見出し画像

「生ぬるさ」の正体を探る

ガツガツ働いている人がいて、一生懸命で。嫌なことがあっても我慢して、立派に働いてお金を稼いでいる。その人を家で支えている人たちもまた、厳しさに触れながら生きているのが垣間見える。

私、おだやかに働けてるし、人間関係にも恵まれている。嫌なことは嫌だと表明してまわりと話すことで、ある程度、納得しながら働ける。
自分にも人にも優しくしたい。

こんな私は生ぬるいんだろうな、と思った。

「生ぬるく生きる」が次のテーマだな、と思った。

でも、今、仕事・家事・子育てと頑張ってる私は、生ぬるくなんかない、とコメントをもらった。(彩乃さん、ありがとうございます)

そうか、生ぬるくないのか!と驚いた。

これから「自分がいかに生ぬるいか」を語ろうとしていたところだった。

そうか、私、生ぬるくないのか!←2回目。

「生ぬるい私」とは

そうか、「私は生ぬるい」というのは思い込みだったのか?←まだ半信半疑

重たい感情とともに、ぼんやり頭の中で挙げていた「生ぬるい私」を言葉にしてみたら、いっぱいエピソードが出てきた。noteの下書きとして書いて、眺めてみた。

学校と私

驚いたことに、あふれ出てくる内容は、学校関係(と塾)だった。
「生ぬるいやり方で上手くいってズルい」と大人に言われ続けていたのかもしれない。

私は、自他ともに認める「まじめな人間」だけど、勉強に関しては「まじめにやっていない」と人に言われることが多かった。

本人はめちゃくちゃまじめにやってるつもりだけど、そのやり方が人とは違う。

自分の興味があることを突き詰めて考える。本を読んでいろんな知識を吸収し、ぼーっとした時間を過ごし、自分の頭で考える。学校や塾で教わる「ここが大事」が大事なポイントに見えないことがある。

自分の「最適」が先生の思い描くものからズレている。

ノートと私

授業中は全集中で先生の話を聞いている。教科書や黒板を見て、先生の話を聞いたら、ある程度頭に入るから、ノートに書く意味が見いだせない。ノートに書けと言われるから書くけども。ノートを見返すことも少ないし。

そもそも、自分の考えを文字にしようと思ったら、手が文字を書くスピードが遅すぎて、もどかしい。

小学校高学年のとき、親のワープロを借りて文字を打つようになり、高校に入るころには、自分で創作した物語をワープロを使って書いていた。当時、フロッピーに保存してたなぁ。懐かしい。

高校生のとき、切り取ってファイリングできるタイプのノートを見つけて、好んで使っていた。

一冊のノートに、全教科、授業を受けた順番に書いていく。結局、ファイリングすることなく使うから、数学の次に日本史、その次に生物、英語、みたいな、なんでもかんでも詰め込まれたままになっていた。

そんな私のノートを見た当時の担任(社会)の先生が、「これはないやろう!」みたいな反応で。「ノートはしっかり整理しないと」と、怒られたわけではないけど、先生の何かモーレツな反応を目にした。

その時、自分が否定された気分になって、その先生のことが嫌いになった。今思えば、先生は自身の「当たり前」から大きく外れた私に、激しく反応しただけで、私に何かを伝えようとしたのではないかもしれない。

私は自分の「最適」な形として、そうしているのに、それは先生の「常識」から外れている。

ま、社会科は苦手だったんだけど。文字を眺めていても覚えられない。いくら赤文字が大事と言われても、大事さが伝わってこない。大人になって、教科書には書ききれない人間ドラマがあるのを知ってから、社会科が面白いと思うようになった。

どうも、学校での腑に落ちない思い出が、というか、学校という流れに沿えていない自分が「生ぬるい」と感じるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?