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オリーブの苦みは甘味に変わる

オリーブの実は若くても熟しても、齧りついたら塩辛い苦みがあって、とても食べられない。
ではどうするのか?圧搾し油にするなど人の手を加え、使いやすいように加工するのだ。

それと同じことが人間にも起きているのではなかろうか。

私達が「不幸だ」と嘆くことの大半は、別の視点から眺めると反省材料になったり、危機的な場面で経験として自分を勇気付けてくれる。
私達の経験は解釈によっていかようにも意味付けできる。解釈は経験を加工できると言えるだろう。
そういう視野に立ってみると、経験そのものは良し悪しを超えたものとして完成しているのだ。 

では何がそうさせているのか?私はそこに神の存在を感じてならない。

あらゆる成長は独力で果たせるものではない。
独力で果たしているつもりでも、体をつくる食事は生産者や運送者の手を何度も経て食卓へ登っているし、また心の中では誰かの姿や過去の自分が支えになってくれている。どこかで必ず依存関係が生まれて、相互に依存し、影響しあう。

この依存と影響を与える時に生まれるパワーが、キリスト教(ローマカトリック)における三位一体のあらわれの一側面なのだろう。

ちなみに三位一体(トリニティ)は精霊、主、キリストであるとされる。
三位一体とは何か、という問いに対する明確な答えは存在せず、しばしば議論の対象になるらしい。

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