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自分を責める癖

新興宗教にのめり込んでいた養母の言葉やその仲間の言葉に随分心を蝕まれていたんだなって、半世紀を生きて来て改めて愕然とする。

身体も弱く扁桃腺炎を起こしやすい私だった。気管支炎もよく併発する。しょっちゅう病院に通っていた私に、養母は扁桃腺が腫れるのは、私の根性が悪いからだと。親の言葉に返答しないからだ、言うことを聞かんからだと、まるでダジャレのような理屈で私を貶めた。

そんな馬鹿馬鹿しいことが平然と、まるで理念としてまかり通る教団に、冷ややかに属している自分。それなのにそんな風に考える私はやっぱり地獄に堕ちるだろうと、気づくと薄らと洗脳されてる。

これが情緒を育む時に暴力と共に植え付けられているから、厄介だった。先述したように、病気も怪我も、天災すら己の心がけだと言われる始末。そんな訳ないやろって心の端っこで思っていても、やっぱり私が悪いんだと思ってしまう思考の癖を根付かせてしまっていた。

思考を変えていかないと生きずらい性質の私。生まれながらと養育の段階で作られたHSPの私。全ての悪夢ですら、自分のせいだと、自己犠牲を美徳と思って生きてきたから、随分苦しんだ。嫁ぎ先まで新興宗教に付きまとわれ、私を苦しめた。

自分の思考を殺し、滅私奉公せよと再三再四唱えさせられ、必然的に共依存を生み出し、元々モラルハラスメントな配偶者に、より強大なハラスメントを与えた。愛という名のもとで行われる日々の生活が次第に私を蝕んでいくのに気づかないくらい、壊れていく自分。その刃を向ける親も配偶者も全く自覚もない。命を削る思いで、子どもたちを守ることのみが生きる使命だった。

世間で身内と呼ばれる人間に心の半分を壊されたが、血の繋がりのない人たちに救われた私。そして、もがき苦しむ私の中の小さな自分が私に知識を得よと、心の奥で叫んでた。片っ端から、手当り次第に本を読み、自分の感覚が間違っていないか?自分の感情の動きを、私は何故そう考えるのか?それをただただ検証したくて、脳科学、心理学、精神学、宗教とは何か、理解できる範囲で啓発本を読み漁って、今ここに至る。そしてようやく新興宗教の抜け殻を処分できるようになった。

目に入るものが変わるだけでも、心は軽くなる。先祖供養は大切だけど、縛られる必要はない。先祖の過ちを私が背負う必要もない。歪んだ認知で、自分を責め続けてきた半生。おかしいことに気づかないってことが異常なのに、信じることで救われたと思ってしまう。そういう人や、養母が私にはしあわせには見えなかった。いつも誰かの批判、非難、罵倒。それが洗脳の一端だと、知っていても、自分たちは違うと平然といいのける。自分ならどうなのか?と、視点を変えることも出来ない、しない。意見をすれば異端扱い。罵詈雑言の嵐。両親の葬儀の際に思い知らされた。まぁそれが完全に抜ける覚悟を決めたきっかけだった。

ふふっ。私、良く抜けられたね。今になって本当にそう思える。でもまだ自分の心の奥底に澱む自己否定の癖を減らしていかないとね。自分の日々の事象にいちいち意味なんか見出さなくていいんだよって。ねぇ、結果が良かったら神さまからのプレゼントってことにしたら良いじゃんか。毎日、必死に生きてるんだし、運とやらが良いか悪いか知らないけとさ、意味を探すより楽しいことを探そうよ。人にやさしくできることが素敵なことだって知ってるんだよ!周りの人たちに感じる気持ちを自分に向けたらいいんだよ。周りの人の言葉を素直に嬉しがる自分でいたいんだ。歪んだ認知の中で育ち生きてきたクセに、染まらなかった自分。すげぇじゃんって。

支えてくれる人がいる。本当にやさしくそっと背中を撫でてくれるような言葉をかけてくれる人がいる。笑いながら、それだめよって言ってくれる人がいる。横で一緒に泣いてくれる人がいる。私にはそんな友や仲間がたくさんいる。生きることは大変だ。楽したいし、依存したくなるし、嫌になって投げたしたいこともある。誰かを嫌いになったり憎んだりしちゃうこともある。でもさ、素敵な出会いに感謝を忘れないでしあわせってなんだろう?って目指していたら、ここに辿り着いたよ。

もっと楽しく、優しいしあわせを感じたいから、つまらない癖は少しずつ消していく。そして小さな私が満たされていくの。


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