無いものに負い目を感じて有るものを磨こうとしないのはなぜか


物事を合理化して生きると楽です。なぜ楽かというと、それは感情を無視して生きるからです。
人が生きることとは苦しみだと仏教でも言われますが、それは人が感情の生き物だからと言うことだと思います。ルールや法則に則って生きることが苦しいという人は、人として全うであろうとしているからだと思います。ルールや法則に則って生きることは、本来は楽なことだからです。そのルールや法則は、人が作ったものではなく、大自然のルールに従うということです。だから、ルールや法則に従うことが苦しいと感じているときは、それは本来の自分が従うべきルールや法則ではないということだと思います。

私も含めて子どもに自分の価値観を押し付けてしまうことに悩む親は、その価値観に自信がないからだと私は思います。
そしてなぜ、この子にこの価値観を伝えたいのかということをしっかり考えていないからだと思います。
私はこう考えます。
『親や親代わりの様々な人からもらった、自分にとって大切な価値観を、まだ大切に自分の中に持っておきたい気持ちがあるのだけど、自分はもう成長していらなくなってしまった。だから、自分はそれを手放して、これから成長するために必要な子どもに受け取ってもらおう。
もし、子どもがそれを受け取らなかった時は、渡す時期が遅かったのだと気づいて、あきらめて他に受け取ってくれる誰かを探すか、自分で形を変えて受け取ってもらうことを再チャレンジするか、いずれを選ぶにしても、自分の元にあるうちはなるべく価値を落とさないようにがんばって、引き受け先をさがそう……』と、思っている。

手放そうと思ったときに躊躇するなら、その価値観はまだ自分に必要だと考えているからです。要するに変わりたくないから手放さないのです。身近な人、例えば子どもに自分の価値観を持っていてほしいと願うのは、本当はまだ変わりたくないという執着なのだと思います。「価値を落とさないように」この考えこそが執着だと思います。価値など変動するものだし、そもそも形があるわけではないものなのに、それをどうこうするなど最初から不可能な話です。
この葛藤に伴う感情が、苦しみであると思います。

人が人である限りは、苦しみは有るものだと思っています。ある目線で見れば『無いもの』として見えないけれど、実際は『有るもの』ということです。ある目線とは物事を合理化する目線です。しかし、楽をするためにあまりにも物事を合理化し過ぎると、合理化とは無駄を省くことでもあるので、その省いた無駄な物事はだんだん溜まってやがて物質化して、誰の目にも見えるようになっていきます。すなわち苦しみが目に見えるようになってきます。
無かったものが有るものになってそれに対してようやく手を付けなければならないと気づくのです。
しかし、気づいたときに負の感情が出てきて、それをまた合理化して無いものとしてしまうと、ぐるぐるぐるぐる同じことを繰り返します。

本当の自分を生きるとはどういうことなのか?現代社会において生きる多くの人が抱える問題だと思います。
私は最近、死刑にされる夢を見ました。
沢山の人達が広い牢屋に入れられていて、私はその中の一人でした。私はその場にいるみんなが死刑囚であり、今から死刑場に連れて行かれる運命なのだということがわかっていました。他の人たちが自分の立場をどう理解していたのかはわかりません。ただ、私はなぜ自分が死刑になるのかという理由を知りませんでした。何か罪を犯したのだということはわかりましたが、自分にとってそれは死刑に当たるほどの罪であるはずがなく、理不尽だという感情がありました。罪について具体的なことは何ひとつわかっていませんでした。そして、私は事実を受け止めていながらも、なぜか自分は死刑になるはずがないとも思っていました。そうしているうちに、半分の人たちがどこかに連れて行かれました。この人たちは死刑にされるのだとわかりました。私は残された半分の人たちの中にいました。人が半分になると、急にもうすぐ自分も死刑場に連れて行かれるのだということを確信していきました。自分が首をくくられて殺される時の事が浮かんできて、その時初めて苦しくなりました。心に「嫌だ」という抵抗が起こりました。その時なぜか外から人がやってきて、私はその人に「娘からだ」と言われてハンドクリームを渡されました。ハンドクリームを手に塗りました。私はその瞬間に「死にたくない!」と叫び、目が覚めました。
目が覚めて、夢だったことにホッとしました。でも、スッキリした感覚はなく「理不尽だ」と呟いていました……

私はいずれ死ぬのだというあたり前のことに心から気がつきました。死刑にされる夢を見たのは、罪悪感に囚われているからだとわかりました。
私は今、本当の自分を生きていないということだと思いました。

なぜ、夢の中で娘からと言ってハンドクリームを渡されたのだろうか?私は考えました。そして、私は娘から差し伸べられた手を取ったのだとわかりました。娘が10歳の時に娘の側を離れた私は、母としてちゃんと側にいてやれなかったという負い目を持っていました。しかし、自分ができる範囲で娘と繋がっているということを必死で保ってきました。ハンドクリームは、娘と私の絆の象徴だとわかりました。側にいられないけど、娘と繋がっていたいという本当の私が出てきたのだと思いました。

みんなから愛されるということは、みんなから引っ張られるということです。それは、それぞれの価値観に引っ張られるということです。それぞれ力の差はあるから、自分よりも強いものに愛されるということは、その強いものの方に動かされるということになります。それは、愛された方が強くて柔軟な意志を持たないと分裂してしまうということになります。

人間関係の器を広げようとした時には、引っ張られる事は必ず起こります。綺麗な形の器にしたいのなら、四方八方からまんべんなく引っ張られなければならない。片方だけ強い力で引っ張られ続けると、バランスの悪い歪な形になっていきます。自分の中にある形の器を、人は無意識に作ろうとするのだと思います。では、美しい形とはどんな形なのだろう?それを考えていた時に、私はある人からバッキーボールというものを教えてもらいました。バッキーボールとは、三十二面体で、正五角形が十二個、正六角形が二十個などのいわゆるサッカーボールのような形状です。大自然のあらゆる形の中に、この形状が組み込まれていることも知りました。私はこれを知った時に、美しい人間関係の器を作るヒントになるのではないかと思いました。
バッキーボールは三十ニ面が支え合って綺麗な球体を作っていますが、その面を作っている辺や、辺と辺の接続点を見ていると、人間一人一人の役割のように見えてきました。
美しい形に憧れる、私の心のバッキーボールは、とても壊れやすい素材で作られているように感じました。娘とはハンドクリームの様な儚いもので繋がっているのであり、手と手をしっかり繋いでいる関係ではないのだとわかりました。
私がこれからやるべきことは、ちょっとやそっとでは壊れないバッキーボールを作ることではなく、繋がるべきときにはしっかり繋がって美しい形を作り、時期がきたら離れていくけれど、その一つ一つが強く美しいエレメントであるものを目指すということです。

強く美しい形を目指すなら、やはり内面を磨くということがとても大切だと考えています。内面をどう磨けばいいのかを悩む人は多いと思います。それは目に見えないからです。でも、それは有るものを無いものとして見ているからではないでしょうか?少しだけ目線を深めて、今ここに有るものを見つめていこうと思います。

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