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寄り添いたい心

期待

自分がコーチングセッションを受けたいと思って、コーチを探そうと思ったとき、自分に似た経験をした人や、自分よりさらに激しい経験をした人を探そうとしていた。

だって、自分のことをスルっとわかってもらえそうだし、自分の思いを話しても引いたりされないですむ気がしたから。

実際、何人かとお話して、すごく面白い経験となった。なんだか、会う人会う人「自分もそんなときがありました~」という反応が共通している。
これはいったい何だろうと思った。

自分に似た人と出会えているということだろうか。
この方たちが、自分の道の行く先にいる人たちということだろうか。

でもその気持ちの距離感が、少し寂しくも思えた。

結局、自分としっかり向き合う必要がある、ということがわかって。
もちろん、コーチたちは自分と向き合うサポートも提供してくれる。でも、私には、まず自分と向き合うための時間を確保する必要があった。

サポートを依頼したところで、コーチとお話しできる時間を取ることが難しい現状。自分一人になれる時間はほとんどない。一人になろうとすると、夫にかなりの負担を強いることになる。そこまでして、やろうとは思わなかった。

そんなとき、noteという場は、自分のペースで自分と向き合える、私にとって大切なものになった。

気持ちの距離

気になるnoterさんが「気軽に書いたものが、予期せず反響がすごくて驚いた」というのをいくつか目撃して、書き手が書いたものが手を離れてしまう瞬間を見た気がした。

自分の感動を、悩んだ末にコメントしてみたものの、それを予期していなかった書き手の方には重すぎたかも、と思う瞬間もあった。

私はその方に寄り添えたらいいな、という気持ちでnoteを読んでいることが多いように思う。でも、その方にとってみれば、見ず知らずの人間が、理解できるはずもない自分の気持ちに、頼んでもいないのに寄り添おうとしてくるのは、気持ち悪いことかもしれないな、と思った。

私が読んで、自分の心に取り込んでる時点で、書き手からその書いたものを切り取って奪っているのかもしれない。自分のものにしてしまう。

円空さんのことも似たような気分になった。
江戸時代初期に生きた円空さんの心を勝手に想像し、幼い時に母を目の前で失ったことが、きっと仏像を彫る遠因になっただろうなと思った。12万体も彫るなんて、よっぽどのことだから、きっとそれが原因だと思った。

でも、他にどんなことがあったかもわからないし、どんな気持ちだったとか、どんなことを考えていたかなんて、想像でしかない。勝手に切り取ってしまうのは、乱暴なことだなとも思う。

寄り添いたい

でも、寄り添いたい気持ちは、まぎれもない自分の気持ちだ。
その気持ちを、わかってほしいとも思わないし、押しつける気もない。

私は同じような壮絶な経験をせずに生きてきた。

そんな生ぬるい私にできることは何だろうか。

元気づける気もない。その人のタイミングがあるから。

言葉にしたくなったら、ここに私が居る。ただ、受け止めるだけだけど。
きつい言葉を投げつけられても、ただ、受け止めるだけ。別に離れて行ったりはしない。

ただ、ここに居るから。
言葉にしてくれたら、その言葉を受け止める。

そして、他人だからこそ軽く受け止められることもある。少しだけ気持ちを切り取って、他の人のものにしてしまえば、少しは心が軽くなるだろうか。

自分の心

自分の中に、寄り添いたい気持ちを感じるようになって、まだまだ自分がさらしていない部分があるなぁと思った。そこを言葉にしてからじゃないと、人に寄り添えない気がする。

あえて言葉にするのを避けていた部分を、さらしたくなってきた。


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