平行世界

を観測することはわたしたちには不可能だけれど、それでもときどき平行世界の自分について考えるときがある。
あれだけいろいろ書いていたくせにわたしはしれっと、いわゆる"担降り"というものをした(むしろ方向性的にはものすごい勢いで階段を駆け上がっているけど)。その気持ちに嘘いつわりはないし、それ自体にはまったくなんの後悔もないけれど。Jr.の1年ってデビュー組の3年に匹敵すると思っていて、そんななかで実時間で5年Jr.担をやっていたのだから、そんなに簡単に置いていけないというか、、掛け持ちしているつもりはないけど、時間軸が枝分かれして、いまだに涼をいちばんにおいている自分がそこに残っている気がする。

わたしは涼を愛している、とおもっているが、赤の他人である以上、とうぜんそれは虚像を愛しているにすぎない。わたしは無意識に自分のままならなさを涼のままならなさに重ね、涼の生きづらさを自分の生きづらさに重ねてしまう。涼のことを好きな自分を認めてほしい、という自分の根底にある願望は、そのまま自分の存在を認めてほしいという願望であり、それを発見するたびに、なんとまああさましいことよと嘆息する。
しかし、現実のほうが虚像に重なってきていると思ってしまう瞬間がたまにある。もちろんそれは、その虚像が現実をもとにつくられているからだし、究極的にはわたしの自他の境界が狂っているだけなのだが。けれど、よく考えれば涼ほど自分が他人からどうみえているか、みられているか、ということについて敏感な人間もいないのであって、であるならばその姿が自分の望む像と重なることは、さほど不思議なことではないのかもしれない。
涼のことを考えるたびいつも連想するのだけど、十二国記に華胥の幽夢という話があり、そこに理想の国の姿をみせるという枝が出てくる。しかし、それはほんとうはそれをみる者にとっての理想の国がうつしだされている、というものなのだけど、それはとても涼に似ている。みる者が、こうであってほしい、もしくはこうであるに違いない、と思う姿が、そのままうつしだされるような。アイドルとはみなそういうものかもしれないけれど、とくに強くそういう性質をもっていると思うし、だからこそ、同じ言動にたいしてもおたくによってここまで捉えかたが異なるんだろうなと思う。

アイドルの人気は容姿でもなく、スキルでもなくパフォーマンスでもなく、ただひとつイメージのみによってかたちづくられる。いや、それはアイドルにかぎらず、人間みなそうなのだけど。顔や、歌やダンスの実力や、当たり役などはすべてイメージを形成したり変更したりするのに寄与するにすぎない。セルフブランディングの巧さ、自分をよくみせる能力の高さ、言ってしまえばある種の狡賢さこそがアイドルには必要なのに、それが涼には欠如している。
わたしがここまで涼に感情移入してしまうのは、たぶん涼がアイドルとしてのペルソナを確立する前にであってしまったからだ。それはであった時期が早いとかそういうことではなく、自分が人前に立つ者であるという自覚を得るのはひとによって遅い早いがあり、涼がたまたま、自分がジャニィズJr.であることは自覚していても、それが芸能人であるとはまだ完全には自覚していない、それに気づくのが遅い人間だったからだけど、その剥き出しの生身を知ってしまっている(と思い込んでいる)ことが、わたしのなかに深く深く根付いてしまっている。いや、他人からみえる自分をだれより気にしているくせに、それは矛盾しているのだけど、そういう背反が涼のなかには平気でたくさんあって、それもまた涼のことを特別に思う一因だった。

しかし、やはり平行世界は観測できないのだし、観測できない以上わたしたちにとってそれは存在しない。存在しない時間軸のことをあれこれ語っても意味がないのだ。

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