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母のちょい残し癖を責めることをやめた時に出会った自分の個性

母は物が捨てられない人だ。
わたしは随分そんな母を責め続けた。

賞味期限切れのものが化石と化して溢れる冷蔵庫。
もう読まないであろう雑誌の上に山積みになった包装紙や紙袋が溢れた和室。
一度捨てるようにお願いしたのに復活した衣類が鎮座する廊下。

実家へ帰るたび、わたしはそんな光景にうんざりしては母に対してぶつぶつと嫌味まじりな小言を吐いていた。

どうしてこんなに物があるの?
必要な分だけ買えばいいでしょう?と。

特にわたしと弟が巣立った後空きスペースになった子供部屋の光景は凄まじくて、他の部屋に入りきらぬ物が流れ着く果ての場所となっていた。まるで物置小屋だ。母はその部屋に布団を敷き、たくさんの物に囲まれながら眠りにつく。

こんなところで眠れる神経を信じられないわ、とわたしは心の中で小言を呟きながら、せっせせっせと物で溢れかえった子供部屋を片付け、物を捨て続ける。とは言っても、母のものは触れないので、手をつけられるのは自分の物だけ。

しかし悲しいかな。自分のものを捨てせっかくスペースを作っても、次に実家へ帰省した際そこは新たにどこからかやってきた母のもので占拠されているのだ。まるで自分の古巣を丸ごと飲み込まれていくようで、悲しさを覚えると同時にわたしは怒りに震えていた。

どうしてこんなに物があるの?
必要な分だけ買えばいいでしょう?と。

そしてそのまま伝えないにしても、母に対する態度の端々にわたしはこのメッセージを込め続けていたように思う。

さて、母には「ちょい残し」という癖がある。
冷蔵庫を開けると、10分の1ほどちょい残し状態の調味料の瓶がたくさんあるのだ。夕飯のおかずも全部食べ切らずにちょい残し。豆腐も全部使わず5分の1丁ちょい残し。そしてちょい残しされたものの隣には必ず、新しい物が買い足され封が切られている。

どうして全部使い切らないのよ!もったいないじゃない!
とプリプリしながら、わたしはいつも冷蔵庫を整理する。実家へ帰るとほとんど毎日夕飯を作るのだが、これは母のちょい残し品たちを供養して冷蔵庫をきれいにするためのミッションなのである。そんな訳で、わたしが実家で作る料理は全て〝ちょい残しアレンジレシピ〟なのである。大体30分もあれば家族四人分の食卓が華やかになる程度の品数は量産可能である。

今日も夕飯時、そのようにちょい残しアレンジレシピを量産していたところ、ふとコーヒー片手に父がやってきて、「あやは本当に手際がいいな。こんな短時間にパパっと何品も作れるなんて」と言ってニコニコと見つめていた。わたしの料理する姿はある種のパフォーマンスのようで面白いらしい。

冷蔵庫の中でしおれかけていた青紫蘇と茗荷をザクザク切ってたれを作りながら、冷蔵庫の片隅に忘れかけられカチカチになったパック入り餃子をフライパンで復活させながら耳を父の呟きに傾ける。

「あぁ、普段忙しいから手際が良くなったのかもね」などと適当に相槌を打ちながら冷蔵庫を開けた。昨日食卓へ上がったものの「薄味」という評価が下り自信なげに奥の方へ押しやられていた蒟蒻の煮物を取り出し、ごま油でジュージュー炒めて香り付けにポン酢を回し入れた。蒟蒻が取り出されたことによって近隣に散在していたちょい残しお惣菜シリーズが発見されたので、父に賞味期限を確認したのちに一つのお皿に並べられオードブル化される。

何も考えず手なりに作りながらふと「あぁ、わたし今すごく楽しんでいるな」と思った。母のちょい残し品たちの順列組み合わせを考えながらアレンジして遊んでいるわたしはなんだかとても楽しそうなのだ。

そして、気がついた。
これってもしかしてわたしの個性なんじゃないだろうか?と。

普段家で料理している時こうはいかない。残り物が出ないようにわたしは毎回ピッタリ量に作るので冷蔵庫を開けてもほとんど材料しかなく、我が家のご飯作りは毎回下ごしらえスタートのゼロからクリエイティブだ。一方、実家の冷蔵庫を開けると玉石金剛ではあるものの下ごしらえ済みの加工された素材がゴロゴロ転がっている。普段自分が買わないものばかり、というのもまた面白い。わたしはた人がかけるちょっとした外力が好きなのだ。さらに、ゴロゴロとある食材はちょっと落ち目を迎えつつあるので復活戦に燃える、という楽しみ方もできてしまうのだ。

そうか。今までこんな風に考えたことはなかったけれど、ひょっとしたら母のちょい残しは愛なのかもしれない。なぜなら、母がちょい残しをする時はいつも「お裾分け」精神と「なくなっても誰かが困らないように」という動機が隠れているのだから。

もしかしたら、わたしは無意識的にその愛に応えながら個性を育んできたのかもしれない。

そんな風に認識してみると、今まで散々母を責めるために放ってきた言葉たちが一つまた一つと自分の元へかえってきた。

どうしてこんなに物があるの?
必要な分だけ買えばいいでしょう?
どうして全部使い切らないのよ!
もったいないじゃない!

そして悟るのだ。
これらは子供の頃自分が母から散々投げつけられてきた言葉たちであることを。

母は片付けや自己管理に関してものすごく厳しい人だった。それで、わたしも母のことを「片付けと自己管理ができるお母さん」という風に認識していた。しかし、父によくよく話を聞いてみると、母は元々捨てることも片付けることも得意ではなかったようだ。きっと子育て真っ只中の母は自分ができなくて足掻いていたそれらを、子供であるわたしに「しつけ」という形をとって投影していたのだろう。

なんだか母が急に可愛らしく思えてくると同時に、自分は片付けられない母を責めることで密やかに復讐を試みていたことに気づいてゾッとした。

「あなた、片付けなさいって今まで散々言いましたよね?
散々わたしに怒鳴り散らしてわたしの物を勝手に捨てたりしましたよね?
だからわたしもやっていいでしょう?」
わたしの中で時が止まった状態で立ちすくんでいる思春期の自分が、大人のわたしを介して小さな復讐心を燃やしている。

だけどこれは裏を返すと「わたしの思う強いお母さんのままでいてください」という小さな切なる願いでもあるのだ。

しかし、目の前の母は決して強いお母さんなんかじゃない。

仕事の上司がわかってくれないと不貞腐れ、もう嫌になっちゃったわとビールを一気飲みして、うまく作れなかった蒟蒻料理をタッパーに入れてそっと冷蔵庫の奥へ忍ばせてしまう。
娘が喜ぶだろうとチョコレートを買ったけれどすでに冷蔵庫に同じものが入っていてちょっと落ち込んでテヘヘと笑いながら押し込む。
そんなどこにでもいる家族のことが好きな愛らしいお母さんなのだ。子育てや仕事のプレッシャーから徐々に解放されながらもしかし次の人生をどう歩めばいいのだろうかと心を悩ませちょっとやさぐれつつもただただ真剣に生きている一人の女性なのだ。

そう。わたしが責めているのは、母のほんの一部分にすぎない。
なのに、そのほんの一部分へ大きくフォーカスしてしまうのは、そこにわたしの個性が大きく響くポイントがあるからなのだ。

つまり、わたしの中には「既存のものの見方を変えることで着想を得て新しいものを生み出す」というアレンジメントの個性があって母という存在を介して感じ続けていたのかもしれないのだ。

わたしと母は「片付けること・自己管理すること」という同じテーマに向きあってきて、時を経た今、母は「ちょっと余地を残しながら愛を振りまく」という形で、わたしは「既知を未知へとアレンジする」という形で、互いの個性の違いを認めつつあるのかもしれない。

そう感じてみると、自分のものすごく深い芯の部分がほろほろと静かに音も立てずほぐれていき、その隙間から今まで受け取ることができなかった愛情が差し込んできて、毎日夜になるとさめざめと涙が出てくるのだ。

そして、明日は冷蔵庫の中に何が入っているのだろうかと夢を見みるのだ。










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