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生きづらくとも生きてみる

私の生き方が正しいかどうか。それは今でも疑問のまま。毎日、これで良かったという肯定と仕方がなかったという中途半端な諦めの気持ちとの繰り返し。

50年以上、それなりに真面目に生きてきた。子どもたちには同じ軌跡を辿らせたくはないと思うくらい、嫌な記憶の方が多いけれど…。どんなに苦しい中にも小さな喜びはたくさんあった。

しあわせって何なんだ?そんなかたちもなく、見えないものを追いかけながら生きているこの毎日。一瞬で吹き抜けていく喜びの感情に想いを馳せながら、またその喜びを追いかける。泣いたり怒ったり笑ったりの感情を駆使し、自分の心と身体のバランスをとりながら…。

誰も替わってくれないし、誰も背負えない自分の時間。無くなればいいのにって思うこともまだある。もうこのまま消えてしまっても困らないよなって思ったりもする。

それでも生きることをやめないのは、やっぱり楽しいことも嬉しいこともワクワクすることも、知ってるからなんだろう。誰かと食べたご飯が美味しかったり、誰かと見た景色が美しかったり、喜びの記憶が自分の心というアルバムにたくさん保存されてるから。

人と関わること自体、時折苦行。愛されることに慣れてないから、人の好意を善意と素直に受け取れないこともある。なんかあるんやないか?って、疑念を持ったりする嫌な自分もいるし、上手くいってると思っていた関係が崩壊して、撃沈したり、それでも諦められない自分をたまには疎んじる。子どもたちとの関りですら自分の不甲斐なさや自身の稚拙な承認欲求に困惑するくらいだ。その反対にあほみたいに信用したり、些細なことで喜んだりしている単純な自分を半笑いでみている自分。なんとも情けない。それでも自分は好きな人がたくさんいる。信用されなくても、信頼されてなくても、私には好きな人がたくさんいるのは事実。人との関りが苦手でも好きな人たちに向けた気持ちに偽りはない。その思いが自分を支えて律して、また何故か知らないけど頑張ってしまう。私の人生とはそんなことで繋がれてきたような気がする。

正しく生きるってなんだろうね。自分の思う正しさに囚われすぎて我が子をも傷つけてしまったこともある。悔いのない生き方なんてないかもしれない。ただ人と関わらなければ人の気持ちはわからない。それがとても辛いことでも感情のない生き方はしたくはないかなといまは思う。50年以上も生きてきても知らない事も知らない自分の新しい一面にもまだまだ出会える。面白いね。出会い一つが違う道筋に気づかせてくれるんだから。進むのも選ぶのもどう生きるのもこれからの自分次第。

波のように寄せたり引いたりしながら……ね。





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