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夕暮れ

3年前、余命少ない養母を見舞った頃から、彼女は私には一切口をきかなくなった。毎日通った妹には話をしたというから、やはり私を憎んでいたのかもしれない。彼女の思い通りにならなかった私を憎んでいた。

あの子は私の言うことを聞かない。何をやってもダメだ。

周りの人たちにそう言っていたと、養母の葬儀の時に参列した知らない人に言われた。

養母の葬儀は喪主の父が癌に侵されていたため、私が代わって式を取り仕切った。いろんな思いはあったけれど、最期くらいはきちんと送りだそうと思っていた。式も終わり、参列者を見送った後、実家が信仰している宗教の仲間が集まっている時に言われた。

○○さん、家を捨てた長女はダメって言ってたけど、お孫さんもしっかりしてるし、ちゃんとしとるがね。

養母の危篤で先に駆けつけた私の元に、娘が弟たちを乗せて駆けつけて、葬儀場に泊まり込み、告別式を取り仕切る私の手伝いをした。5人の子どもたちはそれぞれに役割を決めて私を支えてくれていた。養母が何を言っていたのかは知らないが、私のことも、子どもたちのことも赤の他人にとやかく言われる筋合いはない。

良い娘ではいられなかった。いや、養母にとってはそもそも私は娘ではなかった。

幼い時から、妹たちの世話や経営する喫茶店の手伝いをし、時には愚痴の聞き役になり、時にはストレスの捌け口になり(殴られたり、妹の嘘で家の外に出されたり、ご飯を貰えなかったことも。)彼女の通院の為に学校を休んだり…。

そんな私は小学5年の時、家出をした。従兄弟の家まで3時間くらいかけて歩いて行った。親は私のことを必死に探してくれるものだと思っていた。結果は、叔父が父に電話して、家に送り返されたが養母は私に対して1週間くらい口をきかなかった。その後、事ある毎にお前は家を捨てたと言われた。母の決めた見合い相手で結婚が決まった後は、延々と家を捨てたと言われ続けていた。それは幼い娘や息子の前でも臆することなく、言っていたから、成長するにつれて次第に子どもたちは実家に行かなくなっていた。

それまで子育てや仕事に忙しいこともあって、実家を訪れることは少なかったが、父の肺がんがわかってから、私も実家に行くようにした。何をするわけでもないが、少しでも親孝行らしいことをしようと思っていた。

亡くなる2ヶ月くらい前に病院で夕方見舞った時、外が見渡せる広い窓の近くに車椅子を置いて、私はたわいもないことを養母に話しかけたが、彼女は口を真一文字に結んだまま一言も発しなかった。聞こえていないわけでもなかっただろう。その時気づいた。小学5年の時に私が家出をした時の養母の顔と同じだった。

この人は私を憎んでる。私はそう思った。

私はゆっくり話しかけた。聞いていないかもしれないが、聞いていたかもしれない。

「母さん。母さんは本当は私のことが嫌いだったね。周りには大事な娘だよと言っていたけど、本当は違ったんだよね。あなたが望んだことは何ひとつしてあげなかったからね。あなたは私のしたいことを全て否定したよね。本当は私のこと嫌いだったでしょ?私はずっとそう思っていたんだ。でもね、私はお母さんが欲しかったんだ。寄り添ってくれるお母さんが欲しかったんだ。甘えたかったんだよ。知ってる?あなたもお母さんがいなかったかもしれないけど、私にもお母さんがいなかったんだよ。

結局あなたは私のお母さんではなかったね。でもね、私は母親になれたよ。良い母親ではないけど、子どもたちを愛してるよ。愛おしいよ。幸せだよ。あなたは幸せだったのかな?私にはあなたが幸せには見えなかったよ。でもね、それがあなたの選んで歩んだ人生なんだね。」

顔色変えずに養母は黙っていた。少しして、看護師さんに頼んで、部屋へ戻る養母を見送った。とんでもないことを言ったと思ったが、不思議と気持ちは軽かった。

その後の亡くなるまでの2ヶ月は何度も何度も危篤で呼びつけられ、片道2時間を行ったり来たりしながら養母や父を見舞った。その後一言も私には発することなく3年前、養母は亡くなり、父もそれから3ヶ月後に亡くなった。

妹からは連絡もほとんどない。時々お米を送るが、妹との関係も無いに等しい。

先日あの夕暮れの時の光景を夢に見た。

私の言葉は昇華されただろうか。私の存在は私が育った場所にはもうない。

もう過去に縛られることはないんだと思った。

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