4月3日

 我々はこれから見るものに対してはどんなものも軽蔑しないつもりである。恐らく、こんなにして一貫して接していったなら、ついには理論的な定義よりも、もっと何か融通のきくものを我々は手に入れるであろう。−−長い附き合いから生まれる知識のように、実際に即した親密な知識を。そして、恐らく、またそう望んだものでもないのに、ひとつの有益な知識を得たことに気がつくであろう。

アンリ・ベルクソン『笑い』(岩波文庫、12)

 どんなものも軽蔑しない、という快哉さに胸を打たれる。正の方向に一貫することは、親密さと有益さにひらかれるということでもある。それは社会的になる、という無機的な用語では表せない機微である。
 アレジオンを飲んで寝たので今日は花粉症がかなりマシになった。会社に行って書類と、会議の準備をする。準備で1日が終わる。
 昼休みには高山宏『近代文化史入門』(講談社学術文庫)を読みすすめる。18世紀初頭は日記が最速最強のメディアであったと目に留まった。日々の時間を記録して集積するという発想自体が革命であったという。フェルメールの絵画のモティーフにも手紙を読む女性、書く男性が多く描かれることから「書く」という行為の流行を証する手つきは流れるようだった。
 どんなものも軽蔑せず、という不可能にちかい点を、少しなりとも意識した。