抱けばなんとかなると思っている、愛しいひとたちへ~阿久悠のはなし~
普遍的で分かりやすい言葉だけを使い、メロディに合わせるという制約の中、ここまで具体的な絵が浮かぶ歌詞を書ける作家はやっぱりそうそういないと感じる。昭和の偉大な作詞家、阿久悠の話である。
大人になりサブスクで無限に音楽を浴びている今でも、いまだに阿久悠の歌詞を見るとため息が出るほど圧倒されてしまう。私の文章はこの作家から少し影響を受けている、ひらがなを使うタイミングとか。
阿久悠は職人気質な職業作家だったため、数多くの歌手に歌詞提供をしてきた。当時の歌謡界のスタァ・沢田研二の、後には代表曲となる歌もいくつか書いているのだが、その歌世界に出てくる登場人物はだいたい性格の方向性が定まっていた。
とにかく気障(きざ)な色男なのだ。女にだらしがなく、息をするように相手を色恋沙汰に巻き込み、悪気はないのに相手を深く傷付け、自分も何だかんだ傷付いてしまう。
当時のジュリーはそんなシングルばかり歌っていた。
この「勝手にしやがれ」は、そんな色男が成り行きで半同棲していた女から見切られる瞬間みたいなものを男の視点から切り取り、当時としては権威だった日本レコード大賞を受賞している。
そんなわけで歌詞の考察をやってみたい。
これはあくまで私の頭に浮かんだ理想化された1970年代の景色だから、本来はみんな好き勝手に解釈すればいいと思う。
本邦における世紀の名曲の歌い出しはこうである。
登場人物は男と女の2人きり。まごうことなき恋愛の歌である。ふたりは近ごろ関係がうまくいっておらず、喧嘩も絶えなくなってきている。
とある夜。ロケーションは男の部屋、男女が口論している。具体的な理由をあげつらったり過去の浮気話を持ち出したりしながら、女が男に「別れたい」と繰り返している、もう何度目か分からない三行半。
男は最初こそのらりくらりと交わしていたが、育ちについて言われた途端、激昂する。それを待っていたかのように女は泣き崩れ、さめざめと泣き始める、とても静かな涙。男はつい女を抱き寄せてしまう、その姿があんまり綺麗だったから。
相手が離れようとするタイミングに限って優しさや愛情を発揮する人間をクズと呼ぶのなら、男はまさにそれだろう。「別れた方が良い」と誰もが言うほど関係が行き詰まっているのに、甘いことばで泣いてる女をやさしくなだめ、涙にキスをし、その流れでやっぱり寝てしまう。
抱いてしまえば、体で体を強く結べば、喧嘩はあやふやになり、今日まで関係が続いてきた。そういう生き方しか知らない男。
女も女でそのたび情にほだされ、別れるという選択はしてこなかった。
しかしこの夜は違った。
腕枕をし、なめらかな肌の感触と人間の体温を感じながら一緒に眠ったはずが、ふと目を覚ますと女は傍におらず布団の半分が冷えきっている。耳を澄ますと引き出しを開け閉めする音、きぬずれの音、革のカバンに何かを詰めているような音。
女が出て行こうとしている。
男はそれに気が付くが、目を閉じたまま寝たフリを決め込む。
二人の間にはもう情しか残っていないと感じたのか、別の女の名前を寝言で聞いたのか、今日で最後にすると心に決めていたのか、新しい男が出来そうなのか、ほとほと男のやり口に疲れたのかは分からない。
この曲に女の視点は一切出てこないし一切語られない。恋愛という事象は立場によって随分見え方が異なるものだが、うまい歌謡曲の歌詞はその性質を利用している場合が多く、これもあくまで男の絶対的な主観である。
だから「(二人の恋愛は)悪いことばかりじゃないと 想い出かきあつめ」ているかどうかは実際まったく定かでは無い。これは単なる未練がましい男側の心情風景とも読める。
またこの男は恋愛感情を敏感に感じ取る感性に秀でているからか、抱き合っている時に何かを感じとったのか、一度出したことによって男性ホルモンの働きで客観的になったのか、ただの強がりなのか、
「やっぱり」お前は出ていくんだな、などと考えている。
起きていることがバレたら絵にならない。気障な自分とその生き様を守るために、時おり頬を伝う涙を見せないために、ただ壁の方を見つめながら寝たフリを続ける。1977年にしてもかなり古くさい考えの男だ。
愛した女が今まさに離れていこうとしているその悲しい音を背中で静かに受け止めながら、ただ彼女が部屋を出ていくのを待っている。じっと。息を潜めて。
女は寝たふりに気が付いている。大きな旅行カバンをよたよた抱え、男を一度だけちらりと見てから部屋を出ていく。コツコツと聞こえるヒールの音が遠くなってゆく。
時間にするとほんの一瞬の出来事だが、少なめに書き出してみてもこれだけのことが一番の歌詞から空想できる、歌謡曲ってなんて楽しいんだろう。行間にこそ物語がある。
二番はまた場面が切り替わるが考察はこの辺にしておく。でも個人的に好きなフレーズがある。
こういうタイプの人間、夜の仕事を始めてからめちゃくちゃ視界に入るようになった。
一度だけ接客した中堅YouTuber、なんかやたら指名を取るけど休みがちな女の子、元同僚が貢いでいた売れっ子ホスト、友達が使っていたスカウト、色恋管理が得意な店舗型ヘルス時代の店長、とか。(最後だけ特定可能だけど具体名書いちゃだめよ、業界の恩師だから。)
人たらしという種類の人間は別に悪意があるわけじゃない。欲に直球だし、案外義理人情があったりするし、かと思えば気分で切り捨てたりするし、本命の想い人の前では案外照れてカッコつけたりする。若ければ寝ることで解決しようとする人も多い。
しかし、これだけ聞き手の想像力をかき立てる歌詞が日本に数多く存在していたという事実はこの国の文化が独自で豊かだったことを証明しているし、歌が当たれば一生食べられる金を稼げた時代だったから歌謡曲の世界には優秀な人間が集まっていたことが伝わってくる。なんてロマンのある時代なんだろう。やっぱり私も団塊の世代に生まれたかった。
件の阿久悠は電通出身の昔気質な人間で瀬戸内海の生まれ、野球が好き、そんな昭和なオジサン的側面もある。だが基本的には時代の匂いをかぎとり誰よりも最先端をいく人だった。
70年代のピンク・レディーに「男ならここで逃げの一手だけど 女にはそんなことは出来やしない(サウスポー)」と歌わせた人間である。
もし彼が2000年代の生まれだったら、おそらく作詞家にはならなかったと思う。ITの世界に進んで日本を飛び出していたかもしれないし、AIの開発者だったかもしれない。
万が一作詞家になっていても、「恋愛」「男と女」「酒とタバコ」のようなモチーフはもう時代遅れだから使わなかっただろう、私は好きだが。
またこれも印象的なエピソードだが、阿久悠は基本的に自分が歌詞を書く歌手とは会わなかったという。例え会っても言葉を深くは交わさなかった、あくまでテレビのいち視聴者の目線から歌詞を書いていた、その方がうまく書けるから。そんなようなことを何かのインタビューで読んだ気がする。
実際、沢田研二の性格は歌の人物像とはかなり違っており、歌わなければ気のいい野球好きな関西のあんちゃんという雰囲気で、バーボンより焼酎を飲んでいそうな気さくさがある。芸能人にしては珍しく、くったくのない笑顔で笑う人だった。彼が結婚した二人の女性を見てもどこか平凡な日本人男性っぽさがある。
阿久悠はそういった沢田の本質に触れることをあえて避け続けながら、数多くの素晴らしい作品を書き上げた。実体験を元に歌詞を書くタイプの作家も多いが、阿久悠はほとんど身の回りの人間を観察したり、映画から引用したり、想像の力で書いていたと思われる。凄まじい才能、そして努力だと思う。会ってみたかった。生まれるのが遅すぎた。
最後になるが、歌謡曲ファンならお馴染み夜のヒットスタジオのトークと歌唱シーンを載せておく。曲はもちろん「勝手にしやがれ」、歌唱は全盛期の沢田研二だ。
演出面で最後トラブっているが、それを差し引いてもいい。歌を「演じる」種類の稀代の歌手である。
志村けんとの掛け合いが絶妙な、ドリフ時代のコントもいい。この志村けんは女にしか見えない。
あっ、件のレコード大賞受賞の瞬間は叙情的て美しく、当時の日本歌謡界の熱狂が伝わるのでここに置いておきますねー。赤い衣装のやつがそれで、ラストは紅白歌合戦。
沢田の話に終始してしまったが、阿久悠の作品は他にも好きなものが沢山ある、また機会があれば書きたい。
ここまで読んでくれた読者ならば何か感じてくれると信じ、筆を置こうと思う。
100円でもヤル気に直結するので本当に感謝でしかないです。新宿ゴールデン街でお店番してたりします、詳しくはTwitterから。