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私の子育てって

先日、三男の誕生日に三男が生まれた時のことをTwitterにあげた。うちの子どもたち、出生時の話が好きなようだ。毎年、誕生日にその子のことを話す。幼い時から何度も何度も話して聞かせてる。私には五人分のエピソードがある。それぞれの誕生日には何時頃産まれたか、毎回教える。嬉しそうにいろんな質問をしてくる。大抵のことは母子手帳に記載しているから、私がいなくなっても、後で見返せばよいのだけどね。

しかし、私には出生の記憶がない。当たり前のことだけど…。正確には私の出生時を語れる人がいない。つまりは生みの親がいない。私は私を生んだ母親を知らない。そんなこと大したことじゃない。今生きていることが大切なのだ。 なんてことが言えないくらい、私にとって大事なことだった。

だからこそ、自分が初めて子どもを授かった時から、この記憶は必ず残そうと強く思った。

どんなにあなたたちを愛おしく思っているか、どんな思いで妊娠中を過ごし、出産時に何があったか、どんな風に産まれたか。

これを伝えたら子どもは自分を否定して生きることはないだろう。生まれるんじゃなかったなどと思わないだろう。兄弟で憎しみあったりしないだろう。そう思っている。その記憶は間違いなく愛された記録だから。私が間違いなく生んだんだよという証明だから。

私には愛された記憶も記録もない。父の再婚相手の養母には好かれないし、生みの母の記憶もない。赤ん坊の頃の写真も一枚しかない。生みの親らしき人と一緒に写っている赤ん坊が自分なのかもわからない。だから、水ぼうそうやはしかにかかったかどうかの記録もない。二人とも何一つ答えてはくれないまま、鬼籍に入ってしまったから、今となってはもうどうにもならない。埋まらない穴を抱えて生きていくしかない。

むしろ、こんな私が子を授かり、育てられたのが奇跡。子どもたちに何ができるだろう。どうやったら、自立した子に育てられるだろう。そんなことを考えながら、いろいろな書物を読み漁りながら手探りの毎日だった。

虐待された経験があると自身も虐待するとか、愛情を知らずに育った人は愛情を知らないが故に共依存になりやすいだとか、自分を振り返ればぞっとするような言葉ばかり目に入ってくる。そんな中でも何冊かの心理学の本に支えられて、また自分のような思いをこの子たちが抱えないように、それだけを考えていた。そのためにどうしたら良いのか?私がして欲しかったことをすればいいんだ。24歳で長男を産んだ私が思いついたことはたったそれだけだった。

一人一人、同じなんてことはないし、どの子も産まれるまでは命がけ。いや産まれてからも、いろんな病気や事件がある。兄弟が増えるだけ、互いの存在に右往左往する。子どもを持ってから、親という立場になったことで自分の幼い時の思いと向き合った。私の子育ては間違ってないか。子どもならどう思うか。手をあげないと思っていても、つい手をだしてしまい、情けなくて泣いたことも幾度もあった。それでも、何より私は子どもたちのことは命に代えてもいいと思えるくらい愛おしかった。この子たちはどの子もかけがえのない存在だ。それが私の生きる支えになっている。しかしながら自分がして欲しかったことの何分の一も実際はしてあげられていないから、子どもたちがわたしをどう思っているのかは、本当のところ分からない。怖いから聞けないが、自分は良い子を演じていたから、こどもたちの中に私の前では演じている子がいないか?不安でもある。

これから後何回、こんな話ができるだろう。成長していく子はどんな大人になるだろう。みんな私のもとから巣立っていく。寂しいけど、自立。それだけを強く願っている。

子育てをしながら、自分を育てなおしていたような気がする。自分の力ではどうにもならないことがたくさんあって、何一つ元には戻らないし、戻せないけど。そういうのを乗り越えたところに自分の到着点があるのかなって。結局、私にとって子育ては勝ち負けのない、自分との闘いでもあったんだ。

今までに得たモノを私がどう生かせるか?

これからは人生の応用編な気がしてきた…。それはそれでうーん、難儀やね。ま、なるようにしかならんけど。もう少し、ジタバタしてみようか。


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