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猫撫と、ヌード。

彼女にしか撮れない写真がある。

撮影の翌日に送られてきた写真は驚くべきものだった。私のよくよく知っている、柔らかで、ごくいつも通りの、“わたし”としか呼びようのない私が、そこにいた。

どうしてヌードを?

猫撫さんは、“脱いで写る”側として活動を始めた人である。写真と関わるようになり、そして撮るようにもなったいきさつはご本人のnoteを参照することをお勧めする。彼女は普段から写真やヌードについて考えを巡らせているし、それを言葉にして発信することにも長けている。だからこそ、向かい合って対話することでより奥深くにあるものを見てみたい。そんな気持ちで、私は今回の撮影に臨んだ。

彼女はヌード写真の作品に初めて触れたとき、「男性が抜くためのエロ」ではなく「自分のためのエロス」が存在していることが嬉しかったという。アガペーと対置されるような、「本来の意味でのエロス」がそこにあるというのだ。他者(特に異性)が求めるモノとしての裸体や、社会の中で決まりきった画一的な美。ヌードは時に、そうした“呪い”から私たちを救い出してくれるということを、彼女はよく知っているのだろう。

“人間観察”に生きる。

実はこの『と、ヌード。』という企画は、猫撫さんが以前行っていた『Real Face』という企画からアイデアを借りているところがある。『Real Face』もまた、彼女が対話をしながら相手を撮るというものであった。撮られるときも、撮るときも、そしてそれ以外のときも、あらゆる彼女の言動は「ひとが好き」という性質に支えられている。『Real Face』はそれを象徴する企画だ。彼女がカメラを持ってすぐ「ひとを撮りたい」と考えたのも、ごく自然なことである。

撮り手としての彼女も、特技の“人間観察”を大いに役立てている。ひとを撮るとき、彼女はまず「その人(被写体)の良さ」を捉えるよう意識しているという。その上で、その良さをより引き出せるような、彼女なりの力添えをしたいというのだ。「その人の人間性がすべてみえる写真」を撮れるようになることが、彼女の理想だという。

また、被写体の良さを引き出すためであれば、ヌードである必要はないと彼女は言う。その人が身につけているファッションも、ひとつの自己表現であるからだ。脱ぐことで上手く自分を表現できる者もいれば、着ることで上手く表現できる者もいる。ヌードをやるということは、裸体をさらけ出すということであると同時に、衣服による表現を取り払うということでもあると言える。

ヌードにできることとは?

では、ヌードにしかできないこととは、一体何なのだろうか。猫撫さんは、裸体とはすなわち「無防備な姿」であり、撮ることによってそれを「全肯定する」というところに意味があると考えている。人を観察するだけでなく、その上で相手を肯定する、というのも彼女の得意とするところなのだろう。

「無防備な姿を全肯定する」というのは、「セックスと同じ」と彼女が言っていたのも印象的だ。ヌード撮影もセックスも、“相手との間にどのような関係性が流れているかによって、結果が大きく変わるもの”と言えるのではないだろうか。特にヌードの撮影では、コミュニケーションに関するトラブルが起こることも少なくない。カメラは時に、凶器にだってなりうる。私はそうした“危うさ”を、彼女からはほとんど感じない。彼女は決して撮ることでひとを傷つけない。どこまでも、ひとを護るということを考えて撮っているのだ。

ひとを撮ることは、「セラピー」でもあると彼女は表現する。他の撮り手も同じように表現しているのを見聞きしたことがある。誰かの写真の中で生かされることで、自らを肯定できるようになるという経験をしたモデル・被写体は多いのではないだろうか。そして、ヌードはこうしたセラピーの究極形と言えるだろう。無防備な状態でも、誰もが肯定されてよいのだと私たちは信じている。

おわりに

猫撫さんとお会いしたのはこれで二度目だった。にも関わらず、彼女の写真のなかの私は、様々な人に撮られた中で一番“ありのまま”だったのだ。簡単に誰かのものになどなりたくない。そんな気持ちから、私は“威嚇”するようにしているし、無意識にもしてしまう。しかし、それも彼女の前ではとけてしまっていたようである。こんな写真は、きっと他の誰にも撮れない。

眼をきらめかせ、ほのかに笑む自分を眺めながら、「ああ私はあの時、彼女に抱かれていたんだな」と思った。特別であたたかな交わりが、そこに写っていた。

[写真、情報提供]猫撫
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