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誕生日を迎えて

久しぶりの投稿。
コロナ禍になり人との距離感の変化、自分の気持ちの変化、家族の成長に伴う生活の変化、この4年に驚く程に世の中も私の生活も変化していた。
引きこもりだった息子が働き始めたり、職場のいじめで病みかけた娘は転職先で正社員になり、私は職場のスタッフの異動に伴いとても気を揉んで病みかけたがようやくコミュニケーションが取れて居心地のよい関係になったりした。ただこれは私の主観の世界であり、それぞれに私が見ていないたくさんの努力があってみんなが自分の人生を精一杯良くしようとした結果であるのは間違いない。その彼らの世界の中の私自身はひとつの欠片でしかなく私がいなければまた違う景色があるだけなのだ。そう、私が幸運と思うことは誰かの努力で今ここにある。出会った全ての人のそれぞれの世界での努力や行動の中に私の幸せの欠片があって、時には辛い欠片もある。ただそれだけなのだ。今の私が幸せを感じるということは今いる私の仲間や友人、仕事の仲間や関わる人たちに愛されてるということなのかもしれないのだ。
もちろん私から意図せず離れてしまった人もいる。離れた人には離れた人の意識や事情がある。少なくとも私はその人たちの世界の欠片としてはまらなかっただけなのだ。
人との関係、距離感というのを時々見誤ってしまう私ではある。ついつい全力で向き合おうとしてしまう自分、ちょっと自分本位に捉えてしまう自分。それは私の心の弱さによる依存性のある悪いクセだ。そのせいで時々友人に助けてもらったりもする。家族であろうと親友であろうと私たちはひとりの人でありそれぞれの人生を生きる者なのだ。そこに尊敬なしには語れない多くの事象が存在し、誰も代わることが出来ない歴史がある。
少し前の私は漠然と何者かになりたかった。周りの人たちの才能が羨ましくて私にも何かできないか?とがむしゃらに模索し足掻いて苦しかった。
しかしコロナ禍になり世の中が一変した。人との関係を分断してしまうような疫病が蔓延し、人との距離が開くような社会になっていた。その中でも私は私らしさを失うことなく生きていられるのはやはり側にいてくれた愛情や強い思いやりある友人や仲間や家族があったから。そんな人たちと繋がったからこそ私はこうして生きている。生かされている。誰かを羨むことも誰かを憎むことも無くただ誰かを思い思ってもらえる関係があるからこそ今の私がいる。私は私の人生を生き、人はその人の人生を生きる。ただそれだけなのに多くの人の交差する世の中において優しい気持ちで寄り添えるってなんて素敵なことだろう。
そんな世界で生きられる私はなんて幸せなんだろう。会ったこともない人たちにお誕生日おめでとうと言ってもらい、良い日々を過ごせるようにと祈ってもらい、私のためにと思って選んでもらったプレゼントもたくさん届いた。こんな55年目の誕生日を想像してなかったよ。私ができることはなにものかになることじゃない。愛情を絶やさずに周りと自分に向き合うことなんじゃないかと。人生も残り少なくなって気づくのが遅いけど、私を取り巻く人たちの幸せを願い思いやることは出来るはず。残りの人生は人に寄り添える人であろう。そういう心のゆとりを失わないように、ありったけの愛情を満たして生きて行こう。生まれて良かった。今こそ15歳の死にたかった私を強く抱きしめてあげたい。そしてその15歳の死にたかった私に生きてくれてありがとうと心から感謝。

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