら、まだ朝の6時だ。」と言う。
僕は逆に危機感と焦りを感じる。
よく「生き急ぎすぎだよ。」と言われるけど、そんなことはないと勝手に思ってる笑。

僕は歴史小説が好きで、特に定番だけど幕末が大好きである。
明治維新を起こした幕末の志士たちは僕と同年代の若者たちが中心だった。
あの時代を生きた彼らは、熱い想いと、志を胸に日本を変えるために、奔走し、命を懸けた。
そしてその結果が、明治維新という世界でも稀にみる近代化に繋がった。
もちろん、その近代化が軍国主義にも繋がっていくのですが。
要は、まだ25歳だからと安心していいわけじゃないと。
僕と幕末の志士を比べるのはおこがましいし、生きた時代も含めて何もかも違う。
それでも、自分と同年代の若者が駆け抜けた日々、熱い想い、志を僕も持ちたい。
僕は自分が生きていく人生に見頃や、旬がなくていい。
誰かや社会、世界に認められたり、求められなくてもいい。
長生きしたいとは正直思わない。
きちんと「自分の人生を生きた」と心の底から言えるように、生きたい。
訥々と自分の想いを言葉にのせて、行動で示して誰かに届けられるように。
『松樹千年翠。』
この言葉のように、確固たる『自分』をもった人に。
常に変化をしながら、不変を保つ人に。
25歳になった今日。
そんな決意を胸に、これからの日々を生きていく。




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